第二夜 月のない夜の月の話

 真っ暗な山裾やますそを流れる道のはたに、僕は一人で佇んでいた。

 辺りに人影はない。

 いつからともなく、暗すぎて、道の向かい側も見えない夜の中に、こうして立っている。そうして、何かを待っているらしい。

 その辺りを、形のはっきりしない灯りが、誰かの影のように、闇に浮かんでいる。光りそうで光らない。

 僕は、その灯りを、見て見ぬフリをしていた。


 バスがやって来た。

 乗り込むと、広い窓は、もう墨を塗ったように、真っ黒だ。

 乗客は僕以外、誰もいないらしい。

 バスが動き出すと同時に、車掌しゃしょうのアナウンスが車内に流れた。

「乗客の皆様、今宵こよいは月のない夜です。足元にお気をつけ下さい」

 

 バスは揺れながらうねうねと山道をっている。車内のひんやりとした空気が肌寒く、僕はコートの襟を立てて、身をちぢこませた。吐息が白く、何かとてもわびしげな気持ちになった。

 目的地に着いたらしく、バスはゆっくりと停車した。

 降りようとしない僕に向かって、車掌が理由を問いただした。僕は、その理由を答えた。

「月のない夜に、月のかけらを持ってない人は初めてです」

 車掌はふところから、ゆっくりとした動作で、かすかに光るかけらを取り出した。

「これはあげますから、その代わり、夜明け前に戻しておいて下さい」


 暗い夜道を、月のかけらをかざしながら歩いた。

 長い長い山道は、次第に人里の方につながり、ようやく街灯のある場所にたどり着いた。海岸沿いのバス停に、彼女は約束どおり待っていた。

 それから僕たちは、海辺の砂浜で並んで座りながら、いろんなことを話し合った。何を話し合ったのかは、もう思い出せない。でもそれは、あの頃の僕にとって、とてもとても大切なことだった気がする。

 空が白み始めていた。

「そろそろ行かなきゃ」

 彼女はそう言って立ち上がった。

「このかけらはどうしよう?」

 僕は彼女にそう訊いた。月のかけらは、一晩中使っていたせいで、もう光らない、ただの石ころになってしまっていた。

「私にちょうだい。もともと、それは私の一部だから」

 それもそうだと思って、僕はその石ころを彼女の手首に埋め込んだ。欠けていたパズルがはまるように、そのかけらは彼女にしっくりおさまった。

「じゃあ、私はもう行くね」

「うん、君に会えてよかった」

「私も、君に会えてよかったよ」

 彼女はそう言って、少しずつ輪郭りんかくがぼやけていった。

「ねえ、今夜こうして話し合えたこと、僕は絶対に忘れないから」

「うん、私もだよ」

「本当は、行ってほしくないんだよ」

 僕は泣いていた。涙が、止まらなかった。

「ダメだよ泣いちゃ。男の子でしょ」

 彼女の指が、僕の涙をそっとぬぐった。それが合図であったかのように、彼女は僕の前から消えてしまった。

 彼女が消えてしまったあとも、僕は空に向かって泣き続けた。誰かと永遠に別れることが、こんなに悲しいということを、僕は初めて知った。

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