第2話 春の雉

 私が、東京の西のはずれにある実家へ戻ったのは、去年の夏のことだった。都内にアパートを借りて永らく一人暮らしをしていたけれど、家の事情で帰ることになった。

 実家の裏には大きな栗の木が一本あった。手入れをされていないからなのか、方々に太い枝を伸ばしていたので、低い枝はそれ自体の重みで地面の近くにまで垂れ下がっていた。その向こうは畑になっていた。時々、鍬をふるったり草むしりをしたりする人の姿を見ることがあった。近所に住む誰某の土地だと、子供の頃、母に聞かされたことがあったけれど、誰だったかもう忘れてしまった。南向きの居間の窓から、今も昔も眺められる変わらぬ風景だった。夏の間は、南向きの居間の窓と玄関を開け放しておくと、家の中を風が通り抜けた。その風で暑さをしのげた。栗の木の青々と茂った大きな葉が、日差しを遮っていたのも涼しかった理由だったろう。窓辺に座っていると木漏れ日が心地よく、冷房が取り付けられることは、ついぞなかった。その夏、栗の木の下には夏草が伸び放題になっていた。人の胸くらいまでありそうな夏草が、こちらの敷地にまで盛大に伸び広がっていた。勝手に立ち入って引き抜くわけにもいかず、日々眺めていただけだった。これだけ伸びる頃になると、隣りの地主の誰某が、草刈りに来るはずだった。それも母から聞いたことがあった。実際、以前夏季休暇で実家にいた時、たまたま草刈りしていた人を見たことがあったが、その夏はいつまでも草刈りが行われなかった。秋を迎え、晩秋の頃に夏草はすべて枯れた。枯れた草の上に、栗の木から落ちた葉が降り積もった。隣りの地主の誰某に何かあったのではと、どこの誰だか分からない人のことを私は心配した。隣りの草刈りがなかなか行われず、やきもきしていた頃、流しの下の戸棚の奥に、母の漬けた梅酒を見つけた。梅酒を漬けるための、大振りのガラス製の容器から、梅の実は除かれていた。容器に貼られたラベルに「平成19年7月」と、黒いマジックで書かれてあった。傍らの箱を開けるとそうめんが入っていた。中元でもらったものだろう。梅酒を飲んだ。とても甘く、母の味つけを思い出した。もっと甘みの少ない方がいいと、何度言っても母の味つけは変わらなかった。コップに注いでソーダ水で割り、氷を浮かべて焼酎を足して飲んだ。梅酒ばかりを飲み、そうめんばかりを食べた夏になった。秋口に大きな台風が二つ続けて関東沿岸を通り抜けた。栗の木の枝先の、瑞々しい黄緑をした毬は濃い茶色に変わり、ほどなく割れて、その中につやつやとした栗の実をのぞかせた。隣りの地主の誰某が、いずれ収穫にくるのだろうと思ううちに、くすんだ茶色の空になった毬ばかりが、枝先に目立つようになった。落ちた毬からも、収穫した跡はうかがえなかった。なぜ収穫に来ないのだろうと、どこの誰だか分からない人のことを、私はまた心配した。春先の頃、朝寝床の中で夢うつつにカン高い鳴き声を聞くことが、何度もあった。長く尾を引く声だった。鳥か動物か、何かの生き物が鳴く声のように思われた。動物の鳴き声に詳しいわけでもないので、何の鳴き声なのかは分からなかった。前年の秋にすっかり葉を落とした栗の木は、まだ寒そうに裸で枝を広げていた。落ちた葉は風に吹き飛ばされることもなく、地面に敷き詰められたままだった。

 この時季、落ち葉の間から赤みを帯びた薄い紫の、小さな花が顔を出した。その花があちこちから顔を出し始めると、一週間のうちに枯れ葉色の地面が、薄紫に煙った。ヒメオドリコソウ。図鑑で調べたらそんな名前らしかった。

 今朝、栗の木の下を歩いている雉を見た。落ち葉とヒメオドリコソウを踏みつけ、一歩一歩を確かめるような足取りで、首を前後に動かしながらゆっくり歩いていた。真っ赤な顔。短い首に濃い紫から青への濃淡があり、丸みを帯びた胸から腹にかけては濡れたような深い緑、葉裏のような薄い緑の羽に茶色の斑紋が散っていた。体長の半分ほどもある、薄い緑の細長い尾羽には、黒い縞模様があって、蛇のようだった。一歩踏みだす度に落ち葉を踏む音が、かさかさ鳴った。時々立ち止まり、じっと前を見据えたまましばらく動かず、何かを思い出したようにまた歩きだした。そんな動きを繰り返しながら、やがて雉は隣りの家との境にある生垣に首を突っ込んだ。低くした体を左右に小さく震わせながら、生垣の下の隙間をゆっくり通り抜けようとしていた。一歩進むごとに生垣の濃い緑の葉に体が隠されていった。生垣のこちら側へ、最後まで見えていた蛇のような細長い尾羽が見えなくなった時、「ケーン」というカン高い鳴き声が、尾を引いて辺りに響き渡った。

 両親が結婚する時に、父が建てた築四十年のこの家に、今も住み続けているのは、私一人だった。

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