記録ではなく、記憶を追った。苦い苦い後悔の記憶を。
- ★★★ Excellent!!!
【ネタバレを含みます! 先に作品をお読みください!】
作中に三度登場する情景描写「琥珀色の地平。群青の虚空。上下を二色に分割された抽象画の中」、まさにアフリカという感じがする。テレビで見たことがある。果てしなく続く大地と、濁り無い真っ青な空。「抽象画」と表現されていて、よりイメージしやすかった。
冒頭、匿名の手紙『エリックの本当の実力を知りたければ、──』を見れば、マラソン(というか競技スポーツ)という世界を舞台にしているから否が応でも『不正』が頭をよぎる。続けて「エリック・ケンボイ周辺へ取材を重ねることになった」というのだから、これから語られるのは世界記録更新を成し遂げた英雄の凋落だろうと予感する。
終盤、人類進化の行進図を見ながら会話する二人が言う「間違っているとしても」は、ブルームがドーピング剤をばらまいたという衝撃の真相に掛かってくる。ああ、間違いない、エリックが手にした栄光は『本物の実力』ではなかった。……否、これは真相ではない。エリックへの取材に場面は代わり、語り手の「なぜ、あなたは手を出さなかったのですか」によって覆される。
ミスリードを誘ってエリックの『本物の実力』を確実なものだったと明かす。見事な流れだった。……ところが、これさえも着地点ではない。単純にエリックが正直者だったからとか、アフリカの血による身体のバネがあったからとかではない。『本物の実力』とは何なのか明かされていく。
エリックには「ごく個人的なエピソード、しかも過去への執着」があった。「マラソンのトッププレイヤーへの篩分けは、ある特定の地域に産まれるか否かから始まる」という一文が鍵であった。ケニアに生まれ、政治的混乱による暴動に巻き込まれる波乱の過去を経験し、ローナを救えなかった後悔の記憶……それこそがエリックの『本物の実力』だった。
もちろん血の滲むような努力もあっただろうが、トップランナーならば皆不断の努力をしているわけで、その中で差を付けていたのは、やはり生まれの違い。人類の原始のスポーツの頂点に立てるかどうか、生い立ちから選別は始まっていたのだ。
フルマラソンにおいて、やはりアフリカ勢が強いという印象はある。それは身体機能に起因するものだろうと漠然と想像していた。これも、生まれの違いということになる。
ところがこの作品は、人間を極限まで走らせ勝利を掴ませるのは『想像力』だという。章の題目になるほど肝となるキーワード。
でもそんな曖昧なもので走り続けられるものだろうか。現実のフルマラソンにおいて勝敗を左右する要因が何なのかは分からないけれど、この小説は、確かに『想像力』が勝利へと導く要素だと、納得させる力を持っていた。すごい、これぞ小説という感覚。
二章、マーティーへの取材で登場する『枯れ草』。正体が誰であるのか特に気には留めていなかった。ミステリが好きなものだから、登場するもの一つひとつに何か隠されていやしないかと疑って読み進めてしまうのだけれど、今回は気に留めなかったことが幸いした。エリックの涙の理由が分かるところで、ガツンと衝撃が来た。
ランナーが一位でゴールテープを切り、感極まって涙するシーンは観客にとって感動的な場面だ。ところが、それは呑気すぎた。「己の身を強く抱いて、頬を涙で濡らした」、まさかこの一文さえも伏線になっているとは思わなかった。彼の涙の理由は、辛い練習や気が遠くなるような道のりに打ち勝ち世界記録更新によってその全てが報われたからではなかった。彼は記録ではなく、記憶を追っていた。苦い苦い、後悔の記憶を。人類最速のランナーの想像力で見る夢は、あまりにも悲しかった。
映像で流されるエリックの勇姿と並行してブルームと対峙する。徐々に真相へと、ゴールへと、この小説の到着地点へと近付いていく。この緊迫感がたまらない。三章へと移る間際の、「ここからは正真正銘、一人だけ。誰もがたどり着いたことのない領域を開拓している。そろそろ僕も世間話は止めて、核心を突かなければならない」、この期待の高め方はミステリの手法だ! この小説のジャンルは『現代ドラマ』に設定されているけれど、ミステリの側面も色濃く持っていて、どんどん読み進めてしまう。
運動生理学の権威であるブルームは、マラソンをスポーツとしては捉えていなかったのかもしれない。「ヒトは限界を拓けるのか見たい」……語り手は身勝手だと断じたけれど、読み手一個人としてはブルームの言葉を無視できなかった。「色んな策略を巡らして、世界記録を押し上げてようとしているのに、なぜドーピングは駄目なんだ?」。体に有害だからなのか、薬を使うこと自体への抵抗感なのか、素人の僕には分からない。どこからがアンフェアなのだろう。とはいえ、ルールはルールとして遵守するのがスポーツマンとして当然の姿勢であることは間違いない。
エリックを頂点へと牽引するローナの幻は消えてしまった。幻なのだから消えてしまうのは当たり前だけれど、そうではない。エリックが踏ん切りをつけたことによって完全に消失した。もう今の彼にはこれ以上の記録は出せないのだろうと思う。
でも終わりではない。「私しか到達したことない地平」を若者たちに見せたいという。選ばれた人類が想像力で見る夢はマーティーへと託されるだろう。
僕にも想像力はあるはずだ、乏しいとはいえ。「万人がマラソンの本能を秘めているのと同じように、万人が何処か遠くの到達点へと走っていく可能性を秘めている」のであれば、僕もいつかは、こんな素晴らしい小説が書ける……のかもしれない。