第5話 夏休み その1
実家の隣りの敷地には、大きな栗の木があった。その夏、栗の木の下には夏草が伸び放題になっていた。人の胸くらいまでありそうな雑草が、こちらの敷地にまで盛大に伸び広がっていた。
私の実家は、東京の西のはずれにあった。大学を卒業し、就職と同時に家を出て、都内の賃貸アパートで永らく一人で暮らしていたが、家の事情で帰ることになった。
実家に戻った日は真夏日だった。大した荷物もないと、レンタカーのワゴン車を借りて一人で越した。二時間かけて実家に着いた頃には日も暮れかかり、少し涼しくなり始めていた。
廊下の掃き出し窓を大きく開けて、車から運んだ荷物をひとまずそこへ積み上げた。廊下のスペースだけでは足りず、その奥の仏間へ段ボール箱を移動しながらの作業になった。一人暮らしを二十年近く続けていれば、荷物もそれなりに増えるのだった。一時間の作業の後、どうにか荷物を運び入れた。その荷物の意外な多さに、半ば茫然とした心持ちで、私は廊下に座り込んだ。ともかく引っ越しは終わった。すっかり日も落ち、腹も減っていた。風呂に入りたかった。汗もかいたし体がほこりっぽい気がした。廊下と仏間を占拠した荷物も、南側の居間にまではおよんでいない。風呂に入って食事をしたら寝てしまおう。私は、仏間の押し入れの前に積まれた、段ボール箱をいくつかどかし、ふすまを開け、布団を引っ張り出して居間に運んだ。
隣りの敷地の大きな栗の木が、シルエットになって窓ガラスに映っていた。灯りを点けて窓を開けると、青々と茂った、栗の大きな葉を揺らして夜風が入ってきた。夏の間は家中の窓を開け放しておくと、家の中を風が通り抜け、その風で暑さをしのげた。昔と変わらない。とうとう冷房は取り付けられなかったな、私は思った。掃き出し窓を閉めようと廊下に戻った時、薄暗く街灯の点る前の道を女が一人、犬を連れて通り過ぎた。
その夜は、なかなか寝つけなかった。熱帯夜だったから、というわけではなく、枕が変わったから、という理由でもない。網戸を閉てた窓からは、心地よい風が入ってきたし、枕が変わった程度で眠れなくなるほど繊細でもない。ネズミが出たのだ。天井裏を走り回るネズミの足音がうるさくて眠れなかった。うるさい、というのとは少し違う。騒音というほど大きな音ではない。気に障る音、といえばよいか。天井裏を次第に近づいてくる足音が、私の真上を通り過ぎる時、顔の上を走られた気分になった。遠のいていった足音が聞こえなくなり、しばらく静かになったかと思うと、唐突に足音は戻ってきた。その唐突さと、短い足でちょこまか動き回る様子がありありと想像できる足音に、私はイライラした。明日、猫いらずを買ってこよう、寝床の中で思った。
実家に戻って一週間が過ぎても荷物の片づけは進んでいなかった。荷物の中から着替えの服を取り出してしまうと、それ以外のものが必要になることが特になかったから。生活に必要な細々としたものは、元々実家にもあった。人間しなくて済むことはしないものだ、私は思った。期限がないことも怠惰に拍車をかけていたのだろう。この一週間で私がしたのは、廊下と仏間を占拠していた段ボール箱を端に寄せて積み上げたことと、猫いらずを買ってきたことだった。猫いらずは、暗い紫色の錠剤が小さなプラスチック製の容器に盛られていて、その容器をそのまま床に置くタイプのものだった。どこへ置いたものやら、と考えあぐね私はとりあえず台所の流しの下に、それを置いた。
猫いらずはこの一週間、食べられた形跡がなかった。天井裏を走り回る足音は、相変わらずしていた。私は足音を聞いただけで、ネズミを目にしてはいないのだ。順当に考えればネズミだろうが、他の生き物か、あるいは何か得体の知れない、この世ならぬものの可能性だってあるのだ。つれづれにそんなことを夢想した。
荷物の片づけはともかく、家の周りに伸び放題になっている雑草は、何とかしなければと思っていた。隣りの栗の木の下からばかりでなく、こちらからも夏草が盛大に伸び広がって、周りの家の敷地にまでおよんでいた。炎天下に大量の雑草を引き抜く労力を思うと、なかなか行動に移せず、日々それらを眺めていただけだった。
