第8話 亀鳴く
三鷹駅南口の三番乗り場からバスに乗る。駅周辺の雑多な一画を抜けると辺りは住宅街になり、やがて風景はいきなり平たくなった。空が広く緑が多い。
大学に受かって上京し、通学の便のよさから下連雀に住み始め、もう十年になる。会社との往復と駅周辺を飲み歩くくらいで、元々出不精だったこともあり、住んでいるところの近くに、こんな風景が見られるとは思わなかった。
バスがしばらく走ると、前方に巨大な緑の塊のような林が見え始める。――あの一画がそうなのか。平たい周囲から取り残されたような鎮守の杜の風景は、それだけで威容を誇るようだった。
どうもアイツには似つかわしくない場所ではないのかな、と思う。待ち合わせは深大寺に午後二時。丁度良い時間のはずだった。
昨日の夜のこと、いつもの「わに屋」へ飲みに行くと「はい、これ」とマスターからメモを渡された。「明日、深大寺、2時」と書かれている。「理子ちゃんから」とマスターは付け加えた。「さっきまでいたんだけどね。『友達に誘われた』って言って、吉祥寺に飲みに行っちゃったよ」
理子とはお互いこの店の常連で、以前から顔は見知っていたけれど、会話を交わすようになったのは、この二ヵ月ほどのことである。実家から送られたという「だだ茶豆」を理子がマスターに差し入れしていた時、たまたま客として居合わせた僕に、お裾分けが回って来て、それ以来だった。
小柄で、黒目がちな小さな目をくるくる回し、人懐こくしゃべる様子を見て「カモノハシみたいだ」と思ったので、その通りのことを口にしたのだけれど、これでは褒めていないかもしれないと思い直し、慌てて「愛嬌があってかわいいよ」と言い足した。それをどう受け取ったのか分からないが、カモノハシという形容をいたく気に入ったらしく、次に会った時「ほら」と言って、カモノハシをデフォルメしたキャラクターの携帯ストラップを見せられた。
そんなふうに会話を交わすようになったのだけど、時々「たまにはおごれよお」などと、間延びした口調で言うものだから、そういう時は「大人は自分の責任で酒を飲むものだ」と応えることにしていた。それでも一人暮らしで、吉祥寺のチェーンラーメン店でアルバイトをしているという理子に「武士の情け」と言って、たまにはおごることもあった。
一度「就職浪人?」と尋ねたことがある。理子は澄ました顔で「モラトリアム中」などと答えたのであった。モラトリアム中? そういえば年はいくつなのだろう?
「この前、理子ちゃんとやりあってたでしょう?」マスターが言った。
そうなのだ。そんな理子が不倫の恋をしているなどと言うものだから、たまげてしまい、つい説教じみたことを口にしてしまったのだ。
「不倫の恋なんて成就した試しはない」とか「そもそも理子はそういうことを楽しめるタイプではない」とか、そういった論旨だったと思う。合間に理子は「結果がすべてじゃない」とか「私のことなんか知らないでしょう」とか反論していたはずだ。
「参ったなあ」僕は言って生ビールのお代わりを頼んだ。
「それで、この伝言でしょう。ちょっと意味深じゃない?」
生ビールを注ぎながらマスターは言う。
僕はあいまいに笑って見せて、気の利いたことを言おうとしたけれど、なかなか思いつかなかったので「彼女はプラクティカルジョークが好きなんですよ」と言ったら、マスターは困ったような顔で笑った。
終点の深大寺でバスを降りると午後二時に五分前だった。梅雨の合間のよく晴れた蒸し暑い日で、濃い緑の木陰にいると時折り吹く風が心地良かった。
唐突に携帯電話が鳴った。理子からのメールだった。「飲み過ぎ、寝坊、遅れる」。それだけが書かれていた。
「まったく」と思いながらも不思議と腹は立たず、むしろ微笑ましいような気分になって「何時頃に来られそうかということも書いておけ」と返信しようとしたけれど、そんな文面では今のこの微笑ましいような気分は伝わらないので、返信するのは止めて「アイツらしいや」と思う。
「どのくらい遅れるのかな」と思いながら深大寺の参道を歩く。深大寺蕎麦というのは聞いたことがあったけれど、なるほど蕎麦屋がたくさんある。絶えず聞こえる水の音が涼しげで、どこかで風鈴が鳴っていた。
とりあえず生ビールを買い込み、池のほとりのベンチに腰を下ろす。池の中ほどには岩があり、たくさんの亀が甲羅干しをしていた。よく見ると亀はうまい具合に重なりあっていて、時々バランスを崩した亀が池に転がり落ち、水音をたてる。しばらく見ていると結構頻繁に亀は転がり落ちるのだった。縦長の紙コップに注がれた生ビールをあおりながら、そんな光景をのんびりと眺める。
生ビールを飲み干した頃「あの」と声をかけられた。振り向くと小さなおばあさんが、照れたように笑っていた。一人で参拝に来て串団子を三本買ったのだけど、食べ切れないので残った二本をあげる、と言う。餡子と胡麻の二本の団子がのった紙皿を受け取り、僕はますます微笑ましい気分になるのだった。
