第7話 冬休み
去年の十一月のこと、僕は七年勤めた会社を辞めた。住んでいた賃貸アパートも引き払い、実家に身を寄せることにした。身を寄せるという言い方には、やむにやまれぬ、といった含みが感じられるので、この場合の言い方としては適当でないかもしれない。世間的な常識に照らせば僕くらいの年齢の大人が実家で親と同居する場合、脛を齧る側ではなく、親を養う側だと思うのだ。けれど僕の場合はそうではなかった。独立して起業しようという意気があったわけではない。キャリアアップを狙った転職のための退職、ということでもない。働くということに単に嫌気が差しただけで、収入のない生活の緊急避難先として、実家に戻ることにしただけだったのだ。当初は実家の気楽さに日々を怠惰に過ごしていた。
十二月に入ると世間の空気が慌ただしくなってきて、その様子を横から眺めていただけの自分の状況を、僕は気詰まりに感じ始めていた。親には何も言われはしなかったけれど。
サワさんから電話があったのは、そんなふうに鬱屈していた時期だった。あまりに唐突で僕はびっくりした。ひさしぶりの会話でもサワさんは単刀直入だった。「姉さんから聞いてるよ。ひまでしょ、手伝って」
僕が先月で仕事を辞め、今無職なのを知っているということだ。さもありなん。母とサワさんは昔から仲がよかった。今でもよく電話でしゃべっているし、一緒にどこかへ遊びに行っているのも知っていた。
「忙しくて猫の手も借りたいくらい。ちゃんとバイト代も払うよ」電話口でサワさんは言った。てきぱきと小気味よいしゃべり方は昔のままだ。僕が小学生の頃、遊び相手をしてくれた時の感覚そのままに、今もしゃべっているようだった。
サワさんの言う「手伝い」は、わさびの収穫だった。正月に値の上がるわさびは、これから年末にかけて短期間で収穫、出荷をするために大忙しになる、ということだった。
「三日、いや二日手伝って。家に帰るのは面倒でしょう? その間うちに泊まればいいよ」
泊まればいいよ。その言葉に僕は少し身構えた。確かにいちいち家に帰るのは面倒だ。けれどサワさんは一人暮らしだ。二十九歳の、一応大人の男である僕が泊まることに抵抗はないのだろうか。やっぱり小学生を相手にしている感覚なのかもしれない。いや、そもそも身内なのだった。僕はそんなことを考えた自分が恥ずかしくなって口ごもった。サワさんの半ば強引な誘いに気圧されるように僕はその「手伝い」を了承してしまった。声を聞いて、ひさしぶりにサワさんに会ってみたい気にもなっていた。
サワさんは母の妹だ。子供の頃、母が「サワちゃん」と呼んでいたのにならって年の近い叔母を僕は「サワさん」と呼んでいた。最初は母と同じように「サワちゃん」と呼んでいたけれどサワさんに訂正された。
「私の方が十も年上なんだから『さんづけ』にしなさい」真面目な顔で言った。
小学生の間は毎年夏休みに母の実家へ泊まりがけで遊びに行った。うちから電車で一時間ほどの山あいの町。築百年ほどだという母の実家は山の中腹に、その斜面にへばりつくように建てられていて(「懸け造り」という建て方だそうだ)、山道を歩かなければ、たどり着けない場所にあった。母は三姉妹の真ん中で、一番上の伯母が婿養子を迎えて家督を継いだけれど、もっと至便な町中へ移り住んでいた。実家には祖父と祖母、末のサワさんの三人が暮らしていた。
毎年訪ねるうちで一度だけサワさんのいない夏休みがあった。その年の春サワさんは結婚して家を出ていたのだ(今勘定してみるとサワさん十九の時だ)。その翌年の夏休み、実家にはサワさんがいた。僕は不思議に思ったけれど、そのあたりの事情は聞いてはいけないのだと、子供心に思った覚えがある。
