魔術的人称と村上春樹

 小説を書いていて(あるいは読んでいて)、人称をどうするか、というのは一つの大きな分岐点だ。たぶん、「一つの」どころではなく、最大の問題であるようにも思う。視点が違うだけで物語の膨らみ方は違ってくるから。

 どちらが好き、ということはないが、僕はどうしても一人称小説に惹かれる。

 小説とはよく出来た嘘だ、と言われるけども、それはその通り。嘘も嘘、真っ赤な嘘。それは常に現実に似た亜流の世界の亜流の人間の物語で、だからこそ丸谷才一は、「現実越える小説なんてありえない」というようなことを述べた。

 じゃあその物語の語り手も嘘をついている、あるいは意図的に真実を隠していると考える方が妥当で、というのも、語り手はフィクションとは言っても人間なのだから、綺麗に見せたいし、都合の悪いことは隠したいだろう。するとここに二重の嘘が成立するというわけだ(ややこしいメタの話は気にしない)。

 これが一人称小説の強みだと思う。というのも、「敵の敵は味方」という言葉があるように、「嘘の嘘は真実」だと僕は思うから。

 つまり、なぜそこで語り手は嘘をつく必要があるのか(あるいは隠すと言ってもいい)、ということを考えると、その奥に本当の問題が透けて見えてくる。例えばカズオイシグロなんかは、そういう「信頼出来ない語り手」の達人だと言える。


 この点に関して、日本語は非常に便利な一人称表現を多数持っている。

 英語だとIの一言で終わるものが、ぼく、私(わたし、あるいはあたし)、おれ、我輩、と豊富にあり、その全てで大きく意味合いが変わってくる。

 例えば、「俺」を使うと、見たこと聞いたことを全てそのまま語ってやる、という愚直なまでの正直さや等身大さが表現される。もちろん一概には言い切れないが。


 閑話休題


 現代日本文学の一つの極みといえば村上春樹だと思う、と言うと反対意見も聞こえてきそうだが、少なくとも僕はそう思う。

 彼の小説は全部読んだのだが、確かに同じ事ばかり、という感想が多いのは納得出来る。井戸と女の失踪と隠遁が出れば、たぶん村上春樹になるから。

 でも、その3つのキーワードでめまいがするほど奥深い小説を作ってしまうのだから、これは油断ならない。


 好きな小説はたくさんあるのだが、今回は代表作の『ねじまき鳥クロニクル』について。


 まず、どの村上春樹の小説も同じだけど、奥さんの失踪から物語は始まる。

 理由もわからず奥さんや恋人がいなくなるのは彼の常套手段。毎度毎度、なんでやねんと言ってしまうのだが、よく考えるとそれほどのミステリーではないと僕は思う。


 というのも、果たして仕事を辞めて貯金があるのを良いことに、引きこもりの夫の面倒を見続ける女性がいるものか。

 昼間からクラシックを聞いて、スパゲティの茹で具合しか気にしていないような男は、たぶん、まともじゃない。見捨てられて当然な人物なのだ。


 彼の毒はここにある。

 村上春樹最大のの文学的達成というのは「ぼく」という一人称の発明だと言われるが、それこそが今回の主題。

 世間から見るとかなり異様な主人公に読者を同化させてしまうその語り口(文体)こそ、彼の最大の武器だと思う。それを効果的に成し遂げているものこそ、「ぼく」という一人称に他ならない。


『ねじまき鳥クロニクル』は村上春樹の書いた一人称小説では、恐らく最長(で最上)のものだと思うが、長いだけあってそこにはあらゆるものを書いてやろう、という作者の気概が読み取れる。一人称の語りには限界があり、それを補うために様々な工夫(語り手の変換など)がなされており、かなり野心的である。


 長大な作品で、ストーリーは入り組んでいるわけだから全てをここに書くことは出来ないが、人称という点に絞ってみると、「ぼく」はかなり奇妙な人物に思える。


 というのも、読んだことのある人ならわかると思うが、この小説、かなり痛い描写が多い。

 強烈に印象に残るものなら、皮剥ぎボリス。モンゴルの砂漠で拷問のために生きたまま人間の皮を剥ぐ、というかなりエグいロシア人。その他にもたくさん痛いシーンが出てくる。

 キャラクターで言えば加納クレタ。人一倍痛みに敏感な若者であったが、自殺が失敗してからは無痛の人生を送っている、という不思議な人物。

 とにかく物語の至るところに痛みがちりばめられているが、実は主人公の「ぼく」は一切痛みを感じない。というよりかは、痛みに対して無感覚。


 主人公が北海道へ出張へ行き、バーで飲んでいると(その裏では夫婦生活の破綻を決定付ける事件が起こっている)、手品師が現れるシーンがある。

 手品師は炎で手をあぶるというパフォーマンスを披露する。見ていた人が顔を歪め、目を背ける中、「ぼく」だけがじっと手品を見つめ、「何が起こっているんだ」とか何かそんなことを思う。

 ここではっきりと他人と主人公が全く異質の感性を持っていることが暗示される。つまり、決定的に共感力に欠けているのだと。

 それを念頭に読んでみると、不思議な出来事や人間関係を読み解くための手助けになる……のかなあ?


 繰り返しになるが、このような滅茶苦茶な主人公に読者を同化させてしまうのが村上春樹の手腕で、その一人称の力だと思う。これは思うに、小説以外の媒体では上手くいかないのじゃないかなあ。

 タイトルにも書いたけれど、それこそ人称の魔術に他ならない。


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汲めども汲めども 赤木衛一 @hiroakikondo

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