「甘いもの好きだったっけ?」
という声にベンチから顔を上げると理子が立っていた。
「生ビールを飲みながら団子を食べて君を待っていたのだ」
少し照れる気持ちもあったものだから、僕は鷹揚に芝居がかった言い方をした。
「ごめん、ごめん。反省してる」
理子の方も芝居がかった、拝む格好をする。
「化粧する間も惜しんで急いだから今日はすっぴんです」
悪びれる様子もなく言う。いやこれはたぶん、理子なりに悪びれているのだ、と僕は思い直す。
「とりあえず、この団子を食べてくれ」
僕が言うと、理子が並んでベンチに腰掛けた。
「亀ってさ」池の亀を眺めながら理子が言った。「甲羅干しをきちんとしないと死んじゃうんだよ」
「ホントか?」
「そう。だからのんびり甲羅干しをしているように見えるけど、あれは過酷なサバイバルの真っ最中というわけなの」
僕はしばらく考えた。時々もっともらしい嘘を言って人をかつぐようなところがあるのだ、この人は。
「のどかな風景だなあ、なんて思っていたでしょう?」
僕はもう少し考える振りをしてから、まずは気にかかっていたことを言った。
「この前はすまん。言い過ぎた」
「ん、いいよ。気にしてない。そんなことより遅れたお詫びに蕎麦をおごるよ。その前に1ステージ見物してから」
「1ステージ?」
その疑問には答えてくれず、理子は立ち上がると僕の腕をつかんで、引っ張って行った。
涼しげな風鈴の音が聞こえる店の向かいにその蕎麦屋はあり、前には人だかりができていた。「もう始まってる」と言う理子の視線の先は道路に面したショウウインドウで、中では職人が蕎麦を打っていた。「なるほど『ステージ』ね」その店で出す蕎麦を打つ様子を、道行く人に見せる趣向のようだ。生地がみるみるうちに薄く大きく延びてゆく。
「ああいうふうにね」理子は職人の手元を一心に見つめている。「ひとつひとつの工程を丁寧にこなしていく職人の仕事って素敵だと思わない?」
その意見に僕はまったく同意見だったので、小さくうなずいた。
「川路さんって言うんだよ。あの人」
「えっ、何。知り合い?」言いかけてあらためてショウウインドウをうかがう。
その職人は、年は四十前後に見えた。妻も子供もいる年だろう。仕事には誠実な職人の厳しい顔つきをしていた。
工程は薄く延ばした生地を折り畳み、見事な手さばきで細い蕎麦に切ってゆく段になっていた。一把分を切り終えると、その度に前に置かれた箱に並べてゆく。何と言ったものやら。その手際に感心する余裕もなく、会話の継穂をなくした僕はしばらく黙っていた。
そんな僕の様子に頓着せず、理子は「お蕎麦食べに行こう」と言って池の方へ歩きだした。気まぐれな理子の行動に、あわてて後を追う僕を振り向くと理子は「健康のため、一日一食蕎麦を食べましょう」とバスガイドのような口調で宣言した。
茂った木々に覆われた小暗い階段を上がった所に、その蕎麦屋はあった。何かを燃やした後の匂いがしていて滝の落ちる音が聞こえる。
「あの蕎麦屋で食べるんじゃないのか」僕は聞いた。
「私ね、食べるとぽきぽきするような十割蕎麦が好きなの」
理子は僕の質問には答えず、先に立ってその店に入る。
午後も遅いこの時間、他に客はおらず、屋外に設えられたテーブルに木漏れ日が差していて、長椅子の上には黒猫が一匹寝そべっていた。
「あのさ」
向かい合って席に着くと少し照れたように理子が切り出す。
寝そべっていた黒猫が、寝そべったまま伸びをした。
「私もうね、川路さんのことはどうでもいいの。この前はちょっと意地になって」
「いやいや……」
僕は口ごもった。こういう会話になると、男は劣勢になりがちである。
「それでね」と理子が言いかけたところで注文したもり蕎麦がテーブルに置かれた。しばらく互いに無言で蕎麦をたぐる。こうしたところが二人とも律儀である。
理子は「それでね」とか「あのね」とか言いながら蕎麦をたぐる。
その度に僕は「うん」とか「ああ」とか、ちゃんと聞いているよ、という意思表示をするのだけれど、ちっとも話が進まない。
次に「だからね!」と言った時の理子は、明らかに声の調子がおかしかった。
僕が怪訝な面持ちで、蕎麦から顔を上げると大粒の涙をこぼす理子と目が合った。
「これはその……」
慌てて言い訳をしようとする理子の声は完全に泣き声で、その反動でしゃくり上げると、蕎麦がのどにつまったのか、激しく咳き込んだ。
その瞬間だった。
僕はもうほとんど反射的に「つき合ってみないか?」と理子に言っていた。
顔を上げた理子は泣き笑いの表情で、左の鼻から一本、蕎麦を出していた。
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