夏休みに遊びに行くと、たいていサワさんは祖父と一緒にわさび田にいた。僕は荷物を置くと、すぐにわさび田へ遊びに行った。杉木立の奥へ続く小暗い道を行くと沢に架かる橋があって、橋の下から沢伝いに道があった。この上にあるわさび田を、祖父が拓いた時に整えた道。作業の利便を図って道幅も広く、平坦にならされて歩きやすい。右手の斜面に塩化ビニール製のパイプが長く延びる。沢の水を家まで引いていたのだ。生活用の水は、それですべてまかなわれているという。道がゆるく右に曲がり始めると、その先にわさび田が現れ、しゃがみ込んでわさびの世話をしている、祖父とサワさんの姿を見つけることになるのだった。そこで僕は二人に構われながら沢ガニを捕ったりして遊んだ。サワさんはその頃から、わさび作りに興味があったのだろうと、今にして思った。
終着駅のひとつ手前で電車を降りた。約束の日は雨上がりの翌日で朝から冷え込んでいた。ホームに立つと頬に当たる冷たい外気が心地いい。車内は暖房が効き過ぎて暑いくらいだったから。扉を閉めた電車がのろのろと動きだしてトンネルへ消えた。全体が急峻な山の中にあるこの町では電車はトンネルを抜けて駅に停まり、駅を離れてまたトンネルへ入る。線路が一本だけの小さなホームに駅舎はなく駅員の姿もなかった。僕は手にしたリュックを背負って伸びをした。見上げた先のとがった山々に鉛色の雲がのしかかっている。峡谷の山あいから見上げられる空は狭い。午後三時、狭い曇り空から差す冬日は弱々しく、早や夕暮れの気配が感じられた。
僕は誰もいない改札へ向かった。改札の手前にベンチがあった。ベンチの背にもたれて両足を投げ出すように寝入っている女の人がいた。投げ出された長い足は細身のジーンズに包まれ、履いている黒のゴム長は泥に汚れていた。毛糸の帽子をかぶり、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで、顔の半分をマフラーにうずめ、目を閉じていた。僕を迎えに来てくれたサワさんだと思ったけれど顔が見えないので声をかけるのがためらわれた。何しろ十四年ぶりなのでサワさんがどんな顔をしていたか記憶も曖昧だった。肩がゆっくり上下していて寝息まで聞こえた。この寒空の下でよく眠れるものだと感心して眺めていると、規則正しく聞こえていた寝息が一瞬乱れ、途端にその女の人はぱちりと目を開けた。人を見据えるような大きな三白眼。間違いなくサワさんだった。
「ひさしぶり」サワさんはそう言うとマフラーをあごの下まで引き下げて立ち上がった。吐く息が白い。立ち上がると僕とさほど変わらない背丈だ。小学生の頃は知る由もなかったけれど背の高い女性だったのだ。あらためて見ると十四年前とちっとも変わったように感じられない。
「あたり前でしょう。成長期の十四年とは違うよ。あなたは立派な大人になって、私はゆるやかに老化してるの」
立派な大人。僕は皮肉を言われたように感じてしまい、そう感じた自分が無性に腹立たしかった。「老化って、まだ四十でしょう」
「まだ三十九です」
サワさんはからからと笑った。本当に「からから」と音がしそうな湿り気のない笑い。昔と変わらない笑い声を聞いた途端、その笑い方がとても好きだったことを僕は思い出した。芝居がかった慇懃無礼のもの言いは、子供に対して照れながらも親しみを込めてしゃべっていたのだな、と今なら分かる。サワさんはどんな十四年を過ごしたのだろう。
