第2話 想像力

 ケニア共和国、リフト・バレー州。そこがマーティーの出身地だ。アフリカ大陸を東西に裂く、大地溝帯グレート・リフト・バレーの名を冠するだけあって、空と緑と土の雄大な風景が描かれる。


 一五年前、まだマーティーが九歳だった頃。政治的な混乱をキッカケに、彼が住んでいた街で暴動が起きた。大人が喚き立て、石が飛び交い、ナイフが振るわれる。混沌そのものだった、とマーティーは言った。


「まだ子供だったので、発端はよく分かりません。でも、もともと、その土地は貧富の差が激しくて、何かと暴力と対立が根深いところでした。強盗、殺人、テロ。何が有っても不思議ではないんです」


 そして、自嘲気味に付け加える。


「まぁ、他国に行ってから、あの雰囲気が普通ではないと気づきましたけどね」


 そして苦い記憶を、彼は語り出す。



『なぁ、枯れ草ぁ、どうなっちゃうの』


 枯れ草と呼ばれた青年は、不器用に微笑んだ。九歳のマーティーは手を引かれるまま、車の轍が残るでこぼこ道を進む。晴れ渡った空が、土埃が舞うオレンジの大地を輝かす。


『マーティーは心配しなくていい』


 と枯れ草青年は言った。

 マーティーは何度も訊ねた言葉を、もう一度繰り返す。


『ねぇ、ローナ姉ちゃんは?』

『はぐれたって言ったろ。まずはお前から安全な村へ』


 間髪を入れない。枯れ草青年は視線も合わせてくれなかった。しつこくマーティーは聞く。


『お姉ちゃんは探さないの?』


 マーティーは知っていた。ローナに対する枯れ草青年の接し方が、どうにもぎこちなくなること。ローナの笑顔には、まるっきり目も合わせられないこと。つまり、好意を抱いていたことを知っていた。


『探すよ! 探すに決まってるだろ。あの混乱で探すのは危険なんだ。マーティーは村へ行け、俺がすぐ助けてくるから』


『ぼくも行く!』


 その言葉に枯れ草青年は、苦しい顔をする。ワガママで困らせたのだと、マーティーは今では反省しているという。


『お前の脚じゃ間に合わないかもしれない。頼む、村で待つんだ、俺が見つけ出す』


 枯れ草青年は、大きく息を吐く。そして、くるりときびすを返し、道を戻って走り出す。地平線へとみるみる小さくなっていく。風に流されて地を駆ける、枯れ草のように速かった。彼の渾名の由来だった。



「それで、結局どうなったんですか?」


 僕は、不躾に答えを聞く。


「ローナ姉さん、消えちゃったらしいですよ」


「消えた?」


「はい、幻のように。たぶん生きてやしないでしょう。親戚や知り合いも何人か、その日に亡くしました」


 特に感情を込めることなく言う。家族を失った哀しみは、長い時間に溶かされていたようだった。


「そこでプロのランナーになると決めました」


 マーティーは、リフト・バレーが長距離ランナーを生む特殊な土壌だと知っていた。幼い頃から裸足で走る生活、酸素の薄い高所という土地柄、そして富への渇望。有利な条件が揃っていた。


「こんな街から出てやる、富を得るんだ。プロのランナーとして成功すれば、両方とも叶います。いずれ、ぼくは誰よりも速いランナーになります」


「強気ですね」


「ええ、そりゃ、大口も叩きますよ──」


 マーティーは自分に言い聞かせるように、力強く言った。


「──ぼくらは生き抜く為に走ってるんです。止まったら終わりなんですから」


 その考え方は、マーティーが時折見る夢に起因しているらしい。大事なレースが近づくと、ローナが鮮明に現れる。

 夢では決まって、同じ風景だという。


 琥珀色オレンジの地平。

 群青ブルーの虚空。

 上下を二色に分割された抽象画の中。

 姉弟はひた走る。

 そして道中で突然、ローナがよれよれと足が進まなくなる。マーティーが振り返って声を掛けても、彼女は──。


「結局、ローナ姉さんは道中ばで、力が底をついたのでしょう」


 ──諦めたように立ち尽くしている。


 ■


 そして、どさりと地面に転がるのを確認して、腰簑だけの男は安堵する。


『よし、とどめだ』


 そう男は冷静に言い、熱射病に倒れた羚羊カモシカを見下ろす。

 他の男が手頃な岩を拾い上げ、羚羊を殴りつけた。肌を伝う汗を拭った。羚羊は息絶えた。

 