その朝も私は家の周りを歩いて、益体もなく雑草の伸び具合を見てまわり、軍手を買ってこようかなどと考えながら、玄関の前に立ちすくんでいた。小さなため息を吐いてふり返ると、通りかかった犬を連れた女と目が合った。反射的に会釈をすると、女は立ち止まって一歩こちらへ近づいた。犬は小型の柴犬らしかった。
「ひさしぶり」女が言って私の名前を呼んだので驚いた。女の顔に覚えはなかった。
先週戻って来たんでしょう。夜、通りかかった時、荷物を運んでるところ、見たよ。犬の散歩してて。今もそうだけど。下の娘を保育園に送った帰りなんだ。犬の散歩も兼ねてるの。この先に家を買ったから、ここはよく通るんだ。あっちの方、昔一面畑だったところ、ここ何年かで建て売りがどんどん建ってて……。
一方的にしゃべっていた女がふいに口をつぐみ、自分の顔を指差して言った。
「私、誰か分からないかな?」
私が適当なタイミングで相槌をうったり、うなずいたりしていたので、分かっていると思って話を続けていたのだろう。そんなふうに相手に合わせてふるまって、誤解させてしまうことが私には多々あった。それが原因で話がこじれてしまったことも。
「ごめん、ごめん」女は言って旧姓を名乗った。「
名前を聞いても、はっきりとは思い出せなかったが、私は穏当にうなずいておいた。仁志は中学三年生の時、私と同じクラスだった、と言った。言われてみれば誰とでも打ち解けてしまえる、世話好きタイプの女子がいたような気がしだした。もっとも、自己意識ばかりが誇大した中学三年生の男子が、女子と普通に会話していたとも思えなかった。私の場合、特に。大して親しくもなかったはずだ。
大学を卒業して就職して、都内に引っ越したんだよね。私ずっと地元にいたから。地元にいるとそういう情報って不思議と耳に入ってくるんだ。いまだに独り身だってことも。誰から聞いたかなんて忘れちゃった。
仁志は愉快そうによくしゃべった。元クラスメイトというだけで、これほど気安くなれるとは。中学校の卒業以来、二十五年も会っていないのだから、その間に何があったか知れないのだ。私など見知らぬ男も同然だと思うのだが。しかも私の方は、ずっと見知らぬ女と話している気分なのだ。
あ、時間とらせちゃったね。引っ越したばかりで、いろいろやることもあるでしょう。私も家に帰って洗濯物干さなきゃ。上の子が四年生なんだけど、男の子ってなんであんなに汚すかねー。仁志は、今度お茶でも飲もうと言いながら、まだしゃべり足りないといった余韻を残して帰っていった。仁志がしゃべっている間、犬は伏せの姿勢で、ずっとおとなしくしていた。柴犬のように見えたが微妙に違う気もした。雑種なのだろうか。仁志の後ろ姿を見送りながら、「女が喫茶店に集まれば、コーヒー一杯で三時間はしゃべっていられる」という話を、昔誰かから聞いたことを私は思い出していた。
寝起きだった私は、シャワーを浴びようと風呂場へ入った。床の隅に、黒くて小さな、丸薬を細長くしたような粒が、いくつも転がっていた。見た途端、私はそれがネズミの糞だと理解した。石鹸に引っかいたような疵がついていることにも気がついた。これはネズミが齧った跡だ。何てことをする……。私は瞬時に、頭に血がのぼるのを感じ、自分を落ち着かせようと深く息を吐いて、しばらく目を閉じた。そしてゆっくり風呂場を出て、流しの下に置いたままになっている猫いらずを持ってくると、石鹸の隣りに置いた。糞をシャワーで流すと、冷静に対処できた自分に安堵した。今夜もまた、天井裏を走り回るネズミの足音を聞くのだろうか。激しい憤りを感じた。私が実際に、ネズミの姿を見ることは、永久にないような気がした。
その夜私は、中学校の卒業アルバムを見て、仁志という女を探してみようと考えた。卒業アルバムは実家に置いたままだったので、いくつもの段ボール箱の中から探すこともなかった。仏間の天袋の奥にあったはずだ。手を伸ばして天袋の引き戸を開けたものの、中をのぞき込むには、台に上る必要があった。家の中に、台になるものがないか探して回ったが、生憎そのようなものは見つけられなかった。
