第3話 琥珀色の地平

「そこにあるのは、“人類進化の行進図”ですね」


 先ほど見たポスターを、僕は指し示す。


「あれか。あれは素晴らしいよな。好きなんだ、あのイラスト」


 ブルームは、何かを察したように言葉を紡いでいた。


「有名な図ではありますけど、あれはらしいですね。あのような進化をしていないと聞きました」


 そのイラストは発表後に、多くの批判を受けたという。それは、多くの人々に“進化”について誤解を与えたからだ。

 ヒトが何かの目的──例えば、直立二足歩行──に向かって、意思の力で変化しているように錯覚させた。時代を経る毎に、より“高等”なヒトに変わっているように錯覚させた。


「ああ、知っているさ。本来”進化“はあれほど単純じゃないことくらい」


 進化の最先端にいると空想している僕等の身体は、全然洗練されていない。もっと言えば「その場しのぎ」で出来ている。


 例えば、飢餓との戦いの中でたまたま脂肪を溜め込むことで生き延びた。今では肥満という病を作りだしているけれど。

 また例えば、たまたま血糖値を上げたことで、氷河期に凍りつかずに生き延びた。現在では糖尿病と忌み嫌われているけれど。

 環境に合っていれば生き残り、環境が変わればすぐにボロを出す。それが僕等の身体だ。


 だから、あれは勘違いを生む、曰く付きのイラストだ。


「だからだ。だから、素晴らしいと思ったんだ。あれは人間のさがを表している」


 ブルームの表情に深く深く影が差した。


「どういうことですか」


「人間は『必ず“進歩”する』と想像して止まない、ということだ」


 言わば、行進図のイラストに持つ万人の誤解は、僕たちが進歩を期待している証左だと。不可能は無いと、皆が信じている証左だと。

 そしてブルームは平然と言い切る。


「あのイラストのずっと遠く右側には、エリックが走っているのを私は想像している」


としても?」


「ああ、そうだ。間違っているとしても。、どこまでヒトが進歩するのか、私は見たい」


 僕は万を持して言った。


「だから、あなたはドーピング剤をランナーたちにばらまいたのですか」


 僕はファイルを、カモシカが倒れたテーブルにドサッと投げる。ブルームは置かれた資料に一瞥を与えて、静かにため息を吐く。


「よく調べたね」


 ブルームは不敵な笑みを浮かべた。


『エリックの本当の実力を知りたければ、──他のランナーの不正を暴かなければならない。』


 告発文とも取れる一文が書かれた手紙が届いてから数ヵ月。僕は取材を重ね、ディー・ブルーム──首謀者に辿り着いていた。


 テレビはチカチカと瞬くまま。残り五キロ。エリックの周りには、ラビットも後続ランナーも居ない。一人孤独に、舗装路を走り続ける。


 ■


 この大会後、ドーピングスキャンダルの嵐が吹き荒れた。ブルームが悪びれず語った言葉を思い出す。


『超軽量ランニング用シューズ、最新のトレーニング、ラビット、高速コースの策定。色んな策略を巡らして、世界記録を押し上げてようとしているのに、なぜドーピングは駄目なんだ?』


『フェアネスなんて関係ない。どこまでヒトは限界を拓けるのか見たい。進歩していく夢を、現実にして見たかったんだよ』


 とても身勝手で誇大妄想的な理由だった。このスキャンダルで、何人かの有望な選手は消え、ブルーム本人の権威も失墜した。

 ブルームが語った話を僕はエリックに伝える。すると、彼はゆっくり口を開いた。


「本当に君が、あのスキャンダルを掴まえたのか。よくやってくれたね」


 エリックは微笑んで、僕を労う態度を示す。


「あなたが手紙で、僕をけしかけたのでしょう。この問題が片付けば、今度は顔を合わせて取材を受けようって。まさか本人だとは思いませんでしたが」


「まあね、サプライズだよ」


 悪戯っぽく歯を覗かせるエリックに、僕は質問をする。


「ブルームは、ただ自分が思い描いた夢を現実に映しだそうという野望の為に、スポーツの倫理を踏み越えました」


「ああ」


「あなたも当然、ブルームの興味の対象でしたよね」


「もちろん」


 エリック・ケンボイは全く手を出さなかった。それは、ドーピング検査が物語っている。ここで僕はうっかり本末転倒な質問をしてしまう。


「なぜ、あなたは手を出さなかったのですか」


 当たり前のルールを守っているだけにも関わらず、なぜと聞く。そんな失礼な質問に対してエリックは優しく答えた。


「稼ぐ為だけに走る、名声の為に走るランナーだったら、確かに誘惑もあるだろうな。焦りで手を染めてしまうこともあるだろう。けれど、私はどちらも違った」


「違う?」


「ああ。ただ、まともな姿を見せたい人が居たんだ」


 エリックは、不意にあのタブレットに視線を送る。マラソンの映像はまだ流れている。

 レースも最終盤。エリックは、苦しい表情で身体を前傾させている。風避けのラビット二人を、前半で失ったシワ寄せが今ごろになって身体を痛め付ける。

 それでもエリックは、余力を一滴も残さぬように身体をギリギリと絞り上げていた。鋭かった双眸も、いまや半目になりうつろだ。


 その表情を見て、僕は不意に思う。

 彼の双眸が見つめる先にあるのは何か──。

 エリックは問いを待たずして、自ずと呟いた。


「ゴールの直前、私は幻を見たんだ」


 僕はブルームの台詞も思い出す。


 ──人類最速のランナーの想像力で見る夢は、どんなモノだろうか?


