女は蛇を飼っている

夢見里 龍

女は蛇を飼っている

「ねえ、蛇をみせてあげようか」

 藤香とうかがこっそりとそんなことを尋ねてきたのは、嫌になるほどに暑い、夏の午後のことだった。僕は藤香と一緒にすいかを食べながら畳に寝そべって、他愛のないことを喋っていた。藤香は急に黙ったかと思うと、なんの脈絡もなく、そんなことを尋ねてきたのだった。

 戸惑いがなかったといえば、うそになる。

 けれど僕は、動揺をおくびにもださずに頷いた。実をいうとあの頃は蛇が嫌いだったのだけれど、中学にもなって蛇をこわがっているだなんて、藤香に勘違いされたくはなかった。

 藤香は三軒隣に暮らしているお姉さんだった。

 お姉さんとはいってもそれほど年が離れているわけではない。まわりは藤香と僕のことを姉弟扱いしたがったが、実際の関係には幼馴染に近かった。藤香は僕よりも二歳年上で、五月の中旬をすぎると年齢はひとつしか違わなくなるのだけれど、藤香の誕生日が六月だったものだから、縮まったはずの年の差は毎度すぐに巻きかえされてしまうのだった。それが僕はちょっとだけ悔しかった。

「こっちだよ」

 藤香は僕を裏口の階段につれていった。

 まさか家の軒下に蛇が隠れているのだろうか。だが藤香は軒下を覗く素振りもなく階段に腰掛け、僕にも隣にすわるようにうながした。

「おいで、静かにね」

 藤香はそういって、ワンピースのすそをつまみ、ゆっくりとめくりあげていった。

 藤香がいったいなにをしたいのかまったくわからずに動揺しながらも、僕は美しい彼女の素脚から視線を逸らせずにいた。蛇をみるんじゃないの、そう言い掛けた言葉も喉の奥で詰まる。

 藤香は夏やすみのあいだはずっと、柔らかい生地のワンピースを着ていた。

 白地に藍のペイズリー柄。くるぶしに掛かるほどの丈の長いスカートは野暮ったいはずなのに、藤香が着ていると何故か、洗練されたふんいきになるのだった。そのワンピースのすそをもちあげながら、藤香は僕に囁きかけてきた。

「驚かせたらいけないから、声はあげないで」

 なにか、すごくいけないことをしているようなきぶんになって、僕はこくこくと首を縦に振った。

 靴を履いていない張りつめたつまさきと、みがき抜かれた桜貝の爪。僕とは違う、綺麗なかたち。くるぶしの硬い骨の輪郭が少女のなかの野生をにおわせる。ひとの脚のかたちは動物とは違っているけれど、あの骨のかたちだけは野を駈ける鹿と一緒だ。続けてあしくびの、腱のとおったくびれ。触れずともわかる、つるりとなめらかな、釉薬の掛かった琺瑯ほうろうの質感。布地がたくしあげられるのにつられて視線をあげれば、ふくらはぎの、たおやかにして華奢なふくらみがあった。

 そこで僕は気がつく。

 傷ひとつない肌には、あざのようなものがならんでいた。

 細かに散りばめられた、青い鱗、のような。

 それらのあざが彼女の肌の表をぬらりと動き、僕は声をあげそうになった。静かに、といわれていなければ驚いて悲鳴をあげていたに違いない。息を殺して、僕は藤香の脚に息づく蛇をみた。

 刺青しせいのような蛇の鱗がぬらぬらと濡れたひかりを帯びて、細い女の脚に巻きついている。鱗は藍。うっすらと白縹の斑紋があり、鎖を模して蛇の身に絡んでいた。あれは毒のある蛇の模様だ。

 蛇の藍は、くすみのない白肌に美しく映える。

 藤香は母方の祖父がロシアの血筋だとかで、生まれついて肌が霜に覆われたように白い。年を重ねても夏の日差しにさらされても、それは変わらなかった。

 ぴちりと揃えられた、ちいさな膝頭。鸚哥がまるまって眠りについているような。その微かな寝息までも呑みくだして、蛇は悠然と這いあがる。

 膝の上部まで露わになっても蛇の頭はまだ見当たらなかった。どこまでもどこまでも、藤香は絹を手繰る。いったいどこまでめくりあげるのだろうかと、僕はおそろしくなってきた。緩やかな恐怖と後ろめたい期待が入りまじって、握り締めた指が汗ばむ。

「もういいよ、藤香」

 根をあげるように僕は藤香をとめた。けれど藤香はスカートをおろさなかった。

「ううん、最後までみて」

 藤香はゆったりとした絹の襞をつくりながら、腰の際まですそをたくしあげた。

 もっちりと厚みのあるふとももの、張りつめた肌の眩さに眩暈がする。野生を損ない、まるみを帯びて熟した果実。押せばくぼみ、指の腹をはねかえすであろう、弾力のある柔肌に青い蛇が横たわっていた。角張った頭をあげ、されどそれはけっして透きとおった肌の表から立ち表れることはなく、血の流れる管とおなじように、ただ彼女の身のうちに棲んでいる。

 蛇の眸はただ青く、そう、群青だった。そこに縦長の、ぱっくりと裂けた傷みたいな瞳孔がある。赤い二股の舌をちらつかせて、蛇は呼吸を続ける。

 藍の鱗が艶めいた。

「これがわたしの、蛇」

 藤香の囁きはあまかった。へび、という単語が、彼女の舌に乗せることで熟した桃の香を漂わせる。

「触ってみてもいいよ」

 僕は誘われるままに手を差しだす。

 指の腹が藤香のふとももに触れようとする。けれど触れる間際で急激に眩んだ。竦んだといってもいい。年上の幼馴染の、しどけなくさらされた素肌と。蛇の鱗の、鉄を梳いたような鈍いひかりと。毒の桃の香。

 僕はとうとう、その肌に指を落とすことができず、黙って手をひいた。藤香はなにもいわず、睫毛を傾ける。なだめるように細い指が蛇の額をなぜつけた。

「おぼえておいてね。女はみんな、蛇を飼ってるんだから」

 藤香は脚のつけ根までスカートをまくりあげながら、妖しく微笑んだ。


 …………………………

 …………………… 

 …………


 それからすぐに、藤香は遠いところに引越していった。

 僕は大学生のうちにふたりの女性とつきあったけれど、どちらの素肌にも蛇は棲んでいなかった。けれど彼女らが細やかな嘘をついた時だとか、からだを重ねた時の涙の底だとかには、紛れもない蛇の呼吸が感じられた。脚ではなく、例えば胸のうちに。或いは腹のなかに。彼女らも蛇を飼っていたのかもしれないと、僕は想像する。

 緑の蛇があの細い肋骨に幾重にも絡みつき、眠りについている様を。女の薄い腹のうちで、薄紅がかった白蛇が赤い舌をちらちらと蝋燭の火のように震わせながら、僕を待ち構えている様を。そうした妄想は、僕に底知れない酩酊をもたらす。

 

 ひどくおそろしく、たまらなく愛おしい。

 

 藤香。君の教えてくれたとおり、女は身のうちに蛇を飼っているのだ。

 美しい蛇を。毒のある、しなやかな蛇を。

 蛇は細い骨に絡みつき、女たちの吸いつくような素肌の裏にうっそりとひそんでいる。ぬめりのある鱗を艶めかせて、欲に濡れた瞳を輝かせているに違いない。そうして僕らは、それにはけっして触れることはできないのだ。

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