第9話 弥子さんの散歩

 意外なことに、弥子さんは散歩が好きだ。住んでいる下連雀のマンションから、深大寺くらいまでの距離なら、足ならしだそうだ。歳も三十半ばを過ぎ、腰回りの肉付きが気になり始め、少しは運動しようと考えたのが、散歩を始めたきっかけらしい。「走るのはきついから、ウォーキングをしようとしたんだけど、背筋を伸ばすとか、歩幅がどうとか、やり方が面倒で、今はただ散歩してるだけ。それが思いの外楽しくて」両腕の肘を九十度に曲げて大きく振る仕草を見せながら、弥子さんは言った。弥子さんの腰回りの肉付きが、どの程度のものなのか、服の上からでは知る由もないけれど、肉付きの一因と思われる、酒を控える様子は一向にうかがえないのである。「どちらかというとインドア派なんだけど、うっすら汗をかくくらい歩くと気持ちいいし、その後のビールもおいしく飲めるし」そう言った弥子さんは、自分の発言と目的の矛盾に気づき、「ダメな、私」とつぶやいた。用意をするとか、予定を立てるとか、そうした行動が苦手な弥子さんは、何の準備もせず、気軽に出かけられる散歩が、性に合ってるんじゃないか、とその時僕は思った。


 誘ったのは弥子さんの方からだった。桜がすっかり散った頃のこと、退社時間に帰り支度をしていたところへ、「明日、ヒマ?」と声をかけられた。私もヒマだし、陽気もいいし、散歩に付き合わない? と弥子さんは言ったのだ。一瞬、何を言われたのか分からなかったけれど、明日の休日、二人でどこかに出かけようと言っているらしい。僕は喜んで承諾した。実は前々から、弥子さんのことが気になっていた、ということではなく、職場の先輩の誘いを断る模範解答を用意していなかったから、ということでもなく、女性から誘われた、という事実、その一点のみに、舞い上がってしまったのだ。


 翌日、弥子さんの言う散歩は、言葉の綾ではなく、文字通り散歩だった。野川に沿った遊歩道をぶらぶらと深大寺まで歩く。昼ごはんは、道中、護岸されていない野川の土手に、ビニールシートを敷いて、弥子さんの作ったお弁当を食べた。「定番」と言って出してくれたお弁当は、鮭とおかかと梅干しのおむすび、唐揚げと甘い玉子焼きだった。小学生の遠足のような、この散歩が、僕にはたいそう心地よかった。けれど一方で緊張もしていた。女性と相対した時に、どう振る舞うのが正解か、いちいち考えてしまうからだ。女性との交際経験に乏しいことが理由だろうと見当はついているけれど、問題の解決に向けて、深く考えたことはない。そういえば弥子さんは、歩いているといろんなことを考えると言っていた。僕が考えごとは苦手だと言うと、「じゃあ散歩、してみるといいかも」と言った。そんなふうに始まった弥子さんとの散歩は、大体二週ごとに弥子さんが誘ってくるので、梅雨入りの頃にはすっかり習慣となっていた。二週間ごとというサイクルが、僕にはちょうどよかった。


 梅雨の間は散歩が捗らない。毎週雨が降るわけではないけれど、天気を気にしながらの散歩は、今ひとつ気分が乗らない。今にも雨が落ちてきそうなその日は、井の頭公園をぐるりと巡り、弥子さんのマンションまで歩いた。「ウチに寄ってよ。お茶くらい淹れるよ」と弥子さんは言い、今日は今ひとつ盛り上がりに欠けたから、ちょっとしたイベント。ケーキでも買おうか、と続けた。

 弥子さんの部屋はあっさりしたもので、六畳のフローリングのワンルームに、シングルベッドとローテーブルが置かれているだけだった。僕は率直に、女らしくない部屋だなあ、と思った。一人暮らしの女性の部屋を他に知らないけれど。「どうぞ」と言って、コーヒーを置いてくれた弥子さんに、どうして僕を誘ったのか、聞いてみた。以前から聞いてみたいことだった。弥子さんは「え?」という不思議そうな顔をして、「与しやすし、と思って」と言った。その答えを聞いて僕は、楽に付き合えそうだ、と思った。付き合う? お互いに決定的な言葉を交わしていない、この状態を何と呼ぶべきか、僕はどう振る舞うのが正しいか。「百戦錬磨、なんですね、弥子さんは」僕が言うと、弥子さんは「百戦錬磨とか、言っちゃう? そういうの分からないでしょう。無理しないで」と言った。その瞬間僕は、自分の振る舞いが正しくなかったことを知った。


