マラソンランナーの上位の人って、同じの国の人ばっかりだよなあって思ったことありません?
才能だと思ってたんですよ。環境も含めて。
でもそうじゃあ無かった。いや、環境や才能に恵まれないといけないしその上に努力を研鑽していくから風を切り裂けるのですけれども、それだけじゃあなくて、もっと根幹に根差す覚悟が人を強くしてるんだなあって。
土俵は違いますが、我々創作家も大事なのは環境や努力より、覚悟なんじゃあないかなあって思いました。もちろん環境も努力も必要ですけど。そうじゃなくて、書かなかったら死ぬじゃん。だから書くんじゃん。っていう、そういう当たり前の覚悟が必要なんじゃあないかって。私はそう思いました。
【ネタバレを含みます! 先に作品をお読みください!】
作中に三度登場する情景描写「琥珀色の地平。群青の虚空。上下を二色に分割された抽象画の中」、まさにアフリカという感じがする。テレビで見たことがある。果てしなく続く大地と、濁り無い真っ青な空。「抽象画」と表現されていて、よりイメージしやすかった。
冒頭、匿名の手紙『エリックの本当の実力を知りたければ、──』を見れば、マラソン(というか競技スポーツ)という世界を舞台にしているから否が応でも『不正』が頭をよぎる。続けて「エリック・ケンボイ周辺へ取材を重ねることになった」というのだから、これから語られるのは世界記録更新を成し遂げた英雄の凋落だろうと予感する。
終盤、人類進化の行進図を見ながら会話する二人が言う「間違っているとしても」は、ブルームがドーピング剤をばらまいたという衝撃の真相に掛かってくる。ああ、間違いない、エリックが手にした栄光は『本物の実力』ではなかった。……否、これは真相ではない。エリックへの取材に場面は代わり、語り手の「なぜ、あなたは手を出さなかったのですか」によって覆される。
ミスリードを誘ってエリックの『本物の実力』を確実なものだったと明かす。見事な流れだった。……ところが、これさえも着地点ではない。単純にエリックが正直者だったからとか、アフリカの血による身体のバネがあったからとかではない。『本物の実力』とは何なのか明かされていく。
エリックには「ごく個人的なエピソード、しかも過去への執着」があった。「マラソンのトッププレイヤーへの篩分けは、ある特定の地域に産まれるか否かから始まる」という一文が鍵であった。ケニアに生まれ、政治的混乱による暴動に巻き込まれる波乱の過去を経験し、ローナを救えなかった後悔の記憶……それこそがエリックの『本物の実力』だった。
もちろん血の滲むような努力もあっただろうが、トップランナーならば皆不断の努力をしているわけで、その中で差を付けていたのは、やはり生まれの違い。人類の原始のスポーツの頂点に立てるかどうか、生い立ちから選別は始まっていたのだ。
フルマラソンにおいて、やはりアフリカ勢が強いという印象はある。それは身体機能に起因するものだろうと漠然と想像していた。これも、生まれの違いということになる。
ところがこの作品は、人間を極限まで走らせ勝利を掴ませるのは『想像力』だという。章の題目になるほど肝となるキーワード。
でもそんな曖昧なもので走り続けられるものだろうか。現実のフルマラソンにおいて勝敗を左右する要因が何なのかは分からないけれど、この小説は、確かに『想像力』が勝利へと導く要素だと、納得させる力を持っていた。すごい、これぞ小説という感覚。
二章、マーティーへの取材で登場する『枯れ草』。正体が誰であるのか特に気には留めていなかった。ミステリが好きなものだから、登場するもの一つひとつに何か隠されていやしないかと疑って読み進めてしまうのだけれど、今回は気に留めなかったことが幸いした。エリックの涙の理由が分かるところで、ガツンと衝撃が来た。
ランナーが一位でゴールテープを切り、感極まって涙するシーンは観客にとって感動的な場面だ。ところが、それは呑気すぎた。「己の身を強く抱いて、頬を涙で濡らした」、まさかこの一文さえも伏線になっているとは思わなかった。彼の涙の理由は、辛い練習や気が遠くなるような道のりに打ち勝ち世界記録更新によってその全てが報われたからではなかった。彼は記録ではなく、記憶を追っていた。苦い苦い、後悔の記憶を。人類最速のランナーの想像力で見る夢は、あまりにも悲しかった。