翌日。私はようやく観念して草むしりに手をつけた。今まで無意識に、一度で全部片づけてしまおうと考えている節があった。少しずつ何回かに分けてやればいいだろうと思うに至って、何とか手をつける気になれた。軍手と草刈り鎌を買ってきた。やる気がくじけないうちにと、朝から始めた。午前中の、気温が上がる前の方が、まだ作業が楽だろうという考えもあった。草むしりをしていると、毎朝「おはよう」と私に声をかけ、前の道を通り過ぎる女がいた。犬と五、六歳くらいに見える女の子を連れていた。しばらくすると「暑い中、ごくろうさま」と言って、その女は犬だけを連れて戻ってきた。
草を引き抜くというだけの行為に、これほど力が要るとは思っていなかった。一メートルはあろうかという雑草を見ても、所詮は草と高をくくっていたのだ。根元を両手でつかみ腰を入れ、力を込めなければ引き抜けない強情な草もあった。最初のうちは、そうした目立つ大きい草ばかりを引き抜いては、大変だと思っていたのだが、地面に深く根を張った小さい草の方が、むしろ難敵であることに、じきに気づいた。小さい草はつかむところがないのだ。手で握ることができないので、親指と人差し指でつまむように力を入れる。腕力より握力が必要だった。指の先が痛くなった。指の先が痛くなるまで、私は買ってきた草刈り鎌を使うことに考えがおよばなかった。草刈り鎌で小さい草の根元から、土ごと掘り返してしまえばよかったのだ。草刈り鎌は買い物に行った時、草むしりに必要だろうと目について、購入しただけのものだった。使い道まで考えてのことではなかったのだ。無計画に思いつきで行動してしまうことも、私にはよくあることだった。
草むしり初日の夜は、腰や腕や太ももがだるくなった。中腰のまま、草を引き抜きながら移動するその動きは、ほとんど筋トレといってよかった。夕食をとっていても箸と茶碗を持つ腕が重かった。だるいせいか何となく物憂い気分で食事をしていると、後ろで物音がした。物音がした、というより何かの気配を感じたように思った。ゆっくりと体をひねって居間の入り口を見た――ネズミがいた。
ネズミは、開け放してある引き戸の陰から、こちらをうかがっていた。小刻みに鼻をひくつかせ、忙しなく上下左右に首をめぐらせていた。体はそれほど大きくなかった(ネズミの平均的な体長というものは知らないが)。上を向くと半開きの口から、小さな二本の前歯がのぞいた。短くて固そうな毛並みがつやつやと光っていた。やがて落ち着きなく動いていた首が、私を見据えてぴたりと止まった。目が合った、と思った。真っ黒な丸い小さな目で、じっと私を見ている。いつから居ついているのか知らないが、ネズミからすれば、私の方が闖入者なのだった。ずい分と永いこと家を空けていた私は、引け目があって、非難されているような気がしてきた。
天井裏を走り回る足音を聞いた時、糞や石鹸を齧られた跡を見つけた時、その痕跡から想像するだけだったネズミが、実在するのを目の当たりにして、私は憤りが畏怖に変わりそうな気がしだした。
「きゅっ、きゅっ……」その時、ネズミが鳴いた。
その声を聞いた途端、畏怖に傾きかけていた私の気持ちは霧消し、憤りが立ち返ってきた。どうする? 丸めた新聞紙で叩いても効果はなさそうだ。こんなところに顔を出さずに、おとなしく猫いらずを食べてくれればよかったのに。理不尽に思った。
不用意に腰を浮かせた私の動きに、ネズミは弾かれたように後ろへ身をひるがえすと、猛然と走りだした。私はそのまま立ち上がると、憑かれたようにネズミを追いかけた。ネズミは短い足を必死に動かしているのだが、そのわりに、なかなか前へ進まないのが滑稽だった。ネズミは廊下を抜けて仏間へ入り、柱をよじ登ると、戸が開いたままになっていた、天袋に逃げ込んだ。私は反射的に、勢いよく天袋の戸を閉めた。戸の閉まる大きな音が部屋に響いた。私はしばらく天袋を見上げていた。大きく息を吐くと、肩に力が入っていたことに気がついて、笑いがこみあげてきた。やれやれ、だ。私は居間に戻って、ぼそぼそと食事を続けた。その夜は、ネズミの足音を聞かなかったように思う。