最後にサワさんに会ったのは祖父の葬儀で僕は中学三年生になっていた。杉木立の奥へ続く小暗い道を棺をかつぐ大人たちと一緒に歩いた記憶がある。その先にぽつんとひとつ墓があった。あの葬儀は土葬だったのだ、と後になって思い至った。中学生になってからは母と出かける機会も少なくなりサワさんと会うのも三年ぶりだった。フォーマルな黒のワンピースを着て忙しく立ち働くサワさんに僕はびっくりした。うっすら化粧までしていて別人かと思った。ジーンズにTシャツ姿で化粧っ気のないサワさんしか見たことがなかったから。サワさんは中学校の詰め襟の制服で葬儀に出ていた僕を見つけるとゆっくり微笑んでそばに来た。「大人になったね」と、ささやくように言った。
祖父が亡くなった後、高齢の祖母の、山暮らしを心配した一番上の伯母が自分たちと一緒に住まないかと言ってきて、祖母は移り住むことになった。サワさんだけが山あいの古い家に一人で暮らし続けた。何か思うところがあったのだろうか。
サワさんが先に立って歩きだした。僕は二泊分の荷物の入ったリュックを背負い直し、後に続いた。山襞に巻いてつけられた道が、崖下の線路と並走してなだらかに上ってゆく。車一台がやっと通れるほどの道幅だけど実際この道に車で入ろうとする人はいないだろう。十五分ほど歩いたところに母の実家、サワさんの住む家がある。
「夏は涼しくてよかったけど、今の時期はかなり寒いですよね」
「寒いよー。山あいの底の方にはあまり日が差さないから」
「サワさんはわさび農家になったんですか?」
兼業だよ、サワさんは答えた。役場の仕事もしながらわさびも作ってる。大した収入にもならないけれど。
「荒れちゃったわさび田を見るのも哀しいしね。お父さんのわさび田だし」
サワさんが芝居がかったしんみりしたもの言いをするので僕はまぜっかえした。
「バイト代、出るんでしょうね?」
サワさんは振り向くと不敵に笑った。やっぱり芝居がかっている。
「見くびるなよ」見くびるな、ときたか。
「あと、さっきから気になってるんだけど、なに敬語使ってるの?」
「年上を敬えって言ったじゃないですか」
「そんなこと言ったっけ」
サワさんはまたからからと笑った。
歩いてきた道がそのまま家の前を左右に延びる細い庭につながった。庭は昔、下に国道が通るまで道として使われていたと、母から聞いたことがある。今歩いてきてそのことがよく分かった。庭の土が踏み固められているのも道だった名残なのだろう。道は細くなりながら小暗い杉木立の奥へ続いていた。その先にわさび田があって、さらに先に祖父の墓がある。庭の真ん中の古い柿の木。右手の小さな池とその際の梅の木。池の上へ伸びた梅の枝先にモリアオガエルの卵が産みつけられているのを僕は夏休みの度に見た記憶がある。左手に赤いトタン屋根の母の実家。昔のままのはずなのにその庭はずい分と狭く、家も小さいように感じられた。
サワさんがいきなり玄関の引き戸を開けた。
「カギ、かけてなかったんですか」
「えっ? ああ、ちょっと家をあけるくらいなら。夜、寝る時もかけ忘れることが……」
「サワか? 勝手に入ってるぞ」
突然、家の中から男の声がして僕は驚いた。
「ああ、武夫ちゃん」サワさんはまったく動じる様子もなくゴム長を蹴るように脱ぐと奥の台所へかけ上がった。灯りが点いて薄暗かった玄関が明るくなる。僕は転がっていたサワさんのゴム長を拾って沓脱石の上にそろえて置いた。
「冷凍庫に鹿肉入れといたぞ」
「ありがとう! ここんとこ冷え込んできたし昨日は雨も降ったから、今日あたり獲れるかなって、思ってた。イノシシは?」
「獲れなかった」
「えーっ」
僕は玄関の前にぼんやりつっ立ったまま、「武夫ちゃん」と呼ばれた男の人とサワさんのやりとりを聞いていた。中に入るタイミングを逸した気分だった。サワさんの話す声音に、なんと言ったらよいのか、そう、犬が甘噛みするような、そんな響きを感じたからかもしれない。玄関から続く板張りの台所で、話している二人の姿が見える。
