終
夜よりほかに聴くものもなし
裏切られたと、最初はそう思った。
だが今ではそれは間違いだったと思っている。なぜなら、最初から白河六花とあの男との間に、信頼関係などなかったからだ。裏切るも何もなかったからだ。
だから、妊娠を告げ、結婚を迫ったときに、「堕ろせ」と一蹴されるのは当然のことだったのだ。
何もかも、タイミングが悪かったのではないかと思ったときもある。あの男の拵えた借金を返すための仕事に向かった、その先で愚痴ってしまった。殺したいなどと口走ってしまった。そして実際に、殺した。もちろん六花は、半年前の事件の夜、気絶から覚めたときに目にした人影に向けて近くにあった銃を握り、引き金を引いたあのとき、心神喪失状態だった——それは誰しもが認めるところだろう。なにせ、頭を撃たれたのだ。血がたくさん、たくさん出たのだ。まともに考えることすらできなかったのだ。だから、自衛のために近くにあった銃を握ってしまったのだ、構えてしまったのだ、相手が誰かを確かめずに引き金を引いてしまったのだ。
だから、運が悪かった。そんなふうに自分を納得させることはできる。
だがそうではない。結局悪かったのは六花だ。あの男も悪かったが、それを信じていた六花も愚かしかった。そしてあの男——六花を撃ち、犯した、名前も知らないあの男も。
誰もがもっと正しく生きていれば、こんな事件は起きなかっただろう。誰もが正解を知ることができていれば、間違いなど犯さなかっただろう。だが、そうではなかった。
恋人を撃ってから、白河はまた意識が途切れた。次に目覚めたときは夢見心地だったが、撃った事実も撃たれた衝撃も夢ではなかった。死体は残っていて、己の額では血が固まっていた。救急車を呼んだ。警察も。到着までの間に、銃はポケットの中に簡単に隠せた。それほどまでに小さく軽い銃だった。
救急車で病院に連れて行かれた。その頃には意識ははっきりしていた。検査で脳や臓器は傷を受けていないことが判明し、額の傷を縫ってもらった。膣から残っていた精液を採取された。彼が死んだことを聞かされた。銃弾は心臓を貫いていた。その犯人は、六花を撃った人物と同一犯だと思われているらしかった。当たり前だ。六花のことを誰も疑ったりはしなかった。硝煙反応でも出れば一発だと思ったが、警察はそんなことを調べたりはしなかった。
つまるところ、自分は被害者であり、ほかの何でもない存在なのだ。銃で撃たれていれば、そう考えるのは当然のことで、男を撃った犯人——失我の状態にあった六花をそう呼ぶのかどうかが正しいのかはともかく——であるなどと疑われるわけがないのだと、安心なのだと、むしろあの男がいなくなって良かったのだと、そんなふうに自分を納得させることもできた。
だが白河の中では詰まるものがあった。男を殺したのは自分だ。だが己を撃ち、犯した犯人は別にいる。
べつだん、その男が許せないなどと思っていたわけではない。もちろん、厭うべき存在である。額を撫でるたびに傷を指がなぞってしまって事件当夜のことを思い出し、気分が落ち込みもする。しかしそれはそれだ、終わったことだ、と自分を前向きにさせようと努力することもできた。
犯人が生きてさえいなければ。
彼は知っているだろう、白河が男を撃ったことを。なぜならば、彼は逃げ出していて、自分が撃っていない人物が死んでいるということを知っただろうから。その事実は、いつか六花に牙を剥くだろうか——いや、そんなはずがない。もし犯人が逮捕され、おれは撃って犯しはしたが殺してはいない、などと囀ろうと、誰も信じるはずがない。そう、証拠だってないのだ。硝煙反応など、いまとなってはもう残っているはずがないのだ。これで、銃をどうにかして捨ててしまえば——それで終わりだ。どう転んでも六花に疑いが向くはずがない。万一犯人の証言を裏付けるような何らかの物的証拠——たとえば男の死亡推定時刻に犯人の不在証明があっただとか——が出てきたとして、六花が撃ったということが事実だと考えられるようになったとしても、六花は当時、撃たれた直後で心神喪失状態にあった。正常ではなかった。だから何も、心配する必要はない。何も。
だが結局銃は捨てられず、いつか嫌疑をかけられるやもという不安はいつまで経っても拭えなかった。
言ってみれば、出かけたあとでガスの栓が気になるようなものだ。匂いはしなかったはずなのだから開けたままということがあるはずがないし、開けたままでも火は点いていないので、何も大事に至るはずがないのだが、どうしても気になってしまう。
だから退院してから、捜査が行き詰まっていることを知るや、六花は自分で犯人を捜そうとした。警察よりも早く、早く——見つけて、それで、口を封じる。でなければ、でなければ、六花は駄目になってしまうではないか。未来がないではないか——子どもも。生まれてくる子どもも。昔は好きで、少し前に嫌いになって、死んだ——自分が殺した相手との子どもも、六花は見捨てたくはなかった。育てたいと思った。だから。
そのために歩き続けた。街を。
そして三ヶ月後——四月。六花はようやく犯人を見つけた。顔は覚えていた。忘れるはずがなかった。六花は犯人を罵倒した。殴打した。銃を突きつけた。死ねと言ったら、死ぬと言った。縄を調達し、近くの神社の木で首を吊った——吊ったのだ。
それで、終わりだ。満足して? 正確には違う。これで終わりだ、と思ったのだ。首を吊ったから、それで終わりだ、と。男を探し回る日々も終わりだ、と。
