第八夜 美術品になった月の話

 私の初めての記憶は、こぢんまりとしたのみの市を行き交う人の流れでした。

 私を売った人の顔はもう忘れましたが、私を買ってくれた人の顔は、今でも鮮明に思い出すことが出来ます。

 それは美しい黒髪の女性でした。

「この月は……おいくらですか?」

 値段が告げられると、商談はすぐにまとまりました。余程の格安だったようで、彼女は嬉しそうに私を抱きかかえて家路いえじにつきました。

 彼女は狭いアパートの部屋に住んでおり、ダイニングキッチンの白い壁に私は掛けられました。彼女は満足そうに私を眺めて、鼻歌などを歌っていました。


 私は自分を自分で見たことがありませんが、満足そうな彼女から類推るいすいするに、ダイニングキッチンの白い壁にとても似合う月なのでしょう。

 狭いアパートの部屋はいつも彼女だけでしたが、彼女は明るく元気に暮らしていました。たまには、仕事が忙しそうな日があったり、いろんなことが思い通りに行かない日もあったようです。そんな時、彼女が私を見ると、彼女の疲れた顔に、少しの笑顔が戻るのを、私はとても誇らしく思っていました。

 私は彼女のそばで、とても幸せでした。


 その後、彼女は病気にかかり、生活が日に日に苦しくなって行きました。

 家財道具が少しずつ治療費に消え、最後の最後に私も売られることになったようです。彼女はとても名残惜なごりおしそうでした。彼女が何度も振り返るのが見えました。

 私たちはそうして別れました。


 それから私は幾度も人の手から手へと渡り、気が付いたときには美術品と呼ばれるかなり高価なものになりました。生前無名だった私の作者は、死後、その名を馳せたようです。

 私は美術館と呼ばれる場所に飾られたり、戦争のどさくさで盗まれたり、闇で取引されたりをしながら、また美術館と呼ばれる場所に飾られました。沢山の人が私を見に来ますが、もう誰も、私をダイニングキッチンの白い壁に飾ってくれる人はいなくなりました。

 

 そんなある日のことです。

 美術館の人混みの中に、

 ですが落ち着いてよく見ると、彼女と似ているようですが、どことなく微妙に違うことがわかりました。彼女は、美術館の責任者と話していました。

「そうですか、あなたのお祖母さんが、若い頃に手放したものだと」

「ええ。この美術館にあることを最近知り、病床の祖母にひと目見せてやりたいと思ったのです。何とかなりませんか。祖母はもう動けないのです」

 彼女の願いは聞き届けられませんでした。私はもう高価な美術品であり、気軽に動かすことは出来ない、とのことです。彼女が振り返りながら去っていく姿が、あの日の記憶と重なりました。

 私はその夜、静かに決意をしました。


 病床の彼女が暗い境界を越える場所で、私は待っていました。

 彼女は私を認めると、信じられないと言う風につぶやきました。

「この月は……」

 その笑顔は、私たちが幸せだった日々と同じ笑顔でした。

 その笑顔を見ることが出来、私は感無量でした。もう思い残すことはありません。

 私は彼女の手を取り、幸せそうな彼女と共に旅立ちました。


 翌日、その美術館の目玉の月が、何者かに盗まれていることが発覚しましたが、今日に至るまで、その行方は誰も知りません。

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