「明日はワナの見回り、連れてってよ。いつも言ってるのに」
「この前、危なかっただろう。しばらくおとなしくしとけ……あれ?」
不意に「武夫ちゃん」が、ちらりとこちらを見てサワさんに向かって言った。
「誰?」
「手伝いに呼んだ甥っ子」
「ああ、バイト君か。俺も手伝うんで、明日よろしく」
武夫ちゃん――いや、武夫さんが片手を上げて出てきた。後をサワさんがついてくる。
「甥っ子は今日うちに泊まるから、さっきの鹿肉を夕飯にふるまうよ」
武夫さんは玄関でごつい靴に足をつっ込むと腰を下ろした。「前乗りか」靴のひもを結びながら顔も上げずに言った。
僕は話しかけられたのか独り言だったのか分からず曖昧にのどを鳴らした。この人は猟師なのか。小柄であまり力も強そうには見えない。ただ体の周りに何か独特の空気をまとわせているような、そんなふうに感じた。武夫さんは「じゃあ明日」と言うと僕とサワさんが歩いてきた道を駅の方へ帰っていった。
「寒い、寒い。早く入ろ」武夫さんを見送ってサワさんは家に入った。後に僕も続く。奥に見える台所でサワさんがやかんを火にかけている。その時、昔から玄関にかけてある柱時計が午後四時を告げる鐘を鳴らした。
「この時計、まだ動いてたんですね」
「私が毎朝、ネジを巻いてるから」
戸棚から茶筒を取り出しながら、サワさんが言った。
僕は居間に入るとこたつを点け、筒型の古い灯油ストーブにも火を点けた。こたつに入り、肩までこたつ布団を引き上げて温まっていると、サワさんがお茶の用意をして入ってきた。手に持っていたやかんをストーブの上に置く。やかんの濡れた底が、ジュッと音をたてた。
「お風呂も沸いてるよ。入っちゃって。その間に夕飯の支度をしておくから。明日からの仕事に備えて今日は英気を養って。お酒、飲めるんでしょう?」
そんなふうに言われて、まるで山あいの温泉宿にでも来た気分になる。
「飲めますけど……。明日の仕事に支障がないくらいに」
「もちろん、分かってるよ」
サワさんはうれしそうに言った。
その笑顔を見て、お酒、好きなのかな、と思った。いつも晩酌をしているのだろうか、この居間で。僕はふと天井を見上げた。大きな屋根を支える真っ黒の太い梁に、屋内配線の電線がむき出しで取り付けられている。しんとした部屋に、玄関の柱時計の音がかすかに聞こえる。この部屋で、一人で酒を飲んでいるサワさんを想像してみた。とても絵になる。サワさんのことだから銘柄にはこだわらず、地元の酒蔵の純米酒なんかを適当に飲むのだろう、きっと。
「そういえば、さっきの武夫、さんって?」
「ああ、武夫ちゃんは子供の頃からの友達。同級生。この上に家があるよ」
この上にまだ、人の住む家があるのか。武夫さんのまとう独特の空気は、そんなところで生まれ育ち、長く暮らすうち、自然と身についたものなのか。深山幽谷に住む動物が、年を経て人に化けたような不思議な存在感、と言ったら失礼か。
「武夫ちゃん、公務員だよ。職場の同僚」
僕は拍子抜けした。僕の想像する勝手な公務員のイメージと、武夫さんの雰囲気が、あまりにかけ離れていたから。
「猟師としての収入は微々たるものだろうし、兼業。私と同じ」
サワさんが勤めている役場というのは水道局の出張所で、武夫さんは水源林の保全が仕事だという。仕事で日々、山を歩き回っているそうだ。ああ、なるほど。僕は何かに納得する思いだった。
部屋が暖まってきて、居間から続く広縁のガラス戸が、白くくもり始めていた。