 ■


 ──つらい。脚を止めたい。


 琥珀色オレンジの地平。

 群青ブルーの虚空。

 上下を二色に分割された抽象画の中を、エリックは走っていた。

 無限遠へと伸びる平坦な直線のコースを、ただ走る。肺を搾るような呼吸音と、地を叩くランニングシューズの音だけの世界。

 エリックは練習中に、この世界を想像したことがあった。

 平坦で無風で冷涼。

 最大限の能力を出せる、究極の空間。

 古今存在しえない、未踏の地平。

 しかし、そんな世界を観ながら、皮肉にもエリックの頭には諦めがよぎっていた。


 ──もう終わりにしよう。止まろう。


 そう思った矢先、遠くに佇む人影が見えた。ぼんやりとして何者か分からない。諦めをまず置いて、一歩一歩、迫ることに専念する。

 女性だ。記憶をくすぐる。知っている気がする。


 ──もしかして、君は。


 彼女は足音に気づいたように、振り返る。

 エリックの瞳に、涙が滲む。

 エリックは喘ぐ呼吸に混じらせ、声に成らない声でその名を呼んだ。


 ──ローナ、俺だ、分かるか。


 彼女はエリックを見て、昔と全く変わらない微笑を浮かべた。

 エリックは彼女に迫る為に、泥のような心の底から、気力を引っ張り出す。


 ──俺だ。だ。エリックだ。


 ──やっと見つけた。あれからずっと君を。


 飛び込むように。すがり付くように。彼女へ手を伸ばす。掴まえたと思った瞬間──。


 ■


「──歓声が耳に飛び込んできた」


 エリックがゴールテープを切ると、フラッシュが焚かれ、観客が沸く。エリックはローナが消えた虚空を抱き締める。


「一瞬消えたと思ったんだ。で、幻だと気づいた」


 エリックは、何も掴んでいない手の平を見つめ、頬には涙が伝った。そして、ひとつの誤解を生む。


「つまりゴールの瞬間に泣いたのは、『世界記録の夢が叶った喜びから』ではなくて『彼女の姿を幻と認めるのが悲しかったから』なのですか」


「まあ、そうなるね。やや気恥ずかしいけれども」


 ドーピングなんて眼中に無かった。なぜなら彼の想像力が描いたのは、名声や賞金への夢、人類の夢でもなかったから。

 エリックの双眸が見つめる先にあったのは、苦い苦い後悔の記憶。消えたローナの幻だった。


「まだどこかで生きてると思っていてね。もっと速ければいつかまた。有名になればいつかまた。自分の名を轟かせ続ければ、ローナが現れるのではないかと思った」


「今は、どうなんですか。諦めはつかないんですか」


 僕は思わず聞いた。


「なぜか、あれ以来そんな気持ちも、スッと消えたよ。もう踏ん切りがついた。あれだけ速く走っても掴まらないのだから諦めるよ」


 エリックは、お手上げだと苦笑するだけだった。


 ■


 数十人のランナーが準備運動を終えて待っている広場で、エリックに聞いた。


「これから、どうするんですか」


「この地で新しいランナーを育てる。別に走ることを止めちゃいない」


 彼は既に選手を辞めて、コーチに専念している。彼が率いるグループには、マーティーも居た。マーティーは僕に気づいて控えめに手を挙げて挨拶する。


「記録を塗り替えた瞬間、あの幻は消え去ったが、観客の歓喜が残った。そのとき、自分だけには勿体ないと思ったんだ。若いランナーたちに並走して、同じ世界を見せようと思うんだ」


「同じ世界ですか」


「そうだ、まだ私しか到達したことない地平だ」


 そこまでエリックが言ったところで、僕は気づく。


「あっ、──」


 琥珀色オレンジの地平。

 群青ブルーの虚空。

 上下を二色に分割された抽象画。


 僕は思わず、一人のランナーを指指す。


「居ましたよ。ほら、エリックさんと同じ地平をもう見てるランナーが、 あそこに!」


 エリックが向いた先には、マーティーが居る。僕の考えたことを察したエリックは大きく笑った。


「そうかもな。彼なら、有り得る」


 エリックは頷くと、おもむろにショッキングピンクの軽量ランニング用シューズを叩いて見せる。これから練習が始まる。


「じゃあな、また会おう」


 不整地の轍を、エリックを先頭に一列に走り出す。シューズで叩かれた地面に、土煙が舞っていく。遠く遠くに伸びるブルーとオレンジが成す地平線へと、彼等は小さくなっていく。


『エリックの本当の実力を知りたければ、──』


 この一文からスタートした僕の走路は、こうして終点に行き着いた。

 結局、エリックの実力を引き出していたのは、ごく個人的なエピソード、しかも過去への執着という消極的なものだった。


 それでも元を取れるほど邁進まいしんしてしまったのだから、エリックは凄い。

 いや、当たり前のことなのかもしれない。

 後ろ向きであろうが、不純だろうが、荒唐無稽だろうが。どこかの到達点に行き着くことに、動機なんか関係ないのかもしれない。


 前進する単純な動きと、脚を止めない意思の力だけで成り立つ。

 太っちょも痩せっぽちも、老いも、若きも。万人がマラソンの本能を秘めているのと同じように、万人が何処か遠くの到達点へと走っていく可能性を秘めている。


 僕は、そんな想像をして止まない。


 ■おわり■

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