それから毎日午前中に、二時間ほど草むしりをした。のんびりと、休みながらなので、二時間かけても作業は大して進まなかった。それでも、雑草がなくなって、見えてくる地面が少しずつ広くなる様子を日々眺めていると、達成感があった。草むしりの後はシャワーを浴びた。それで大体、昼少し前の時間になった。泥と汗にまみれた体をさっぱりさせたら、ビールを飲むことが習いになった。箱で買い込んだ缶ビールを冷蔵庫に冷やしておいた。朝と昼を兼ねた食事をとりながら、缶ビールを二本ほど空けるようになった。食事が終わる頃には、なか空にかかった真夏の太陽が、青々と茂った栗の葉の間から差していた。窓から入ってくる、木陰を渡ってきたわずかな風を、心地よく感じていると眠気が差してきて、そのまま昼寝をすることになった。缶ビールが二本で済まなかった時、夕方まで寝てしまい、目を覚ましてから、また飲み始めるという日もあった。
やることが同じ日々を繰り返していると、何となく生活のリズムのようなものができてきた。勤めをしていた頃、毎朝決まった時間に起き、身支度をして出かけていた、あの感覚と似ていた。仕事に情熱を傾けていたわけでもなかったが、とりあえず規則正しく何かをすること。
さほど暑くなかった午後、昼寝から目を覚ました私は、散歩をしてみる気になった。北に向かって坂道を下りてゆくと小さい川があって、水田が広がっていたはずだった。水田は低い山の連なる丘陵の、裾野というのか扇状地というのか、そんなところに広がっていた。
家を出た私は、周囲に雑木林を残して建てられた、古くからある家が数軒連なる、その間の細い道を下った。道は、両脇の背の高い雑木の木陰になっていて薄暗かった。坂を下りきったところで雑木林は途切れる。途切れたところは、トンネルの出口のように白く光っていた。
雑木林を抜けたところに、昔と変わらない広々とした田園風景があった。風にひるがえる一面新緑の稲が、風の通り道に沿って流れるように薄緑の葉裏を見せると、葉裏は陽光に白く光り、さざ波がたつようだった。川から引かれた用水路が、田んぼの間をたて横に走っていた。私が飛び越えられるくらいの幅で、膝くらいまでの深さなので底までよく見えた。水はゆっくりと流れていた。
父親と息子の親子連れらしい二人が、用水路をのぞき込んでいた。男の子は小学校の一、二年生くらいか。手に持った網の柄をぎゅっと握って、真剣な面差しで水の底を見ていた。後ろを通り過ぎようとした時、突然「ザリガニ!」と大声を上げたので驚いた。その先に母親と娘の親子連れらしい二人が、しゃがみ込んでいて、同じように用水路の中を見ていた。女の子は小学校に上がる手前くらいに見えた。母親が私に気がつき、立ち上がって手を振った。「どうしたの?」
こんなところで会う知り合いとは、いったい誰だろう。どこかで見たような気のする顔なのだ。しかも、ごく最近。しばらく黙って顔を眺めていると、母親は不思議そうな顔をして首を傾げた。思い出した。この前会って、仁志と名乗った女だった。目に映ってはいても、ただぼんやり眺めているだけでは、私は人の顔を認識できない質らしかった。私は散歩だと答え、今日は保育園は? と聞いた。
今日は日曜日だよ、仁志は笑った。曜日の感覚がすっかりなくなっていた。娘は一度こちらをちらりと見たが、すぐに視線を戻した。物怖じしない子だ。熱心に何を見ているのだろう。娘の視線の先を見ると、水の底に何やら黒い塊がうごめいていた。
「この子、オタマジャクシが気に入ったみたいで、ずっと見てるのよ」
目を凝らすと確かにオタマジャクシだった。仁志は隣りにしゃがんで、娘の頭を撫でた。