風呂から上がってきた時こたつの上には、サワさんの手料理が並べられていた。温まった体で、すっかりくつろいだ僕は、ますます温泉宿へ来た気分になる。
「もらいものばかりだけどね」
サワさんは言った。
「すごいですね。これ、モツ煮ですか」
僕は目の前の小鉢を指差した。
「そう。イノシシのモツ煮だよ。先月、武夫ちゃんにもらったんだ。この辺りだとイノシシの肉は肉屋でも売られてるけど、モツは手に入らないよ。それからヤマメ、は分かるか。こっちはコシアブラとワラビの油炒め。春に採って塩蔵しておいたのを戻して作ったの。山菜は天ぷらが定番だけど、私は油で炒めるのが好き。そっちの鹿刺しはよく見て食べて。大雑把にさばいてあるから、毛が残ってるところがあって」
僕は鹿刺しの一枚を箸でつまんで目の前に持ってきた。
「ああ、灰色っぽい短い毛がついてますね。固そうな毛だ」
「さっき、武夫ちゃんにもらったやつだよ」
それにしても酒肴ばかりの夕飯だ。これで酒を飲んで食事は終わりなのだろうか。サワさんの食生活はこんなものなのか。
「それじゃ」
サワさんが日本酒の一升瓶の首を片手で持って、僕の差し出す大振りのぐい呑みに、過たず酒をついだ。酒は地元の酒蔵の純米酒だった。僕も一升瓶の首を片手で持って、サワさんのぐい呑みに酒をつごうとしたけれど、重くて手が震え、こぼしそうだったので、瓶のお尻に手を添えて何とかついだ。
「二日間よろしく」
サワさんが言って、僕のぐい呑みに自分のぐい呑みをぶつけてくる。
「たまには人と飲むのもいいかな」
「いつも一人で飲んでるんですか?」
「一人で飲むのは好きだけど……。まあ、外にお店もないこんなところじゃ、家で飲むしかないし、人に料理をふるまう機会もないし」
僕は鹿刺しについていた短い毛を指でつまんで取りのけ、おろしにんにくをのせて醤油にひたし、思い直してさらにおろし生姜ものせ、口に入れた。酒をひと口飲んで「うまい」と言うとサワさんはうれしそうな顔をした。
「武夫さんと飲むことはないんですか?」
「あるよ」
あるのか。
「武夫ちゃんと飲む時は料理をふるまわれる側なので。そこの刺身こんにゃく、武夫ちゃんが作ったんだよ」
そう言ってサワさんは手酌で飲み始めた。刺身こんにゃくをつまんではひと口、鹿刺しをつまんではまたひと口。小気味よいペースですいすいと飲む。そんな様子を見ていると、誘い込まれるように、つい酒を過ごしてしまいそうだ。武夫さんと飲む時も、こんなふうに飲むのだろうか。
僕はモツ煮に箸を伸ばした。やわらかく煮込まれた甘みのある肉が、口の中でほぐれる。どこの部位だろう。さっぱりした脂だ。
「再婚すればいいじゃないですか」
酒を飲んだ勢いも手伝って僕は言ってみた。
「一度で懲りたしね」
言いながらサワさんは僕のぐい呑みに酒をついだ。
「結婚して暮らしたのが海辺の町で、潮臭くてかなわなかったし。ここより他で暮らしたくないって、そう思った」
「こんな不便な山の中が、そんなにいいですか?」
少々言い方にトゲがあったか。僕はひやりとした。
サワさんは、僕の言葉などには頓着せず、ぐい呑みに残っていた酒を干すと、空いたぐい呑みに自分で酒をつぎ「そうねえ」と、のんびりした口調で話し始めた。
「さほど不便に感じたことはないよ」
サワさんは言った。
勤め先まで電車で一駅。駅前には商店や小さなスーパー、コンビニだってあるという。
「現代人だもの。今の便利な生活を手放す気はないよ」
ストイックに自然と対峙して生きるとか、何かの主義とか思想とか、そんなものを持っているわけではないという。それでもサワさんは、山で暮らして山へ分け入る。春にはタラの芽やコシアブラなどの山菜を採りに、秋には栗拾いやキノコ狩りにと。
