第12話 パンジー

 月曜日の朝に目が覚めると、サチさんはまずコーヒーを淹れた。気分によっては煎茶の朝もあるけれど、今朝はコーヒーの気分だったのだ。昔は、毎朝ご飯を炊いて、時間をかけて朝食を取ったものだった。もうずいぶんと昔のことになる。

 コーヒーを飲む気分の朝は、食事を取らなかった。「なまけグセがついたのかしら?」サチさんは、コーヒーを飲みながら時々思う。二年前に古希を過ぎた。けれど体のあちこちに、まだ不調はうかがえない。最近では自分の体の丈夫なことに感謝している。

 夫とは十年前に死別していた。身寄りのなかったサチさんは、その時、それまで住んでいた自宅を売り払い、東京の西の郊外にアパートを借りた。

「気ままな一人暮らしには、この程度の広さが丁度いい」サチさんは思った。

 自分の年齢を考えると、アパートの入居もままならないだろうかと、心配する気持ちもあったけれど、コーポ高遠の大家ユキヒロさんは、そんなことを特に気にするふうもなく、入居はすんなりと決まった。アパート経営は長いこと空き部屋のままにしおくより、とりあえず入居者がいることが大事、と後からユキヒロさんに聞いた。仲介業者をはさんでいないので、家賃は毎月ユキヒロさんに手渡しする。

「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」

 契約書を交わした時、冗談なのか本気なのかユキヒロさんは、そんなことを言った。そうしたところも気に入って、入居以来ずっと住み続けている。

 サチさんは若い頃、和裁を教える先生だった。自宅に通ってくる生徒さんは多い時で十人ほどいて、その内の何人かとは今でも年賀状のやり取りをしている。引っ越したことを伝えた時、「これを機に、また教室を開いたらいかがですか」と返信をくれた人がいた。なるほど、それも悪くない。でも、どうしたものか。しばらくは、折にふれその考えが頭をよぎった。思い切ってユキヒロさんに相談してみると、アパートの自分の部屋を和裁教室に使うことを快諾してくれた。

「生徒募集の貼り紙を出すといいよ」

 ユキヒロさんは町内会にも話を通してくれて、町内会の掲示板とアパートの塀に貼り紙を出すことになった。ユキヒロさんのおかげなのか三人ほど生徒が集まり、それからずっと生徒の入れ代わりはあるものの、週に一度自分の部屋で和裁を教えている。自分の技量で少しでも収入になることがうれしかった。

 四月になって、寒さも緩んだ朝だった。よく晴れた青空を窓から見上げる。アパートの前の路地を、隣の部屋の沢野君が出かけて行くのが見えた。

「さて今日の予定は……」

 サチさんは一人ごちた。この前、図書館で借りて来た本を読もうか、しばらくしていなかったお風呂場の目地でもこすろうか。しばらく思案して、借りて来た本を持って石神井公園に行くことに決めた。

「せっかくの、ひさしぶりのお天気だから」

 空になった大ぶりのコーヒーカップを流しで洗って水切りかごにふせ、サチさんは身支度を始めた。帰りに駅の近くの喫茶店でコーヒー豆を買うつもりだった。豆を量り売りしてくれる、長年サチさんが通っている喫茶店。今日の行動が具体的になるにつれ、自然と気持ちが快活になってゆく。

 平日の石神井公園は閑散としていて大きな池の周りには、ぽつぽつと釣り糸をたらしている人たちがいた。折り畳み式の小さなイスに腰かけて糸をたらす釣り人たちを尻目に、冬の渡りをして来た水鳥たちが水面をすべっていく。手近なベンチに腰かけると、サチさんは手提げ袋から文庫本を取り出した。分厚い文庫本の上下巻で、美しい装丁が図書館で目を惹いた。

「本格小説」。何よりもタイトルがいい、サチさんは思った。

 本を開くとすぐに読書に没頭した。時々、カルガモが水面を蹴って飛び立つ音がする。しばらくするとのどの渇きを覚え、今度は手提げ袋からポットを取り出して、プラスチックのカップにコーヒーを注ぐとひと口飲んだ。

「集中して読んでいるとのどが渇くのよね」

 頭上の大きな柳の枝を春風が揺らす。

「やっぱり外での読書にしてよかった」

 その時だった。足元でごそごそと何かの動く気配がある。座っているベンチの真下あたりだ。不審に思ったサチさんがベンチの下をのぞき込む。「あら」

 一匹の犬がベンチの下に寝そべっていた。

「これは柴犬ね」

 サチさんは手を伸ばしその短くて固い毛をさわった。犬が目を開けてちらりとサチさんを見る。

「賢そうな顔をしてるわね」サチさんは頭を撫でた。

 しばらくそうしていて、その手ざわりに満足するとサチさんは再び読書に戻った。上巻の半分ほどを読み進む頃には、時刻は昼近くになっていた。

「さてと」

 そう言うとサチさんは立ち上がりベンチの下をのぞき込んだ。「またね」

 朝食を抜いたサチさんはずいぶんと空腹だった。「お昼ご飯は何にしましょう。スーパーに寄ってから考えましょう」そんなふうに思いながら帰り道を歩く。

 しばらく歩くとひたひたと、後ろから足音がついてくることに気がついた。ベンチの下に寝ていた犬が後からついてきているのだった。

「あらまあ何事かしら」

 サチさんは自分の体を検分した。自分の体に、何か犬の興味を惹くようなものでもあるのかしら。「コーヒーの匂いにつられたのかしら」自分でそう考えて笑ってしまう。とにかく今は空腹だ。犬のことより自分の食欲を優先することが大切。サチさんは、そのまま前を向いて歩きだした。