映像で流されるエリックの勇姿と並行してブルームと対峙する。徐々に真相へと、ゴールへと、この小説の到着地点へと近付いていく。この緊迫感がたまらない。三章へと移る間際の、「ここからは正真正銘、一人だけ。誰もがたどり着いたことのない領域を開拓している。そろそろ僕も世間話は止めて、核心を突かなければならない」、この期待の高め方はミステリの手法だ! この小説のジャンルは『現代ドラマ』に設定されているけれど、ミステリの側面も色濃く持っていて、どんどん読み進めてしまう。
運動生理学の権威であるブルームは、マラソンをスポーツとしては捉えていなかったのかもしれない。「ヒトは限界を拓けるのか見たい」……語り手は身勝手だと断じたけれど、読み手一個人としてはブルームの言葉を無視できなかった。「色んな策略を巡らして、世界記録を押し上げてようとしているのに、なぜドーピングは駄目なんだ?」。体に有害だからなのか、薬を使うこと自体への抵抗感なのか、素人の僕には分からない。どこからがアンフェアなのだろう。とはいえ、ルールはルールとして遵守するのがスポーツマンとして当然の姿勢であることは間違いない。
エリックを頂点へと牽引するローナの幻は消えてしまった。幻なのだから消えてしまうのは当たり前だけれど、そうではない。エリックが踏ん切りをつけたことによって完全に消失した。もう今の彼にはこれ以上の記録は出せないのだろうと思う。
でも終わりではない。「私しか到達したことない地平」を若者たちに見せたいという。選ばれた人類が想像力で見る夢はマーティーへと託されるだろう。
僕にも想像力はあるはずだ、乏しいとはいえ。「万人がマラソンの本能を秘めているのと同じように、万人が何処か遠くの到達点へと走っていく可能性を秘めている」のであれば、僕もいつかは、こんな素晴らしい小説が書ける……のかもしれない。
この物語は、単なるマラソンの話なのか。
この問いに、私は声を大にして否と答えたいです。
なるほど、確かに描かれているストーリーはそうかもしれません。
描写も見事。
シーンの繋ぎも、映像の手法を意識されているとのことで、驚くほどなめらか。
けれど私が真に感銘を受けたのは、この作品に込められたメッセージです。
これがひどく、書き手としての私に刺さりました。
書き手の皆様も、執筆中に感じたことはないでしょうか。
最初は「自分が楽しい」で終わっていたはずの執筆が、いつしかPVが伸びない、フォロワー数が増えない、評価されない、と悩みの種になる。
自分の作風は流行に乗っていないのか。ならば、流行りの物語を書いてみれば、受けるんじゃないのか…そんな、麻薬のような誘惑に負けそうになる時があります。
けれど、本当に大切なのは、貴方自身の純粋な願い--「評価されるか、されないかではなく」「あなた自身が書きたいと、伝えたいと思ったものを書くこと」なのではないか。
この物語は静かに、力強く、そう問いかけてくれている気がします。
ただひたすらに前を睨んで、誘惑に屈せずに前を突き進む……そんな勇気を与えてくれた本作に、最大限の賛辞を。
人は夢のために邁進する。夢は人の原動力となるのだ。
ならば、その道のトップを走る人の見る夢はどんなにすごい物であろうか。あなたも見てみたくありませんか?
この作品で描かれるのはある夢のために頂点の走りを目指す一人のランナーと、
それぞれの夢に向け進む周囲の人々の思いだ。
人の数だけ夢があり、過程があり、結果がある。
共通して言えるのは誰も夢を見ることを諦められないことだ。
夢は叶える物だという。だが、その道のりは必ずしも平坦とは限らない。
日々の生活の中で擦り切れ、夢を見るのに疲れたあなたに読んでほしい、力の湧く作品です。
この作品とタイトルとキャッチコピーを見た瞬間、「絶対面白いに違いない!」と直感が閃きました。
「リフト・バレーの幻」、全く意味がわからない。しかし、なんか伝わってくる。そして、キャッチコピーからは、マラソンの話っぽいことがわかる。
マラソンの短編? 絶対面白いに違いない、そう思って読み始めると、いきなり、ベルリンマラソンの空撮の描写が始まる。
おいおい、何これ?! 映画かよ!
頭の中に映像浮かんでくるんだけど!!!
そして場面展開して、意味深な会話。何の話だかわからないけど、いかにも意味深。ここでも、映像浮かんでくる。話している男は、肘を机につけ、両手の指を絡めている。キラッと光る眼鏡の奥の目は見えない。碇ゲンドウか! 場面展開したら、アニメになっちゃったよ!
最後、きれいに伏線が回収され、読み終わった瞬間、「面白かったー!」と思わず、応援コメント書いてしまいました。
レビューと言うよりも、感想になってしまっていますが、とにかく、すごい作品です。頭の中で、短編映画上映されました。
一読、おすすめします。