第七夜 照らされた夜桜と月の話

 満開の夜桜よざくらの下で、私は誰かと手をつないでいた。

 私は桜を見る振りをしながら、桜を一心に見つめているその「誰か」の横顔を見ていた。多分女性のような気がするが、はっきりとは思い出せない。ただ、とても優しい目をしていたことだけは覚えている。

 夜空の向こうには、ぼんやりと光る青い地球があった。


「私がいなくなっても、神様を恨まないようにね」

 その言葉だけを言い残して、唐突にその「誰か」は消えてしまった。あまりに広い月の世界に、私は一人で取り残されてしまった。

 真っ暗闇の世界のなかで、私は地球の明かりだけをたよりに歩いた。どこかで、しずくがぽたぽたと垂れる音が聞こえる。冷たく、乾いた風が、弱々しく吹き付ける。前にも、こんな道を歩いたことがあるような気がしていた。

 三叉路さんさろのようになっている道の真ん中には、大きな石に腰掛けて座っている人影があった。ためらいがちに近づくと、人影が語りかける声が聞こえた。


「あなたを待っていました」

 

 生まれてから一度も聞いたことのない声で、その人影は喋った。

「あなたはいったい誰ですか?」

 私は訊き返した。

「ここは、現実でもなく夢でもない場所です。あの人から、あなたがいずれここに来るだろうとうかがってました。私が愛した、たった一人の女性です。あなたは、私たちのたった一人の娘なのですよ」

 そう言われてから、夜桜の下で私の手を握っていた「誰か」が、たった一人の母であることを思い出した。なぜそんな大事なことを、今まで忘れていたのだろう。そして、

 人影は、こう続けた。

「あなたを導くのが私の最後の役目です。あの人に、私は何もしてあげられなかった。だからせめて今、あなたの力になりたい。出来れば、あなたのいしずえとなることを許してほしい」

 人影を囲んでいる光が少しずつ強くなり、それと同時に、その輪郭りんかくがおぼろげになりつつあった。私には、何が起きようとしているのかがわかる気がした。

「人はいずれどこかに行かなければならない。あたかも厚い雲が時と共に薄れてしまうように。そうして私がここにいたことを、何もかもが忘れてしまう日が来る」

「私は……忘れません。あなたがここにいたことを」

 人影が微笑んだような気がした。

「もう行かなければならない。短い時間だったが、あなたに会えて良かった。こんな私でも、誰かの光でれるならば、こんなに嬉しいことはない」

「行かないで下さい――」

 人影は答えなかった。


 

 私は手を差し伸べた。指先はどこにもれなかった。ただ、光がそこにあるだけだった。


 それから目を覚ましたのか、それとも元々目を覚ましていたのかわからない。気がつくと私は、一人夜桜の下で立ちすくんでいた。夜空の遥か彼方には、まばゆいばかりの満月が輝いていた。

 月光に照らされた桜の花びらを眺めながら、もう私はあの世界には戻れないのだということを、心のどこかで静かに思い知っていた。私は、この世界で生きていかなければならない。

 頬を一滴いってきの涙が伝うのを感じた。

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