第九夜 狼が食べた月の話

 今が夜なのか朝なのかわからない。薄暗く灰色の雲の下には、真っ白な雪が一面に積もっている。

 獲物はどこにも見当たらない。

 時々、枝ばかりになった木立こだちの隙間を、風がびゅうびゅうと吹き抜ける音がする。その風にあおられて、粉のような雪が幾度も地上を舞い上がる。

 俺は一匹の狼の姿で、この世界を駆けていた。


 いつからこの姿で駆けていたのか覚えていない。

 何十年も前からのような気もするし、つい昨日のような気もする。腹は大して減っていないような気もするし、今すぐに何かを食べなければならないような気もする。そもそも、何でこの雪におおわれた世界を駆けていたのか、それすら思い出せない。

 元は森だったのか、木々が山ほど入り組んだ場所に迷い込んだ。


 しばらくすると、森の中心かと思われる地点に、天まで届くような大樹たいじゅを見つけた。

 その大樹の根元に、ぼうっと黄色く光る物体がめりこんでいる。長い歳月をかけて、樹の成長に飲み込まれたものらしい。近づくと、ほのかに甘い香りがする。

 はしの方から食いちぎるように、少しずつ胃に納めていった。味は悪くない。歯ざわりはボソボソとしているが、噛んでいる内にねっとりとした食感になり、豊かなコクのある風味があとを引く。

 次第に夢中になり、樹の根と幹にめり込んでいる残りの部分も、牙と爪で少しずつ掘り出していった。雪の上に散らばる粉やカケラが、時々風に吹かれてあちこちに飛んで行った。


 黄色い物体ですっかり満腹になり、木の根を枕に横になってると、だんだんと体が熱くなるのがわかった。

 始めは心地よかったが、次第に耐えられなくなり、目を覚ますと俺の周りの雪があらかた溶けてしまっている。

 喉が渇いた。水が飲みたい。浴びるように飲みたい。

 ひりつくような喉の渇きを、雪を食べつつ癒していたが、これでは全然足りない。もっと水が欲しい。

 ふらふらした足取りで歩く。体からはじゅうじゅういう蒸気の音が絶えず昇っている。水はどこだ。水はどこだ。

 

 木々がひらけた空間にたどり着くと、急に体がずぶずぶと下にめりこんだ。

 足元からゆったりとした波紋を描くように、周囲のモノがけ始めている。

 水だ。

 水はひんやりと冷たく、飲んでも飲んでも無くならない。一心不乱に飲み続けた。全身を水にからせ、しばらくするとようやく体の熱も落ち着いた。

 辺りを見回すと、かなり広い湖のようだったが、雪も氷も解け切ってしまったらしい。気が付くと湖の水から湯気が立ち昇り始めている。

 いつの間にか、空を覆っていた厚い雲は消え去って、見渡す限りの星空が広がっていた。さっき散らばった黄色い粉やカケラが、風に舞い上がって天まで届いたのだと思った。

 しかし、月がどこにも見当たらないのは、どうした訳だろう。

 まあいい。急ぐ旅でもないし、しばらくこうして湯に浸かっていよう。何だかとてもいい気持ちだ。気長に待っていれば、昔どこかで見たようないい月が、そのうち出て来るに違いない。

 実はその時、俺はとっくに人間に戻っていたのだが、そのことに気付くのには、もう少し時間が必要だった。

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