 太陽はまだギラギラと輝いている。


「眩しいな」


 ブルームは窓のブラインドを閉じ、僕に向き直す。やや薄暗くなった部屋に、テレビの明かりがぼんやりと広がる。

 二〇キロ地点、約半分を過ぎる。レースに問題が起きていた。

 他の二人のラビットが、世界記録ペースを保てず、既に脱落していた。風避けが減り、プランは崩れる。マーティーだけが依然、エリックの風避けとなり並走している。


「で、質問はなんだったかな」


 ブルームに僕は聞き直した。


「他の哺乳類と違って、なぜヒトは持久走に向いてるのですか?」


「あぁ、そうか。それはだな、だいたい、みっつの適応が関係している」


 ひとつは、発汗作用。毛皮を纏った四足動物と違って、人間は多数の汗腺を持っていること。炎天下を走っても、大量の汗をかくことで身体を冷却できる。


 ふたつめは、走るための身体の構造。アキレス腱や土踏まずがバネのように働いて、エネルギー効率を高める。他にも、強靭な大臀筋、首の項靱帯など、歩くより走るときに真価を示す形質がヒトには多い。


「でも、みっつめが一番、興味深いんだよな」


 ブルームは勿体振るような笑みを浮かべ、コーヒーを一度すする。質問を待っているような雰囲気なので僕は応じた。


「それは、なんですか?」


「気になるか? そりゃ、気になるよな。──答えはな、想像力。夢見る力だ」


 六時間から八時間追い続けることもあると言う持久狩猟。遠い未来のカモシカに一撃を食らわせる想像ができたことで、狩猟を延々と続けたり、現状の不足を辛抱できた。


「想像力は、苦痛を忘れさせることができる」


 原始のランナーたちは、炎天下を走り続けた先の倒れる獲物を、夢に見ていた。

 現代のランナーたちは、体を酷使し続けた先にある好記録と賞賛の声を、夢に見ている。


「想像力が、ランナーの活路を切り拓いたんだ。ヒトを未来へ進ませるのは、夢見る力だ」


 ブルームは熱弁する。彼が気づかない程度に、僕はチラリと壁に貼ってある小さなポスターを見た。

 霊長類たちが一列に並び、右へと行進していくイラスト。左端のサルから順に、右に進むほど背筋を伸ばし、現代人へと近づきながら進む。

 悠久の旅路を空想したくなるような、そのイラストの名は「人類進化の行進図」。

 これもまた、想像力の産物だ。


 ブルームは目を輝かせながら、まだ話を続けている。


「ならばと、私はこんな疑問を持ったんだ。──人類最速のランナーの想像力で見る夢は、どんなモノだろうか?」


 この問いは、あまりにあやふやでロマンチストすぎる。

 だから、このように質問を変えよう──。


 ■


 レースの後半戦、エリックは世界記録が出せると想像していたのか。


「もちろん確信していたよ。その為に準備していたからな」


 低い耳ざわりのよい声でエリック・ケンボイは言った。


 僕のタブレットで過去の映像を観ながら、懐かしむような様子だった。大会後、僕はエリックに取材をする機会を得ていた。


 ホテルの窓から涼しい風が吹き込み、カーテンを揺らす。その先に見えるのは、ケニア共和国の大地と、ランニングジャケットを着た男たちが和気藹々としている風景だった。

 ここはランナーの聖地だ。海抜が二〇〇〇メートルを優に越え、日常生活が既に心肺機能のトレーニングになる。


「ここまでのレース展開は、どうでしたか?」


 当時の心境を振り返ってもらう。アスファルトの舗装路、沿道の観客、そして力走する自分の姿を観て、エリックはゆっくり言葉を発した。


「プラン通りではなかった。ラビットが二人も抜けたからね。でも、全てに於いて神経が研ぎ澄まされていたんだ。苦痛と恍惚に宙吊りにされて、今にも翔んでいけそうな気分だったよ」


 いわゆるランナーズ・ハイだ。マリファナのような作用がある物質が体内で生成され、身体が発する警告音を切る。このときエリックは、更にペースを上げようとした。


「マーティーがちらりと私の方を見たとき、苦痛の顔に歪んでいたのが分かった」


 ここまでしか、ぼくには無理です。そんな表情を張り付ける。当然だった。地球上一番速いランナーの速度に合わせたペース設定だったからだ。


「彼は昔から律儀だ。何処までも風避けとなろうとしてくれた。若くて荒削りだが、良い走りをする。世界記録は、マーティーのお陰と言って良い」


 映像で示された距離は、三〇キロ地点を越えた。いよいよ佳境に入る。

 でも、ここまでだ、マーティー、ありがとう。

 映像のエリックはそう目で合図して、アスファルトを脚で強く叩き始める。

 そして、先頭で引っ張り続けたマーティーを、完全に抜き去った。


 ■


「惚れ惚れする、流石だ」


 ブルームは、テレビに拍手を送る。日射を遮ってから、埃っぽさが際立ってきたように感じる。


「やはり彼は、人類の限界を抉じ開ける夢のランナーだ」


 ブルームの感嘆は当然だった。エリックの脚は世界記録を上回るペースで回り続けている。細い身体を、前へ前へと押し出して、都市の風景を後方にビュンビュンと流していく。

 ここからは正真正銘、一人だけ。誰もがたどり着いたことのない領域を開拓している。

 そろそろ僕も世間話は止めて、核心を突かなければならない。

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