今はワナ猟をしたくて、武夫さんに頼み込んで山に仕掛けたワナを、一緒に見て回っている。来年には狩猟免許を取るつもりだそうだ。
「先月、武夫ちゃんに無理言って、止め刺しをさせてもらったんだ。その時、鹿に蹴られてケガしちゃって」
失敗、失敗と言いながらサワさんは、左手で前髪をかき上げた。額にまだ新しい、小さくはない傷跡が見えた。
「この程度で済んでよかったよ」
自然とともに暮らすとか、自給自足の生活を信条にするとか、そんなことを考えていないのなら、そこまでしなくてもいいでしょう、という僕の問いかけに、サワさんは「やってみたかったから」と簡潔に答えた。
「何かをやる時、その理由を人にどう説明したらいいかなんて、いちいち考えないし、人を納得させられる理屈って大体後づけだし。だから――」
サワさんは空いていた自分のぐい呑みに酒をついだ。
「潮臭くてかなわない、っていう理由も、うそじゃないんだけど、分かってもらえなかったみたい」
いきなり離婚の理由に話が飛んだので、僕は笑った。
「それでどうしたんですか?」
興味をそそられて聞いてみた。
「それっぽい理由をくっつけたよ。事実より、説得力のある方が大事みたいだからね、世間では」
僕は、サワさんの元旦那に同情した。けれど一方で、サワさんの言い分に、素直にうなずけない自分を、つまらない男だと思った。
「あ、でもね。トイレはずい分前に浄化槽に替えといてよかったよ。そうしてなかったら引っ越してたかも」
サワさんが空気を変えるように笑いながら言ったので僕も笑った。
夏休みに遊びに来た時、祖父がトイレの汲み取りをしているのを見たことがある。長い柄杓で桶に汲み取って、天秤棒にぶら下げた二つの桶を畑の隅にある肥溜めまで運んでいた。子供だった僕は、その様子をおもしろがって、祖父についてまわった。祖父にはさぞ邪魔だったことだろう。
女性にはきつい仕事かもしれないけれど、サワさんならやってしまいそうな気もする。
「飲み水なら、沢から引くだけなのにね」
サワさんは言った。
一升瓶のお酒は、底に少し残るくらいになっていた。僕の飲んだ分量を考えると、サワさんが半分以上飲んだ勘定になる。サワさんは多少口調がくだけたくらいで顔色も変わらず、あまり酔ったようにも見えない。そんなサワさんを見て、僕は本音をぶつけてみたい気分になってきた。
「一度くらい結婚してみな」
先手を取られた。
真面目な顔でじっと僕の顔を見るので、うろたえてしまう。
「あー、働き口を見つける方が先だよねー」
サワさんは容赦なく、からからと笑った。やっぱり酔っているのか。本音をぶつけてみようとか、そんなことはどうでもよくなってきた。
「働かざる者食うべからず。叔母の贔屓目で大目に見るから存分に食べて。とりあえず明日と明後日は仕事があるし」
サワさんが空いた皿を台所へ運んでいって、洗い物をする音が聞こえだした。
僕は居間に一人、手酌をしていたけれど、もう十分という気分で、形ばかりぐい呑みに口をつけていた。ストーブの上に置かれたやかんが、小さく音を立てながら湯気を吐いている。しんとした部屋の中、やかんが湯気を吐く音と洗い物をする音だけが聞こえていた。
僕は鹿刺しをつまんだ。今度の鹿刺しには毛はついていなかった。居間から続く広縁のガラス戸は真っ白にくもっている。僕はふと、ここは真っ暗な山の中なのだ、と思いついた。今、この半径一キロ以内に、何人の人間がいるのだろう。武夫さんはその半径に入っているだろうか。
