第10話 箱庭

 ハナは本当は「華恵」という名前なのだけど、自分の名前を好きではない。持ち重りのする感じがして。呼ぶ時は「ハナ」にして、とつき合い始めた頃に言われた。そして「書く時はカタカナで」と言った。

 ハナは水辺が好きだった。山あいの小さな町で、家の裏が沢と棚田で、水の流れる音が絶えず聞こえる場所で育ったから。「こういうこと言うの、照れるけどね」言いながら教えてくれた。

 ハナは深大寺に住んでいた。それで僕は深大寺が寺の名前ではなく、町の名前だと知った。そう言うと「お寺もあるよ」ハナは真面目な顔で答えた。住んでいる家は、叔母に安く借りていると言っていた。「叔母のために借りてあげてるけど、駅から遠いところがね」不満げに、そう言ってもみせたけど、山あいの実家に出戻って一人で暮らしている叔母を、ハナは好きなようだった。狭い庭を菜園にして野菜を育てている様子から、満更でもないように思えた。水辺、と言えなくもない場所でもあることだし。


 その家は、六畳の二間続きの座敷があって、申し訳程度の台所が設えられた、赤いトタン屋根の小さな家だった。狭い庭に立てられた園芸用の支柱に、大きな濃い緑の葉が茂っていて、葉陰にキュウリが見え隠れしていた。収穫した野菜を叔母に送ると、手厳しい批評が返ってくると、ハナはうれしそうに言っていた。見上げるほど、背の高い木立に囲まれたそこは、深大寺の杜の一部なのだった。

「うちにおいでよ」と言われてから、僕は度々ハナの家を訪ねた。たいていは週末に。日曜日の朝は、ハナの家で目を覚ますことが、じきに習いになった。これほど近しく女性とつき合ったのは、三十半ばのこの歳で初めてだった。

 ハナを間近に感じた時、僕はその存在感に驚いた。小柄で薄い体をしたハナでも、四十数キロの体重があるだろう。人という曖昧な存在を、四十数キロの重みをもった物として感じた時、その現実の手応えに圧倒されたのだ。こんな物が降ってきたら、と僕は飛び降り自殺に巻き込まれた人が、ひとたまりもないのも当然だ、と考えた。「おもしろいこと言うね、祐平は」ハナは言った。「そういうとこ、好きだよ」

 最初からハナは唐突で、理の勝ったタイプだと自分で言うわりには、とりとめがなかった。「ダメ男と、どうしても別れられない女がうらやましいくらい」と言って、「あ、そうでもないかな」と言い直したりした。「私にも好みのタイプがあるんだよ」ハナは言った。その範疇に僕が入っている、というだけのことだ。祐平だって私じゃなきゃ、ってことはないでしょう。きっとハナは、そうも考えているのだ。理の勝ったハナならば。「人との関わり方、しゃべる間合いやしゃべり方、そういう些細なことに、祐平とは共感できると思ったから。それが大事で、それで十分。しゃべる声のトーンですら、気に障る人がいるよ、私」

「共感」。そんなふうに言葉にされると、つかみどころのなかったハナに対する感情が、調えられていく気持ちになった。自分の感情を言葉にして初めて知る思いだった。言葉にする前は模糊としていた。僕はハナとしゃべっていると楽しい。「祐平は、蕎麦をコーラで食べられる?」


 日曜日の朝に目を覚ました時、ハナがいないことがたまにあった。この周りを散歩しているという。「どこを歩いても水の気配があっていい気持ち」ハナは言った。これも照れながら。自分のこだわりを人に話す時、ハナは照れ隠しに笑った。その照れ笑いを見る度にうれしくなった。「こんなことを話すのは君だけ」と言われている気がしたのだ。

 一度、朝の散歩を後から追いかけたことがあった。この界隈にいるのだから、どこかで会えるだろうと思って。その日は梅雨入り前のよく晴れた朝だった。前の晩から降っていた雨が上がって、日差しがこれから蒸し暑くなりそうに感じられた。