あまりしゃべらなくて。言葉が遅いのかなって思ったけど、時々しゃべるところを聞いてると、そうでもないみたいで。保育園で見る同い年の女の子の、まあよくしゃべること。男の子もなんだけど、驚いちゃう。まだ六つだし、この子の個性だし。心配してるってほどでもないんだけどね。私は黙ってうなずいた。
このあたり、あまり変わらないでしょう。私の住んでるあっちの方は(と、私の下りてきた坂道の方を指差した)畑がどんどん宅地になって、建て売りラッシュ。地主の何とかさんが亡くなったって聞くと、じゃあ、あそこの畑にも家が建つだろうなって。ほら、相続のあれで。そう思ってると予想通りで笑っちゃう。うちもその中の一棟を買ったんだけどね。仁志は実際に笑いながら言った。
家を買ったのは十年前、上の子ができた時。結婚はもっと早かったんだけど。下の子の保育園の保護者会なんかに行くと、たまたまなのか若いお母さんばかりで。保護者会の役、持たされちゃってるよ、私。仁志が無警戒によくしゃべるものだから、図らずも仁志の内実を知ることになってしまった。私は相変わらず、見知らぬ女に相槌をうっている気分なのだが、仁志は頓着しないようだった。
仁志はしゃべりながら、田んぼの上を飛ぶツバメを目で追っていた。二羽のツバメが左右から飛んできて目の前で交差したところだった。その直後、二羽ともひらりと身をひるがえし、元来た方へ戻りかけた、かと思うと、一羽は急上昇し、もう一羽は急降下した。急上昇したツバメは、私たちの後ろの空へ飛び去り、急降下したツバメは、もう一周目の前で低く旋回すると元来た方へ飛んでいった。
「低く飛ぶなあ。雨が降るかな。あれ、どした?」
仁志の足にしがみつくように、娘が額をこすりつけていた。「眠くなっちゃったみたい」
足に額をつけたまま顔を少し上げ、娘は私の顔をじっと見た。子供の、こういう無遠慮な視線は苦手だ。
「もうちょっとがんばって。お家まで歩こうね」仁志は言った。
「だっこして歩くともう重くて。そのまま家までなんて、とても歩けない」
田んぼの畦には刈り倒された夏草が折り重なっていた。空には大きな雲がいくつも浮かんでいた。雲が時おり日差しを遮り、風も吹いていて、それほど暑くは感じられなかった。平たく見晴らしのいい田園風景は、東の空にある入道雲を、よりいっそう大きく見せていた。夕立があるかな、私も思った。
家に帰るという仁志と一緒に、連れ立って歩きだした。何か目的があって来たわけでもなかったから。ザリガニを捕まえていた男の子は、飽きてしまったのか、用水路の中に入って、半ズボンの裾を濡らしながら、しぶきを上げて歩き回っていた。子供特有の真剣な無表情さで、ただ歩き回っていた。それだけのことなのに、不思議と楽しそうに見えた。父親らしき男は用水路の縁に座り込んで、こちらも無表情に煙草を吸っていた。ぼんやりと見るともなしに、男の子の様子を眺めているようだった。隣りに置かれたプラスチックの虫かごに、ザリガニが五、六匹入っていた。見たところ薄茶色の地味な色ばかりなので、アメリカザリガニは混じっていないようだった。仁志と手をつないで歩いていた娘は、ザリガニが気になるのか、虫かごの方を振り向き振り向きしながら、そこを歩き過ぎた。
しばらく黙って歩いていたが、気詰まりになって、今日旦那は一緒じゃないのか、と聞いてみた。
「さあねえ。千葉あたりにいるみたい。他の女と。浮気が本気になっちゃったみたいで」仁志は、あははと笑った。
「離婚が成立してないから、まだ旦那」
あに図らんや。弱った。仁志の旦那が今日どうしているのかなど、興味があるわけがない。見知らぬ女の、さらに見知らぬ旦那のことなど。世間話のつもりで、何となく口にしただけなのだ。口数が少ないわりに、たまに口を開くと、ろくなことを言わない。これも私によくあることだった。仁志という女に、それほど気を使うこともないのだが。話の接ぎ穂を探して、私は梅酒をいらないか、と聞いた。台所の流しの下の、戸棚の奥に見つけたものだった。甕のような、大振りのガラスの容器に漬けられていた。梅の実は除かれていて、蓋がきつく閉められていた。お猪口に一杯だけ味をみると、とても甘かった。母が漬けたものだろう。甘さを加減してくれと、何度言っても母が味つけを変えることはなかった。あまり飲みたくはない味だが、捨てるのはもったいない。好んで飲んでくれる人がいるのなら譲ってしまおう。
