第11話 屋上にて

 軽量鉄骨二階建てのそのアパートには屋上があった。古い単身者向けのアパートで、一つの階に三つという部屋数のアパートだから、さして広い屋上でもない。屋上に上っても住宅の密集したこの辺りで見えるのは、近隣の家の屋根か、もっと高いマンションの窓や壁ばかりである。取って付けたような屋上だけれど、要一はたまの休日にそこでビールを飲むことがあった。やることもないヒマな休日に(実際、そんな休日ばかりだ)、昼間から部屋で飲むのも気分が鬱々としそうで、青空の下でならと思ってのことだった。

 二階の自室から、缶ビールと乾き物のつまみを入れたレジ袋をぶら下げて、その日も要一は鉄製の外階段を上った。初夏や秋口の陽気のいい頃には、頻繁に屋上で飲んだものだった。秋が深まり寒い日が続いて、しばらく足が遠のいていたから、ひさしぶりに屋上に上ることになる。

 冬にしては妙に暖かな日だった。太陽は真上にある。要一が屋上に顔を出すと、一つだけ置かれたベンチに腰かけている男と目が合った。

 男が小さく会釈をしたので、要一も「こんちは」と言った。ここにいるからには、このアパートの住人なのだろう。屋上で人と会うのは初めてだった。

「どうも、すみません」男は言った。

 そうは言うものの、取り立ててすまなそうにしているようにも見えないし、要一は気にしないことにして、ベンチから少し離れた柵にもたれかかった。缶ビールのプルタブを起こす。

 路地を挟んだ目の前に隣の家の屋根がある。暖かな冬の日差しに青灰色あおはいいろのトタン屋根が鈍く光っている。要一は、柵に背中をあずけるように姿勢を変えると、ひと息にビールを飲んだ。爽快なのどごしに、ふーっと大きく息を吐く。

「洗濯物を干しにきたんじゃないんですか」男が言った。

 屋上の真ん中には物干し台が一つあって、ステンレス製の竿が二本渡してある。各部屋の窓の軒下にも、物干し竿をかけられる吊り下げ式のフックが付いているけれど、日当たりを慮って大家は屋上に共同の物干し場を作ったという話だ。その割に物干し竿が二本というのは少ないし、実際、洗濯物の干されているところを要一は今まで見たことがない。

「洗濯日和だけど、今日は飲みに」

「すみません、俺がいて。ここ、座りませんか」

 断るのも角が立つように思って、要一は男の隣に座った。

「ビール、どうですか」

 何となく流れで、要一はレジ袋から缶ビールを取り出す。

「ああ、どうも」

 へりくだるような態度だった割に、男は遠慮なく要一が差し出す缶ビールを受け取った。プルタブを起こした男と缶をぶつけ合って、乾杯のまねごとをする。男は「すみません」と、また言った。

「怒ると口きいてくれなくて、彼女」

 ビールをひと口飲んで男は言った。

「ずっと黙ってるから部屋の空気が重たくて、耐えられなくなって」

「はあ」

「それで、ここに避難してきたというわけで」

「はあ、そう、なんだ」

 我ながらまぬけな相槌だと要一は思う。けれど、そう言うしかないではないか。初対面の相手から唐突に痴話喧嘩の話を聞かされても。会ったばかりの赤の他人に、いきなりそんな話をする様子と、男のへりくだった態度が妙にちぐはぐでおかしくなる。要一は男の顔を見た。

 自分とそう変わらない年齢だろう。三十前後といったところか。細面で鼻筋が通っているけれど、草食動物を思わせる黒目がちな小さな目で、やや間延びした印象を受ける。まずまず、いい男の部類に入るだろうが物静かで口数も少なそうだ。さっきからの会話も気を遣って無理にしゃべっているように感じられ、マジメな男なのだろうと思う。「彼女」と日頃、どんなふうにやり取りをしているのか、その様子が想像できる気がした。

 要一は喧嘩の原因を聞いてみた。別に他人の痴話喧嘩に興味などないのだけれど、男の顔立ちや物腰に好意をもったから、それを接穂にもう少し話をしてみたいと思ったのだ。

 どのみちヒマつぶしにと、酒の肴にする話だ。

「彼女の話にいい加減な相槌をうってたから、かな……たぶん」

「はあ」と言った要一は、自分もまたさっきからいい加減な相槌をうっていることにおかしくなる。

「仕事のグチなんだけど言い方がきつくて」

 なるほど、八つ当たりか。結構きついタイプの女のようだ。

「怒りの矛先にされちゃってるんだ。まるで自分が責められてるみたいに感じる、と」要一は言った。

「ああ、それだ」

 ずい分と人の好いことだ。要一は思う。積極的に女にアプローチするタイプには見えないから、つき合い始めたきっかけも、きっと女の強引な押しを、土俵を割るように受け入れてしまったのだろう。来る者拒まず、というより断れないタイプか。

 もちろん、それは本人の責任だ。そう思いながらも要一は男を擁護してみる。

「彼女の方は、相手がそんなふうに感じてるなんて微塵も思ってないよ」

「元々不満は多いんだけど、この前、退職勧告みたいなことがあったようで、それで荒れてるのかな」

 男はあごを上げて、ぐっと缶ビールを飲んだ。

 シャープなあごの線だ、要一は思う。そのあごに少しばかり伸びた無精髭が見える。毎日ヒゲは剃らないのか。あるいは、昨日は彼女の部屋に泊まりだったのかもしれない。ん?