だが彼は死ななかった。
六花は自分がどうすれば良いかわからなくなっていた。終わったと、これで終わりだと、思ったのだ。そのときは。だからもう止めようとしたのだ。終わりにしようとしたのだ。それなのに、終われなかったのだ。気分が悪くなって、ベンチにへたり込んだ。男が話しかけてきた——それが、犬上大輔という刑事だった。
その刑事が、いまは石段から見下ろせる場所にいた。
距離はおよそ二十メートルといったところだろうか。といっても、石階段の上と下なので、距離以上に感覚としては離れている。犬上の陰に隠れるように、男がいる。六花を犯した男が。名は知らない。本人から何も訊かずに、首を吊らせたから。
デリンジャーを握る右手の甲を、左手で撫でる。公園では警棒を投げつけられ、それが右手に当たって引鉄を引く機会を逸した。意外と警棒は重く、骨が折れたわけではないだろうが、未だ痛みが残る。
(警棒を持っているってことは、手錠と拳銃も持っているってことだ)
と白河は思った。私服の捜査員である犬上は、常に逮捕用の道具を携帯しているわけではないのだ。では、なぜそうした装備を持っているのかというと、それは謎なのだが、白河にとって——そしておそらくは犬上にとっても、重要なのは銃を持っているという事実それだけだ。
片やハイスタンダード・デリンジャーD一〇〇。
片やニューナンブM六〇。
銃と銃があれば、始まるのは決闘に違いなかった。
なのに犬上は銃を抜かずに石階段に向かって駆けた。彼は頭と胸を腕で最低限守り、その巨体らしい歩幅で一気に駆け上ってきた。
白河は迷った。石階段の下の道路上で呆然と立ち尽くす男と、向かってくる犬上大輔。どちらを——と考えている間に、犬上は触れられる距離まで肉薄していて、六花はぎゅっと目を閉じることしかできなかった。
この勢いで突き飛ばされたら、きっとデリンジャーを手放してしまうだろう。でなくても、彼の膂力であれば掌を抉じ開けることなど造作もないに違いない。彼の小指を白河は折った——たぶん、折ったが、それは不意をついたからだ。もう、できない。
銃は、かつて〈
そんなのは嘘だ。
男のほうが力が強いし、老人よりも若者のほうが強い。銃を持っていても、それは変わらない。もし六花が迷わず撃てたとしても、犬上は止まらなかったに違いない。
この勢いで突き飛ばされたら、お腹の子はどうなるだろう、とふと思った。もうだいぶん腹も大きくなった。だがまだ臨月ではない。重く、苦しい。気圧されるように後ろに倒れそうになる。この子は、六花と一緒に死ぬことになるのだろうか。
倒れかけた六花の身体は、しかし太い腕で抱きかかえられることになった。石階段を駆け上ってきた彼の息は荒く、その瞳は闇夜でも光って見えた。
六花は倒れそうになりながらも離さなかったデリンジャーの銃口を、犬上の側頭部に突きつけた。犬上の表情が凍った。あとは引き金を引くだけだ。どんなにか彼が力強いとはいっても、この距離なら、この状況なら、引き金は引ける。腕を抑えようとしても、首を折りにきても、遅い。六花の指が動く方が早い。彼とのトレーニングのおかげで指の力も鍛えられたから。六花は犬上と日曜日に行っていたトレーニングを思い出した。勢いで提案を受けたトレーニングだった。おかげで勝てた。わたしの、勝ちだ。
六花は一息吐いて、デリンジャーを捨てた。勝った。だからもう良い。そう思った。どうせ弾丸が入っていない銃だ。
半年前の事件で六花を犯した男は、銃だけではなく弾薬も置いていった。二発分。もともと弾倉に入っていたぶんも含めて、三発分。一発は事件当夜、恋人に向けて撃った。出来上がったのが空の銃と、二発の弾薬。それまで銃なんて触ったことはなかったが、なぜか弾薬の交換方法はわかった。だがもう装弾はない。もう既に撃ってしまったからだ。二ヶ月前の四月、六花を犯した男を見つけて首を吊らせたあの日に撃ってしまった。撃ったのは彼が首を吊った木の枝だ。何もしなければあのまま殺せたのに、自殺させることができたのに、自分がやらせたことなのに、放置できなかった。狙い違わず二発の弾丸は枝を貫き、彼の身体は地面に落ちた。生きていた。それで終わりにするはずで、でも終わりにできなかった。忘れられなかった。怖かった。もう一度殺さなくてはいけないような気がした。力もなく、銃弾もなく、それでも探さなければいけなかった。一度殺しかけた男の素性は知らなかった。だからまた、同じやり方で探し始めた。まさか彼が記憶を失っているとは思わなかったが、きっと自分の顔を見れば思い出すだろうと思った。六花もそうだったから。
辛かった。辛かったが、今度こそもう終わりだと思った。幸せになりたかったが、どうにもならなかった。その方法がわからなかった。
頭を一掴みにできそうなほど大きい掌が、六花の肩に乗せられた。
「おれが幸せにしますから」
だから、だから、と犬上は息切れしながら言った。涙か汗かわからないものが溢れていた。白河は反射的に頷いてしまったが、まぁいいか、とも思った。どちらかというと自分のことよりも、目の前の男のほうが心配になった。人を殺し、そして銃口を向けた六花に、幸せにします、とは、馬鹿げている。ま、それも含めて、まぁいいか、だった。呪いが解けた。(終)
鐘を撞くのはデリンジャー 山田恭 @burikino
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