「梅酒? 好きだよ。体にもよさそうだし」
仁志は言ったが、私が台所から持ってきた梅酒の容器を見ると「重そうだなー」と躊躇した。容器にはシールが貼られていて「平成19年7月」と書かれてあった。「十年物かあ。すごいね」仁志は言った。今日は娘がいるし、重そうだし、またあらためて取りに来るよ。そう言って仁志は帰っていった。その日は夜になって、雨が降った。
一週間かけて少しずつ草むしりをして、あらかた草は取り終えていた。南側の、栗の木のある隣りの敷地との境あたりが、まだ取り残されていた。これを取り終えてしまったら、何をして生活のリズムを作っていこう。そんなことを考えながら、その朝も草を引き抜いていた。さっき犬を連れた女が「だいぶきれいになったねー」と言って、前の道を通り過ぎた。私はまた穏当に笑顔で会釈した。草を引き抜きながら私は、梅干しがどこにも見当たらなかったことを思い出していた。私が子供の頃から毎年母は、梅干しと梅酒を漬けていた。母が作る梅干しは、塩をたっぷり利かせた、大きくて果肉のやわらかい、たいそうしょっぱくてすっぱい、しそ漬けだった。母が一度、梅干し作りに失敗した年があった。梅が黒く腐ってしまったのだ。その年、父が他界した。「梅干し作りの失敗は不吉」という話を、後日母から聞かされた。迷信だろうし、そんなことを気にする母ではないと思ったが、翌年は梅干しを漬けなかった。以降もずっと漬けていなかったらしい。ひさしぶりに母の入所している施設に、顔を見に行ってみようか、私は思った。
こちらの敷地の雑草が減ってくるにつれ、隣りの栗の木の下で伸び放題になっている夏草が、目につくようになった。敷地の境には塀がなく、地面に打ち込まれた杭に太い針金が渡してあるだけだった。これほど雑草が伸びてくると、隣りの地主の誰某が草刈りに来るはずだ、と母から聞いたことがあった。実際以前、夏季休暇でたまたま実家に戻っていた時、隣りで草刈りをしていたことがあった。草刈り機を使っていたらしく、その日の午前中はずっと、草刈り機のエンジンの音が、やかましくしていた。後で見ると刈った草は、そのまま地面に放置されていた。そういえばあの時、草刈りをしている人の姿は、見なかったように思う。
そろそろ草刈りをする頃合いだろうに。また一本、大きな草の根元をつかみ引き抜こうと力を込めた時、ふと、隣りの地主の誰某は亡くなったのではないかという考えが浮かんだ。それで草刈りが行われないのでは。その考えが浮かんだ途端、私は唐突に不安な気持ちに襲われた。顔も名前も知らない、私と何の関係もない人間が亡くなったかもしれない、という思いつきで、こんな不安な気持ちになるとはどうしたことか。私は隣りの地主の名前を思い出そうとした。昔、母から聞いた覚えがあった。この辺りの土地に多い名字だったはずだ。なかなか名前を思い出せない自分にイライラしていると、突然、猛烈な痛みに思考を中断された。左耳の下、アゴと首の境あたりに突然、焼けるような痛みが走ったのだ。痛む場所を押さえて、私はその場にしゃがみ込んだ。いったい何が起きた? 尻を地面につけて座り込み、膝を立て、両膝の間に頭を挟んで痛みに耐えていると、
「こんにちはー。梅酒もらいに来たよ」女の声がした。
うめくような返事をすると、人の近づいてくる気配がして、見知らぬ女がぬっと顔を出した。
「どうしたの?」
私はまだ座り込んだままだった。自分でも状況が分からなかったので、何も言えなかった。
「あ、ハチ!」
女の声に顔を上げると、私が草を引き抜いたあたりの、大きめの一本の草に、ハチが巣を作っていた。周りを数匹のハチが飛び回っている。
「アシナガバチだよ、これ」女が言った。ハチに刺されると、こんな痛みなのか。原因が分かって、私は少し安心した。
