リフト・バレーの幻

緯糸ひつじ

第1話 万人の為のスポーツ


 朝の冴えた空気が肌寒い、ベルリンマラソンの当日。スタート地点を空撮したならば、四万人以上のランナーが舗装路を埋めているはずだ。

 太っちょも痩せっぽちも、老いも、若きも。スタートの瞬間を待っている。心地よい歓喜と、ひりつく緊張感を渾然させて待っている。

 マラソンは、万人の為のスポーツの祭典だ。

 単純な動きと、意志の力のみで成り立つ。


 しかしスタートラインを観ると、様子が変わってくる。浅黒く強靭な体躯のランナー達が居並ぶ光景になる。

 彼等は、生まれつきの走者だ。なぜ、そう言えるか。このスポーツには、ある純然たる事実がある。

 マラソンのトッププレイヤーへのふるい分けは、ある特定の地域に産まれるか否かから始まる、ということだ。公認記録の歴代一〇〇位は、ケニアとエチオピアの二ヵ国がほぼ独占している。

 よって先頭に並べるのは、神に与えられた天賦の才を持ち、それに加えて血の滲む努力も重ねた一握りのアスリートだけだ。


 それでも、今大会の主役と言えるのは一人。漆黒の引き締まった細身の体躯、双眸は鋭いが思慮深い印象が窺える。

 ──エリック・ケンボイ。

 三四歳、ケニア共和国出身。実力ナンバーワンのランナーだ。しかし、何度も世界記録の壁に阻まれ、彼は病的なまでに記録更新の野望を抱いていた。


『……五、四、三──』

 張り詰めた静寂の中を、カウントダウンが鳴る。

 号砲が響く。止まった時間が弾ける。

 ランナーが一斉に駆け、集団を作る。

 電光掲示板が、一秒一秒を確実に刻んでいく。


 ■


 この話を綴っていく上で、大会の結末について二つのことを先に記そうと思う。


 ひとつは、このあとエリックは、誰よりも速く──それは過去から現在までに至る人類全て、という意味で──四二・一九五キロメートル先に到達する。

 つまりは、世界記録を更新するということ。


 そして、もうひとつ。ゴールの場面の光景について。

 今まで世界記録を更新した余多のランナーが、腕を掲げて歓喜の表情を浮かべる、ゴールの瞬間。

 盛大な歓声を浴びながら。

 エリックは、己の身を強く抱いて、頬を涙で濡らしたこと。

 世界記録の念願が叶い、観客全てから祝福を受ける。そんな感動的なシーンとして、人々の記憶に新しい。


 エリック・ケンボイは、人々の羨望と歓声を集めて止まない。僕もその一人として、彼の強さに迫ろうと考えた。

 なぜなら、この大会の数ヵ月前、手元に匿名の手紙が届いたからだった。


『エリックの本当の実力を知りたければ、──』


 そんな一文から始まる手紙に好奇心を刺激され、僕はエリック・ケンボイ周辺へ取材を重ねることになった。


 ■


 僕は、書物が溢れて雑多な研究室内のテレビモニターで、マラソンのスタートの瞬間を見ていた。


「エリックは、人類史上最高のランナーだ。二時間未満サブ2の記録さえ夢じゃない」


 そう語るのはエリック他多数のランナーを支援する運動生理学者、ディー・ブルームだ。

 僕のようなスポーツライターだけでなく、運動生理学の権威も、エリック・ケンボイに注目している。


「あの渾名、誰が付けたんだよ。同業者でも、分からないのか?」


 ブルームは白髪を掻きながら僕に聞いた。


 鋭い双眸と世界記録への執念から、エリックのことを一部のメディアはパンサーと形容した。関係者の中では、かなり不評な渾名だと知った。

 知りません、僕は零細なんで、と答える。するとブルームは、冷笑を浮かべて言った。


「まずな、人類はヒョウなんかよりも、ずっと残酷な狩りをするんだよ」


 インスタントコーヒーにお湯を注ぐブルームに、意味を取りかねた僕は、どういうことですかと聞く。僕の困った表情を観て、ブルームは悪戯っぽく笑う。


「フルマラソンが、その答えだ」


 ブルームが、あごでテレビ画面を示す。

 テレビ中継に写し出された、黒いアスファルトの舗装路を、第一集団が順調に駆けていた。

 画面にアップでエリックの表情が写し出される。彼の双眸が見つめる先にあるのは何か──。


