第3話 コオロギ
「つがいで飼わないとコオロギは鳴かないんだよ」
タキちゃんにそう言われてびっくりした。「つがい」という僕の知らない言葉をタキちゃんが使ったから。
「つがいっていうのは、オスとメスが一緒にいるってことだよ」
僕の質問にタキちゃんは簡潔に答えた。
「来て」
タキちゃんは僕の手を引いて自分の部屋の窓の下まで連れてきた。しゃがみ込んだタキちゃんに引っぱられ、僕も隣にしゃがみ込んだ。かえる座りで振り向いたタキちゃんは、人差し指を立てて口にあてる仕草をした。
「ちょっと静かにしてて」
そう言われて、しゃがみ込んだまましばらく二人でじっとしていた。
りり、りりり……。
部屋の中からかすかに虫の声が聞こえてきた。
タキちゃんが大きく目を見開いて、口も大きく開けてこちらを見る。まっ黒に日焼けした顔にまっ白な歯がのぞいている。虫の声を僕に聞かせたくて聞かせられて、それがうれしくて自慢で、その感情を抑え込もうとしてももれ出てしまう、そんな笑顔だった。だからなのか虫の好きなタキちゃんに、本当は虫が苦手だと僕は言いだせなかった。
隣に住んでいたタキちゃんは、僕が自分の部屋で図書館から借りてきた本を読んでいたりすると「虫捕り行こう」と、窓を叩いて呼びだすのだった。
「本読んでるから」と断ると「じゃあ、あと十分読んでいいから、そしたら行こう」と言ってくる。「じゃあ」の意味も「そしたら」の意味もまったく不明だったけれど、僕は読んでいた「ナルニア国物語」なんかを、渋々閉じることになるのだった。
僕とタキちゃんが住んでいたのは東京の西の郊外で、周りには小さな川や田んぼや雑木林があって、虫捕りには絶好の場所だった。タキちゃんの部屋には大きいものから小さいものまで、プラスチックの飼育箱が十個ほど積み上げられていた。季節によって変わるのだけど、中にはセミやチョウやクワガタ、アマガエルやザリガニもいた。土だけが入った空っぽの飼育箱に「これ何?」と聞いたら「カブトの幼虫」と言って、素手で土を掘り返し始めたことがあった。タキちゃんが手のひらにのせて見せてくれたカブトムシの幼虫は、まっ白で太くてぶよぶよしていて、同じ幼虫でも僕の知っているモンシロチョウの幼虫なんかとは全然大きさが違っていて、タキちゃんの手のひらからはみ出そうなくらいで、胎児のように丸まってじっと動かない。それを見て僕は卒倒しそうになったものだった。
その頃は度々タキちゃんの部屋に入ることがあって、その度に僕は「くさい」と言ったものだったけれど、タキちゃんは気にするふうもなかった。
「幼なじみって初恋の定番だよね?」
秋実が言った。そういうのとは違うと思う、僕は答えた。今から考えれば、なるほどあれが初恋だったのかもしれない、と思い当たるふしもあるけれど、今思い返すことと当時の気持ちは別物だろう。
「めんどくさいこと言うなあ、修一は」
そう言って秋実は笑った。僕も笑った。めんどくさいと言いながら笑って受け流してくれる秋実を、めんどくさい僕は好いたのだと思う。
「でもそういうのって中学生くらいになると気まずくなっちゃうんだよね」
秋実はさっきから並べて敷かれた布団の上に仰向けに寝そべって、目を閉じたまましゃべっている。僕は窓辺のソファに腰かけてそんな秋実を眺めた。
「そんなふうにはならなかったな。タキちゃんは中学に上がる時、金沢に引っ越したから」
「ふうん……」
少しの間があって返事が聞こえた。秋実の返事は半分眠っているようだった。夕食の後で二回目の温泉につかりに行こうと話していたけれど、秋実はこのまま眠ってしまいそうだった。
タキちゃんが引っ越してから二年くらいは、たまに手紙のやりとりをしていた。主にタキちゃんが手紙を寄こしてくるから、タキちゃんからの手紙が来なくなれば自然と疎遠になった。新しい環境になじむのにいろいろ大変だったのだろう、と今そう思うのは、後からそれらしくくっつけた理屈で子供の頃の関係なんてその程度のものだ。だから高校二年の秋口に唐突にタキちゃんから手紙をもらった時は、何でまた今頃? という不思議な気分だった。残暑見舞いにしてはずい分と遅い。タキちゃんらしいといえば、らしいタイミングだった。
「チアリーディングやってます」手紙にはそう書かれていた。子供の頃と変わらない、あまり女の子らしくない角ばった文字。思わず僕は感傷的になりそうになる。同封されていた写真にはチアの衣装を着た女の子が五人、笑顔で写っていた。タキちゃんは右端に立っている。皆と同じように笑顔を作って、両手にポンポンを持って、ポーズをとっていた。虫ばかり捕っていたタキちゃんがチアリーディングとは。僕は少しばかりうろたえた。うろたえた末、返事は出さなかった。出すことができなかった。タキちゃんが自分とはまるで違う、隔絶した世界の住人になってしまったように思えたのだ。
窓の外に目をやると、まっ黒な山を背景にほのかに白いものが流れている。秋実は両手を胸の上あたりで組んだまま同じ姿勢でいる。その胸が小さく上下していた。湯上りのまったくのすっぴんの、無防備な寝顔で寝息をたてている。こういう宿で出される浴衣もずい分と無防備だよな、と僕は思った。立ち上がってタオルを手に取ると部屋を出る。一階にある大浴場へエレベーターで下りた。