 梅雨が明けるといきなり真夏になった。その週はサイクルからすれば、弥子さんと会う週ではなかったけれど、僕の方から深大寺へ誘った。初めてのことだった。弥子さんは少しの間逡巡する様子を見せたけれど、結局承諾した。


 当日午後一時。僕は弥子さんのマンションまで迎えに行った。呼び鈴を押す。ドアの向こうで人の動く気配がするものの、なかなかドアは開かない。ようやく出てきた弥子さんは半分眠っているような顔で、寝ぐせをたくさんつけていた。「まあ、入ってよ」と言いながらベッドに潜り込み、「朝帰り……」とつぶやいた。二日酔いで、あと一時間もあれば復活するから先に行ってて、と言うのが精一杯の様子だった。


 そうして結果、僕は一人で深大寺にいる。本堂へのお参りはせずに水生植物園に入った。弥子さんの好きな場所の一つで、最初の散歩の時にも来た場所だった。草木が奔放に伸び広がっている様子と、水辺が好きだという。「谷戸のせせらぎや湿地に生育する生物を観察できます」案内の看板を声に出して読んでみる。炎天下の水生植物園は人影もまばらだった。

 深く切れ込んだ谷戸の両脇にそびえる木々は、生命力溢れる獰猛な濃い緑に葉を繁らせ、弥子さんと来た時の新緑の面影は微塵もない。その木々に見下ろされるように真ん中の木道を歩く。足の裏に伝わる木の感触が心地よく、いつまでもこの上を歩いていられそうな気がした。歩きながら考える、と弥子さんは言った。深く考えることが苦手な僕は何を考えればよいだろう。行く手はミソハギに埋め尽くされている。ピンク色の小さな花をつけ、丈高く伸びたミソハギが強い風に大きく揺れている。葉ずれの音が耳ざわりなほど大きくなり、遠雷が聞こえた。

 ここ三ヶ月、歩く時はいつも隣に弥子さんがいた。今、こうして一人で歩いてみると、内面がのびのびする感じがする。ずっと一人でやってきたのだ。今まで棚上げしていた問題が、ばらばらと降りかかってきた気分だった。風がいっそう強くなり、見上げるといつやって来たのか、空は黒雲に覆われて暗く、稲光が見えた。と同時に落雷と思われる大音響に辺りは包まれ、ビー玉のような雨粒が落ちてきた。目の前に見える東屋に向かって走り出す。数メートルを走る間に全身がずぶ濡れになってしまった。中のベンチにへたり込むように座ると、尻に貼り付くジーンズの感触が不快だった。雨樋のない東屋は軒から雨水がとうとうと流れ落ち、その先の地面を穿った。雨だれの忙しなく落ちるところを僕はぼんやりと眺めていた。弥子さんは昨日の夜、どこで誰と飲んでいたのだろう。そんな思いが頭をよぎる。けれど考えはまとまらない。濡れた服が体にべったりと貼り付く不快感に思考を邪魔されるのだ。うそ寒くもなってきたし、空腹も感じる。

 急に心細さがやってきた。こんなところに降り込められて、寒さと飢えにさいなまれて。小さな子供のように、家に帰りたくて泣きたくなった。

 激しい雨に風景は薄墨色に変わり、強い風にミソハギが髪を振り乱すようにうねっている。その風景の中を、赤いものが近づいてくる。目を凝らすとそれは傘だった。黒いレインコートにゴム長を履いた人影が、赤い傘を差して、こちらに向かってゆっくりと木道を歩いて来るのだった。

 こんなところへ、そう都合よく弥子さんが来るわけがない。そんなはずはない。と思う間に、黒い人影は東屋の入り口に立ち、レインコートのフードを取った。

「おまたせ」と弥子さんが言った。

「はい、お弁当」と言って弥子さんが差し出したのは温かいおむすびだった。

「空腹で寒くて、死ぬかと思った」と僕は言った。

「大げさね」

 僕は弥子さんの手を握った。

「来てくれてありがとう」

「握り方が不慣れね、やっぱり」

 そんなことは、もうどうでもいい、と思った。

「部屋の風呂、貸して下さい」

 弥子さんは、大きく見開いた目を、くりくりさせて言った。

「この近くに、いい立ち寄り湯もあるのだけど……どうしようかな」

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