武夫さんが作ったという、刺身こんにゃくをつまんだ。丸めてちぎっただけの無骨な形をしていた。刺身こんにゃくは、たいてい酢味噌で食べるものだけど、わさび醤油が添えられていた。箸でつまんだ刺身こんにゃくを、わさび醤油にひたして口に入れた。こんにゃくが芋だということが、よく分かる味だ。つるっとしたこんにゃくの噛み応えと違っていて、歯に食いつくような食感だった。これには、わさび醤油がよくあった。
酒はもう十分だと思いながらも、目の前に酒肴ばかりが並んでいると、つい飲んでしまう。明日のために自重しなければ。僕はずい分と赤い顔をしていたと思う。顔が熱い。
「締めの飯だぞ」
ぞんざいに言って入ってきたサワさんが、小振りの丼をこたつの上に置いた。
「何ですか、これ?」
盛られたご飯にかつお節がかけられていることは分かるけど。
「わさび?」
ご飯の上に、おろしたわさびとかつお節をのせた丼ものらしかった。
「私が丹精したわさび。醤油をかけて、かき混ぜて」
これはえらく辛いのではないか? 僕は醤油を回しかけ、かつお節とわさびにまぶしたご飯を恐る恐る口に運んだ。
辛くない。いや、辛くないわけではない。鼻につんと抜ける辛味が、さわやかな風味に感じられた。味覚を痛めつけるような、乱暴な辛さではなく。僕は驚いてサワさんの顔を無言で見た。
僕がどんな顔をしていたのか、自分では知りようもないけれど、僕の反応に満足したようにサワさんはうなずいた。
僕は居間の隣の、四畳半の座敷に布団を伸べて、その上に寝そべった。泊まりがけで遊びに来ていた子供の頃、いつも寝ていた部屋だ。この部屋にも天井に、黒光りする太い梁が渡されている。
サワさんは、屋根裏を改装して自分の居室にしたそうだ。いつもそこで寝起きしているという。昔は養蚕をしていて、屋根裏には蚕棚があった、と母から聞いたことがある。僕の記憶では屋根裏は物置で、上がったことがなかったから、僕が遊びに来ていた頃は、もう養蚕はやめた後だったのだろう。
サワさんは蚕棚の柱を補強し、その上にマットレスを置いて、ベッドにしているという。なんでそんなところで、という僕の思いを見透かしたように「せせこましいところで、小さく丸まってると落ち着くよ」と、サワさんは言った。
畳を踏む音がして湯上がりのサワさんが、ふすまを開けた。頭にタオルを巻きつけている。畳の上にぺたりと座って、
「明日は八時起きでいいよ。私、朝飯前にワナを見回ってくるから」と、言った。
ほてった顔をして体全体から湯気をたてている。
「武夫さんは、しばらくおとなしくしとけって、言ってたけど?」
布団の上に半身を起こして僕は言った。
「迎えに来るよ。絶対」
サワさんは、小首を傾げるような姿勢で、右肩あたりにまとめた髪を、両手でタオルにはさんで叩く。そのまま目だけをこちらに向けた。その目は武夫さんが来ることを確信しているように見える。
「どうして分かるんですか?」
「女の勘。まあ私、勘は悪いんだけどね」
そう言って、にっと口角を上げたサワさんの笑顔には、言葉とは裏腹の余裕みたいなものを感じる。そしてすぐにその笑顔を引っ込めると、「まあ、とにかく……」と、言った。
「何ですか?」
サワさんにしてはめずらしく、歯切れが悪い。
「人生は意外と長いよ。あ、いや何でもない」
サワさんはそそくさと立ち上がり「おやすみ」と言って出ていった。
もしかして励まそうとするつもりだったのか? 僕は布団にもぐり込むと、その中で丸くなった。次第に笑いが込み上げてくる。
「あ、そうだ」
すぐにサワさんの声がして、驚いて僕は布団から顔を出した。サワさんがふすまを開けてのぞき込んでいる。
「何ですか?」
「明日の朝、時計のネジ巻いといて」
サワさんは言った。
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