 ■


 ──羚羊カモシカだ。

『見つけたぞ』

 炎天下のサバンナに、名も無き走者ランナーたちが居た。オレンジの大地とブルーの空を基調とした世界を、裸足で駆ける。

『追え、追え』

 腰蓑こしみのだけ身につけた細身の男が、四人。野生の羚羊カモシカを追跡している。彼等は灼熱の太陽の下、草木をすりぬけ、かれこれ三時間は走っていた。


「約二〇〇万年前、弓矢も槍も無かった時代の話だ」


 ブルームはテーブル上で、カモシカと原始人のフィギュアを操る。そして先祖の風景を語り、最後に僕に問いを出した。


「人類はなぜ走るのか。マラソンみたいなスポーツが、なぜ万人に受け入れられているのか、考えたことがあるか?」


「単純だから、ですか?」


「違う、もっと本能的なものだ。とても単純な競技だが、人間が他の哺乳類に持ってない特徴を、端的に表しているんだ」


「えーと、人類が持つ特徴と言えば……」


 僕は思いつく限り、挙げていく。

 例えば、火を起こす、とか。

 例えば、道具を使う、とか。

 例えば、音楽を奏でる、とか。

 例えば、祈りを捧げる、とか。


「違う違う。簡単に考えろ」


 僕は唸ったのち黙りこくってしまい、ブルームは苦笑する。


「勘が鈍すぎるな。まあ、いい。長距離を走り続けられることだよ。そのまんまだろ」


 僕は想像する。

 原始人たちが、炎天下の大地を疾駆する姿。一頭の羚羊カモシカを執拗に追い続ける姿。

 彼等は日に焼け、汗を流しながらも、進む脚を全く緩めない。


「実は、他の哺乳類は短距離走はヒトより速いが、体温が下がりにくいという点で持久走には向いてないんだ。だから、強烈な膂力や牙を持たない、非力なヒトにもこんな狩猟方法ができる」


 何度も距離を離されようが、地の果てまで一頭を追う。淡々と追い詰め、体温を下げる隙を作らせない。獲物が消耗しきって力尽きるのを待つ。持久狩猟という方法だ。

 道具を、火を得る以前に手に入れた、生き残るすべだ。

 羚羊カモシカはよれよれと走る。致命的なレベルまで体温が上がり、熱射病に成りかけている。体の熱を必死に排出しようと喘ぎながら息を吐く。

 しかし、男達は顔色ひとつ変えない。ただ淡々と、スピードを緩めずに、炎天下の中をひた走る。


「残酷だろ、人類ってのは。でも、走ることこそ、人類を人類足らしめてるんだよ。走り続けるイコール生きる。だから、マラソンに人々は惹かれる」


「本能に刻まれている、と」


「そう。フルマラソンは原始のスポーツなんだ」


 ブルームの手元では、まだ原始人がカモシカを追っている。


 ■


 一方、どぎつい色のランニングシューズで装備した現代のランナー達は、ラビットを追っていた。


 ──ラビット。


 マラソンに於ける“ペースメーカー”のことである。ランナーの集団を引っ張るように一緒に走っている。

 彼等は主催者側が雇ったサポート役だ。設定されたペースで中盤まで走り続け、ランナーを引っ張る。選手同士の余計な消耗戦、駆け引きを無くし、ランナー達の風避けにもなる。

 大会を盛り上げるような好記録、あわよくば世界記録をつくる為に彼等は存在する。言うなれば、アリスを異次元の世界へ連れていく白兎だ。


 彼等も実力を秘めたアスリートだ。しかし、レース日程や経済面などの観点から、この仕事を選ぶ。数千ドルの報酬を手にする為に、だ。

 先頭ランナーのエリック・ケンボイを囲うように走るのは、三匹のラビット

 そのうちの一人、ケニアの新星、二十四歳。

 ──マーティー・ギタウ。

 僕が以前、マーティーに取材をしたとき彼はこう語っていた。


『僕は多くのケニア人トップランナーと同じく、挑戦者ではなく、稼ぎ手としてランナーになったんです』


 貧しい農村から出たマーティーは、ティーンエイジャーになるまで裸足で過ごしていたという。


『一五年前の話です。それがぼくの運命を決めました』


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