純文学と大衆文学

 純文学と大衆文学の違いは何かと尋ねられると、うーんと悩みこまずにはいられない。

 どうしても純文学と聞くとお堅い感じがして身構えてしまう。何かとんでもなく観念的で高尚な事柄が書かれてるんじゃないかって思って、もう素直に物語に没入できない。油断すると噛みつかれそうで。

 じゃあ大衆文学は噛みつかないのか、と言うとそれも少し違う。エンターテイメントの一言では片付けられないものがある。


 これは国民性の問題だ、とか偉そうな話を持ち出すと後が怖いけど、何かとカテゴライズして安心してしまうところってありますよね。

 たぶん、そういう無用の分類が読書の楽しみを半減させてる、あるいは読書の敷居を上げてしまっているんじゃないかなあ、とおもうわけで。

 今回はそのカテゴライズについて。



 仮に純文学を芸術性、社会性、精神性、哲学性などを重視したものだとすると、そういうものの一切が大衆文学に見受けられないのかというと、それは違う。作品を支える作者の哲学がなければ、小説なんて書けるわけがない。

 実際に芥川賞と言えば純文学の登竜門だと捉えられているけど、直木賞作品の方があんがい純文学的だったりもする。



 例えば、三島由紀夫が好きです、なんて言われるとちょっとインテリで格好よく見えたりする。すげえな、と。僕なんかそれでなんとなく敬遠してしまったりするが、皆さんはそういうことないですか?

 たぶん、その敬遠を引き起こすものが、純文学という言葉にまとわりついてるもの、神々しさや、堅苦しさや、湿っぽさや、そんな崇高なものなのだろう。

 何かで読んだことがあるけど、三島はミステリーを蔑んでたようで (それもかなり、心底)、文学として認めてなかったみたい。

 そういう彼の態度は突き詰めると、大衆文学は慰みものでしかない、という文壇の立場を要約しているとも考えられる。この問題を考えると、結局昔の日本文壇に行き着かざるをえない。


 こういう小説こそ文学というものですよ、と文壇がある種の小説を一方的に評価し過ぎた結果、文壇の主流作品が純文学、それ以外は大衆文学という区別ができてしまった。それで段々と閉塞的になっていったのが現状であろう。

 純文学と大衆文学を区別して、片方にアカデミックな価値を持たせすぎたせいで、いよいよ両者の溝は深まり、読者層に影響を及ぼしたまま現代に至ってしまったように僕にはおもえる。

 はっきり言って、そういう態度が益を生むとは考えられない。


 小説とはエンターテイメントである、というのが僕の基本原則なのだけれど、どうせ同じ教訓を得るのであれば楽しんで得た方が良い。

 たぶん、日本文学隆盛期の作家たち(文壇以前)はそういうことが分かってたんじゃないかなあ。

 芥川龍之介だって夏目漱石だって、ほんとに楽しい小説を書いているもの。

 それがいつの間にか鶴の一声で、観念的、精神的な純文学と大量生産俗物の大衆文化に分かれてしまった。


 その両方を兼ね備えた小説がほんとの意味で優れたものなんだと思う。それに最近はそういうことに気付いた作家が日本にも多く現れてきた気がする。

 伊坂幸太郎だって、桐野夏生だって、町田康だって、エンターテイメントの軽さの中にずっしりと純文学的なものを含んでいるから。


 叙述の中で、三島由紀夫の名前を出したけど、別に三島が優れてないということでは決してない。偏狭ではあったんだろうけど、彼の芸術性や文学性に異論はない。

 ただ、僕は『春の雪』よりも『潮騒』よりも『金閣寺』よりも、『音楽』が好き。確か女性誌に連載してた小説のはずだけど、良い意味で軽さの中に三島的なものがあって、すごく面白い。


 つまるところ、純文学っていうカテゴリーは無くした方が良いとおもう。文学はカビ臭い部屋で物好きな人間がこそこそ人目を避けるようにして語り合うものじゃなくて、もっと開かれた、普遍的な価値のあるものだとおもうから。















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