 本堂の、山門の前を左右に伸びる水路に、あふれそうな勢いで水が走っていた。この時間は、居並ぶ蕎麦屋から開店準備の喧噪がするだけで、観光客の姿もなく静かだった。日差しを避けるように雑木林の木陰へ、水路伝いに道を歩いた。木漏れ日がはるか上から降ってきて、水路からひんやりとした空気が立ち上っていた。薄暗い雑木林の底には、背の低い雑多な木や草が生えていて、その合間に小さな白い花が点々と、灯るように咲いていた。よく見ると水が流れていた。あふれた水が行き場をなくして無秩序に流れている、といった様子だ。幾筋もの細い水の流れが、草木の間を下って一つに連なり水路に流れ込んでいた。この辺りは豊富に湧く水が、たて横に切られた水路を巡っていた。ハナの言う「水の気配」を感じられたように思った。何も手を加えなかったら、この一帯は湿地だったのだろうか。

「そうかもしれないね、たぶん」ハナはほとんど深大寺の杜のはずれで、四角く切り出されて、横倒しにしただけのような石に腰かけていた。ハナの見上げる先で二匹の竜が、勢いよく水を吐き続けていた。「不動之瀧」瀧の名が掲げられていた。「自然に手を加えたら、それを維持する手間が要るよね……。あの竜の上のところで、落ち葉を掃除してるおじさんを見たことがあるよ。水路が詰まると竜が水を吐けなくなるから」ハナは言った。「あの竜、ちょっと受け口でしょう。水を吐くというより、飲み過ぎちゃった水を、口からあふれさせてるみたいで。かわいい」


 ハナの家を訪ねる時は、三鷹駅から南へ下るバスに乗った。街中の雑踏を抜けたバスが、妙に広々とした平たい風景の中へ入ると、その先に巨大な濃い緑の塊が現れた。深大寺の杜。あの中にハナの家があるのか、と思うと、ハナが深い森に住む不思議な生き物めいて感じられた。ハナと会っていた時間を後で思い返すと、どこか現実感が希薄だった。そのせいじゃないかと思った。バスに揺られ、次第に近づいてくる緑の塊を眺めていると、非日常に足を踏み入れるような気がしてきた。

 ハナを間近に感じた時の現実の手応えは、家に帰って一人になった途端、するりと指の間からこぼれ落ちた。ハナが不意にいなくなっても、やっぱりあれは僕の妄想だったのかと、納得してしまいそうだった。不安が入り混じっているのに、悪い気分ではない。ゆらりとした、この気分は何だろう。いつまでも、その気分の中をたゆたっていたい。でも、そういうわけにもいかなかった。現実は、時間が過ぎるし事情も変わる。「叔母が亡くなったの」ある日、ハナが言った。「この家を引き払わないといけなくなりそう」


 ハナは唐突に僕の前からいなくなった。連絡をとる気になればとれるのだから、いなくなったという言い方は適当でないかもしれない。あれこれ考えているうちに時機を逸してしまったのだ。

 叔母という人が亡くなって、少しばかりハナは悄然としていた。悄然とした気持ちを前面に出すようなハナではないから、僕は何となく落ち着かない心地でいた。ハナには、何か思うところがあるように感じられた。

 ひと月ほど経って、ハナは一つ小さなため息を吐くと「よし、引っ越す」と宣言した。事を決めた後の、ハナの行動は速かった。元々家具付きで借りていた家だ。手早く荷造りを済ませると、僕には何も知らせずに、引っ越していったのだ。その顛末を僕は、あわあわと眺めているばかりだった。そんな成り行きだったのだ。連絡するのもためらわれた。年相応の世間知を身につけた大人ならば、こうした時、とるべき行動を知っているのだろう。知らないという引け目から、僕は現実を薄めて感受して、子供のようにふるまっていたのだ。だからハナは僕に何も言わなかった。子供に相談しても仕方ないのだから。

 今になってハナに対して抱いていた、つかみどころのない感情が何だったのか、よく分かる。答えを得て初めて疑問の正体を知った思いだ。

 僕はハナが好きだったのだ。


 ハナの引っ越し先は叔母の家ではないかと、ふと思うことがある。

 蕎麦をコーラで食べてみようかと思うこともある。

 ハナに連絡してもよいのではないかと、思わないこともない。

 今でも、深大寺へはたまに行く。


 赤いトタン屋根の小さな家の玄関には「売家」の看板が下げられている。

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