「水道借りるね」家の外にある水道に向かって、女は歩いていった。私も立ち上がって後に続いた。掃き出し窓を開け、廊下の縁に腰かけた。その脇にある水道で、女はカバンから取り出したタオルを濡らした。
「ハチに刺された時は、冷やすといいんだよ」
女が絞ったタオルを持って正面に立ったので、私は自然と女を見上げる姿勢になった。その時ふと私は、女が仁志であることに気がついた。仁志は軽く腰を曲げて私の頬に手を回すと、濡らしたタオルを左耳の下にそっとあてがってくれた。冷たくて気持ちがいい。そのまましばらく、目を閉じてじっとしていた。今日はもう草むしりをする気にはなれなかった。少し横になっていよう。
「スズメバチだと結構大事になったかもしれないけど、アシナガバチなら心配しなくても大丈夫。巣に近づくと攻撃してくるよ。今、巣作りの時期だし。ああいう雑草が伸び放題のところって、ハチが巣を作るのに格好の場所なんだ」そんなことを知っている仁志に、私は妙に感心した。
今度でいいよ、と帰ろうとする仁志に、せっかく来てもらったのだからと私は、昨日から廊下に置きっ放しになっていた梅酒を渡した。仁志は持ってきたカンバス地の大きなトートバッグに梅酒を入れて肩から提げた。
「まだあまり片づいてないみたいね」
廊下から家の中を一瞥して仁志は言った。仁志の後ろ姿を見送りながら、私は仁志の顔を思い起こそうとしていた。
私は家に入って南側の居間の窓から外を眺めた。数匹のアシナガバチが、まだ飛び回っていた。殺虫剤を買ってこようか、と思った。これだけ草を引き抜いたのだから草むしりはもうおしまいにしようか、とも思った。駆除するために、またハチに近づくのは怖かった。その時、栗の木の枝先に新緑の黄緑色をした毬が、たくさん生っていることに気がついた。大きな緑の葉と同じ色合いなので、今まで気づかなかったのだろう。そのトゲを見ているだけで痛いような気分になってきた。ハチと違って毬が自ら刺しにくるわけでもなし。私はふと、さるかに合戦で栗の役割は何だったろう、と思い出そうとした。
私は、居間に敷きっ放しになっていた布団の上に寝そべった。昼間だと天井がよく見えた。天井の隅、居間の入り口の上あたりに大きな染みができていた。何の染みだろうと考えるうちに、数年前、母が言っていた雨漏りのことを思い出した。大雨と大風の翌日に、染みができていたという。横なぐりの雨が、すき間から入っただけだろうから雨漏りではない、修繕の必要はないと、母から相談されて私は答えたはずだった。親が結婚した時に建てたこの家は、築四十年になる。あちこちにガタがきている部分も多かった。
冷やしながら横になっていると、ハチに刺された痛みもだいぶひいてきた。窓から吹き込んで家の中を通り抜けてゆく風は、今日も心地よく、私がうとうとしかけた時――
「あっ」私は声をあげて身を起こした。
ネズミはどうなったのだろう。天袋に閉じ込めた、あのネズミは。
そういえば、ネズミの足音をあれから聞いていない気がした。あの時は、閉じ込めたという意識はなかった。結果的に閉じ込めてしまったということに、今になって思い至った。私はネズミを閉じ込めたのだ。
私は唐突に不安な気持ちに襲われた。すき間だらけの家のこと、ネズミ一匹が通れるくらいのすき間が、天袋のどこかにあって、そこから抜け出して、ついでにこの家からも出ていったかもしれない。もし逃げ出せずに、まだ天袋の中にいたとしたら? ネズミは飲まず食わずで、どのくらい生きられるものなのだろう。あれから一週間経った。ネズミの生死を確かめるには天袋の引き戸を開けて、中をのぞき込まなければならない。確かめずに済むのなら、それに越したことはないのだが、そういうわけにもいくまい。天袋の中に、永久にネズミの死骸があることになるかもしれないのだ。
仕方なく私は、何か踏み台になるものはないかと、家の中を探し始めた。
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