秋実とは十一月に結婚することになっている。つき合い始めて半年で結婚を決めた。といっても正式につき合い始めて半年、というだけのことだ。十年前に同じ事務機器メーカーに同期入社して五年前からは同じ職場。同僚には「電撃入籍!」などと揶揄されたりもしたけれど、職場で毎日顔を合わせていれば自然と気心も知れるというものだ。
「同期入社の女の子も、私含めて三人になっちゃった」
ある日、秋実が言ったのだ。夏の盛りの頃で冷房の効いた僕の部屋で、秋実は腹ばいに寝そべって持ってきた女性向けのファッション誌か何かを、ぱらぱらとめくっていた。
秋実は僕と同じ三十二歳。秋実との結婚をイメージすることは難しかったけれど「それじゃ結婚しようか」とその時僕は言ったのだった。後から考えると、ずい分失礼なもの言いだったと思う。結果的に結婚することになったにしても、言うべきことやプロセスを省略し過ぎじゃないか。そんなことを秋実に言えば「めんどくさいこと言うなあ、修一は」とでも言うことだろう。実際その時の秋実は「そうしよっか」と、雑誌に目を落としたまま簡潔に答えたのだった。結局、そういう頃合いだったということなのだ。
そんなふうにばたばたと決めてしまったからなのか、二週間ほど前に秋実が言った。
「なんかイベントみたいなこと、したことないよね私たち」
秋の連休を利用して秋実と二人で旅行に来たのは、そんな秋実のリクエストに僕が応えたからなのだった。
一階でエレベーターを下りるとロビーは薄暗かった。照度の低い常夜灯だけが点っている。売店は店じまいしているし置かれたソファにも宿泊客の姿は見えない。時刻は午後十一時を過ぎている。常夜灯は点々と奥へ続く。その先が大浴場だった。
入り口の引き戸を開けると脱衣所は、白熱灯がばかみたいに明るくて目がくらんだ。温泉は二十四時間入れるという話で、夜中にふらりとつかりに来る客もいるのだろうけれど、その時は誰もいなかった。僕は浴衣を脱ぐと二つある扉のうち露天風呂に通じる方の引き戸に手をかけた。
まっ黒な山の稜線越しに、ぽつりぽつりと瞬く星が見えた。昼間は晴れていたので満天の星空を期待していたのだけれど、薄ぐもりのようだった。こんなふうに僕は、ついてない巡り合わせが多い。夏の名残りを含んだわずかな風に、敷地の隅の植え込みがかさかさ鳴った。
「うー」
僕は、肩までゆっくり湯につかってうなった。声、出るよなあと思って一人で笑った。笑うと肩の力が抜けた。結婚を決めてからというもの、これからやらなければならない、あれやこれやを考えて気が重かったのだ。その気分を引きずったまま旅行に来てしまった。
「僕は結婚するみたいだよ、タキちゃん」夜空に向かってつぶやいた。
写真の中のタキちゃんは、まっ黒に日焼けしていた。きっとチアリーディングの練習が屋外で、夏の日差しに焼かれたのだろう。肌の色だけが虫捕りをしていた頃のタキちゃんのままだった。タキちゃんは、どのくらい部活に打ち込んでいたのだろう。レギュラーにはなれたのだろうか。チアリーディングの競技会に出て、アクロバティックな演技を決めたりしていたのだろうか。まだ金沢に住んでいるのだろうか。進学か就職を機に上京したかもしれない。職場で知り合った男と結婚したかもしれない。その男の故郷の広島あたりに移り住んで専業主婦なんかをしているかもしれない。虫捕りの好きだったタキちゃんが。
りり、りりり……。
虫の声が聞こえた。隅にある植え込みのあたりから聞こえてくるらしかった。こおろぎかな、僕は思った。
ゆるく吹いてきた風が白い湯気を空へ運んでいく。見上げた夜空は相変わらずくもっていて星空はのぞめない。
りり、りりり……。
こおろぎは休みなく鳴く。
こおろぎが鳴くのはオスだけで求愛行動だそうだよ、タキちゃん。
僕はとりとめない思いに沈みながら湯につかっていた。
肩に当たる夜風が心地よかった。
風呂から上がると三十分が経っていた。脱衣所を出てエレベーターのあるロビーまで戻る。浴衣姿の男が三人、声高にしゃべりながら前から歩いてきた。
「だからさあ、誰だよ幹事は」
「田山だろ。こうなると思ったんだよな」
「余興もねえし、周りには何もねえし」
「まあ、少々盛り上がりに欠ける宴会ではありましたね」
「ではありましたね、じゃねえよ。田山に言っとけ!」
男たちは酔いのにじんだ声をしていた。
飲み過ぎているのなら風呂につかるのは気をつけて。心の中だけでつぶやく。すれ違う時、こちらの端を歩いていた男が小さく会釈をしていった。
ちょうど一階に停まっていたエレベーターに乗り込み、僕は行き先階のボタンを押した。丸いボタンは固く、力を入れて押し込まないとランプが点かない。
明日、朝食前に秋実を温泉に誘ったら入るだろうか。バイキング形式の朝食は、つい食べ過ぎてしまうから気をつけないと。料理の選択にセンスを問われるから心してかからねば。オムレツだけは作り置きでなく、目の前で料理人が焼いてくれるのだそうだ。秋実が言っていた。秋実はちゃんと布団に入って寝ているだろうか。
ごとん、と大きな音をたて、旧いエレベーターがゆっくり上昇し始めた。
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