「このアパートに住んでるんじゃないの」

「いえ、彼女がここに住んでて。昨日は泊ったんです」

 酸っぱいものでも食べたような顔をして、男は言った。

 同じアパートの住人でないのなら、それほど気を遣わなくてもいいか。

「いずれにしても彼女は、普通にしゃべってるだけのつもりだから。『会社に不満をぶつけてるだけなのに、なぜあなたが責められてるように思うの?』って、不本意なんじゃないかな。彼女にしてみれば」

 要一はレジ袋から柿の種を取り出して、小分けされた袋の一つを男に手渡す。

「どうも」と言って、男は柿の種を受け取った。

 袋の端を縦に小さく裂き、手のひらに柿の種を振り出して口に放り込むと、ビールをひと口飲んだ。

「言われてみれば、思い当たるところもあるかな」

 要一も柿の種をかじってビールを飲む。

「思い当たる?」

「散々文句を並べた後に、今度の週末どこ行こっかなんて、さくさく計画を立て始めたり。こっちはそんな気分じゃないんだけど」

「その気分を伝えても、たぶん彼女は理解できない。それどころか、そんな気分になってるなんて知ったら……」

「なじられそう」

 ふっ、と短く息を吐く音がして要一が男を見ると、男は肩を揺らしている。下を向いて声を立てずに笑っているようなのだった。

「あーあ」

 男は笑いながら、空になった缶を握りつぶして顔を上げた。缶ビールは二本しか持ってきていない。

「河岸かえようか。俺の知ってる店でよければ」

「そうしよっかな。でも一度、彼女の部屋に戻らないと。荷物もあるし」

 マジメな男だ。マジメな男は悪くない。その女もそこに惹かれたのだろう。いや、つけ入ったのか。

 その時、カンカンカンと、鉄階段を上ってくる甲高い足音が聞こえた。すぐに女が顔を出す。

「惣介! あっ……」

 この女が「彼女」。それと男の名前は惣介か。

「こんちは」要一は言った。

「こんにちは」女も言った。

 女の顔には見覚えがあった。部屋を出がけに何度か顔を合わせ、挨拶をしたこともある。二つ隣の部屋に住んでいたはずだ。

 屋上にいるのは惣介一人だと思っていたのだろう、バツが悪そうに隅を回り込んでベンチのそばに来た。惣介の手を引いて立ち上がらせる。

「何やってんの」小声で言った。

「この人と飲んでて。それでこれから飲みに行こうかって、話してたところ」

 それ言っちゃうか、と思うと同時に要一は、おかしくてたまらなくなった。

「彼氏がヒマそうだったから、俺から誘ったんです」

 要一は惣介から、つぶした缶ビールの空き缶を受け取って自分の分と一緒にレジ袋へ入れた。

「彼女を待たせてるっていうから、それじゃ三人で、なんて話してて」

 要一はベンチから立ち上がって朗らかに言った。そんなことは全然話してないけれど。少しわざとらしかったかもしれない。

 女は困惑した顔で惣介を見ている。それはそうだろう。同じアパートの住人というだけで、いきなり知らない男に誘われても。とはいえ、いい大人なんだから建前でそれなりの対応をして欲しいものだ。別に断ってもらって構わない。こちらもそのつもりで言ったのだ。

「彼女も来ちゃったし、今日のところは帰ります」惣介が言った。

 女は相変わらず落ち着かない様子で、惣介の腕を取ったまま黙って立っている。

 見立て違いだったか。要一は思った。話を聞いた勝手なイメージで、気の強い女を想像していたのだ。内弁慶タイプか。何にせよこだわりのなさそうな惣介と、相性はよくないんじゃないか。取り殺されなきゃいいけれど。もちろん、取り殺されるというのは比喩だ。

「ああ、それじゃまた」要一は軽く手を上げてベンチに座り直した。

 二人分の足音が階段を下りていく。

 ドアを開ける音がした。

「彼女も来ちゃったし、って何よ」

 ドアの閉まる寸前に、女の不服そうな声が小さく聞こえた。

 要一はくすりと笑って「さて」と、声に出して言った。比喩で済めばいいけど。

 ビールはなくなってしまったし、一人でいつもの店に行くか。

 今度惣介に会ったら、もう少し強引に誘い出すことにしよう。

 きっとまた会える気がする。たぶん、ここで。

 要一はベンチから立ち上がって、思いっ切り伸びをした。

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