 駅前の雑多な商店街に入ると人通りも多くなる。道行く人が犬を振り返り、子供が「犬だ!」と騒ぎ立てる。サチさんは、少々気恥ずかしかったけれど、無関係を装って(実際、無関係なのだけど)駅前のスーパーに入った。振り向くと入口のところに犬は座っていた。まるで主人の帰りを待つように。

 買い物を終えて出てくると、犬は立ち上がってサチさんの方へ寄ってきた。ふんふんと鼻を鳴らし、尻尾を振って足元の匂いを嗅ぐ。「あらまあ」その仕草がことにいじらしく感じられ、サチさんは今度は両手で按摩をするように背中をさする。あらためて見ると首輪は着けていなかった。

 駅の高架をくぐりいつもの喫茶店でコーヒー豆を買う。

「サチさん、その犬どうしたの?」

 店の外で待っている様子の犬をアゴで指し、店の主人が聞く。

「さあ、どうしたのかしらねえ」

 サチさんは曖昧な笑顔を作った。

 住宅街を十五分ほど歩いてサチさんはアパートに着いた。

「とうとう家までついてこられちゃった」

 実際こんなふうに懐かれると、わずかな間だけれど親しみを覚える。

「じっくり見ると、それほど器量よしでもないわねえ」

 サチさんはしゃがみ込み、アパートの前で座っている犬のアゴをさすりながらそう言った。それはもちろん、親しみを感じ始めたサチさんの気持ちの裏返しなのだけど。そうしてサチさんは素早く部屋の中へ入った。「ここじゃ犬は飼えないから」

 サチさんの部屋は一階の一〇一号室で、入口の反対側には縁側があり、その先は狭いながらも「庭」と呼べそうな敷地がある。そこでサチさんは花や野菜などを育てているのだけど、その畑に目をやると件の犬が入り込んで寝そべっているではないですか。

「あらまあ、いつの間に」

 目を丸くするサチさんを見上げ、その犬が初めて小さく「わん」と鳴いた。サチさんは「困ったわねえ」とつぶやいて昼食の準備を始めたが、その言葉はそれほど困っているふうには聞こえなかった。

 昼ご飯を食べ終わったサチさんは、まだ少し残っているご飯を見つめていた。

「こういう時、エサをあげたらダメなのよね」サチさんは思う。

 そう思いながらも、お皿にご飯をのせるとその上から味噌汁をかけて縁側へ出て行った。心なしか浮き立つような足取りだった。そして「ご飯ですよ」と言った。

 さてその犬、サチさんはアパートに居つかれてしまうことを心配していたけれど、ご飯を食べ終わると、食後の休憩とでもいうようにしばらく伏せていて、気がつくといなくなっていた。サチさんには残念な気持ちもあったけれど、やっぱりホッとした気分の方が大きかった。

 ところが翌日の昼頃に、その犬はまたやって来た。そうなるとサチさんの方ももうダメで、いそいそとご飯の用意を始める。そんな一人と一匹の関係が一週間続いた土曜日、お昼ご飯をあげているところへ、お隣の沢野君が通りかかった。

「あれ? どうしたんですか、その犬?」

 沢野君に聞かれても、サチさんは困ったように笑うしかなかった。誤魔化しても仕方ないし誤魔化しようもないので、サチさんはこの一週間の成り行きを沢野君に話した。

「僕も犬が好きだし、この犬、何とかここで飼えないかな」

 話を聞き終えて沢野君が言った。

「賃貸アパートの多くがペット不可なのは、部屋を汚されるからでしょう? 庭で飼うなら大丈夫じゃないかな」

「そんな簡単にいくかしら」

「ユキヒロさんなら簡単に了承しそうな気がしませんか?」

 そう沢野君に言われるとサチさんも次第にそんな気分になってくる。

「ちょっと行ってきます」

 言うが早いか沢野君は、隣にあるユキヒロさんの自宅に向かって歩きだした。五分ほど経って戻って来た沢野君は、サチさんに向かってにっこり笑った。

「いいって」

「えっ?」

「だから、飼っていいって。ユキヒロさんが」

 あまりに簡単でサチさんは拍子抜けした。

「そういう人でしょう。ユキヒロさんって」

 沢野君がしゃがみ込んで犬のアゴのあたりを撫でる。どうしたわけかその犬は、その日はどこへも行かずサチさんの庭で初めて一晩を過ごした。

 翌日の日曜日。ユキヒロさんが犬を見にやって来た。犬を撫で回しているユキヒロさんを見ながら、サチさんはコーヒーを二人分淹れた。ユキヒロさんは心なしか目尻が下がっているように見える。

「犬、好きだったんですか?」コーヒーを出しながらサチさんが聞く。

「実は」ユキヒロさんがコーヒーを受け取って照れた笑いを浮かべた。

 縁側に二人並んで腰かけて、コーヒーを飲みながら犬を眺める。

「ところで名前は?」

 ユキヒロさんの質問に、サチさんはしばらく思案してからにっこり笑って、

「パンジーです」と答えた。

「メスか。かわいい名前だな、おい」

 ユキヒロさんは前屈みになって、両手でパンジーのあごを揉むようにさする。

 パンジーは、若かりし頃にアルバイトをしていた思い出深いスナックの名前なのだけど、サチさんは、それは言わないことにした。

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