砂の本

 読んでも読んでもページが減らない。めくるたびに新しいページが増えていく。それでいて前のページは消滅して二度と読むことができない。


 ボルヘスの幻想的な短編、「砂の本」は彼の代表作であり、そして思想を如実に表したものである。

 主人公は読めども読めども尽きることがない書物に幸福を見出だしながらも、それに恐怖を覚え、絶望する。

 というのも、全ての本を読むことは到底不可能なことだから。それは終わりのない旅と同じ、もっと大げさに言えば人生と同じ、大海原の漂流者の心情、俗になることを恐れぬならば、あるいはそれは、一つ終える度に新しい課題を与えられる経済活動に対する心情にも通ずる。

 この短編、オチも素晴らしいのでぜひ読んでみて下さい。


 ……ではなくて、今回の話題は、本は読み終えることが出来ないということ。

 石川淳もどこかで同じことを言っていた気がする。一冊の小説が気に入れば同じ作家の別の物を読まずにはいられないし、その作家に影響を与えた他の作家の本も読みたくなる。そういう意味で良い本というのは読み終えることが出来ないのだと。


 なるほど、それじゃ確かに迷宮だ。

 昔から読書家というものはそういう不条理な迷宮に迷いこまずにはいられないのだろう。


 で、その迷宮性を追及した作家こそナボコフに他ならない。

 彼の『淡い焔』(旧訳は『青白い炎』)こそ迷いこむにはうってつけの迷宮だとおもう。


 その構成からして他の小説とは一線を画している。『淡い焔』と題された999行の詩と細かな注訳、索引で出来ており、注訳が物語。

 これだけでぶっ飛んでる。


 ある老詩人が死に、生前最後に書いていた詩に友人が注訳をつけたもの、という体裁。しかし、この語り手たる友人がとんでもない男。


 というのも語り手は読みたいようにしか読まない。老詩人に創作のアイデアを日頃から与えていた語り手は、『淡い焔』こそ、そのアイデアをもとに書かれた詩に違いない、とハナから偏見に満ちた目で注訳を書いていく。だから彼の書く注訳はたびたび詩の内容から逸脱し、遠く離れた場所へ読者を連れていく。明らかに詩人の人生に陰を落としている娘の死なんて、知ったこっちゃない。多かれ少なかれそれが『淡い焔』のトーンを決定してるというのに。


 と言うように、注訳者は読みたいようにしか読まない。そのパラノイアな語りと妄想がこの小説の醍醐味であるのだが、そこに詩人の死の謎や、そもそも語り手は何者なのかというミステリーが絡んできて、ハマると最後、抜け出したくても抜け出せない奈落に落とされる。


 あとがきにも書かれてあるように、恐らく普通の小説のように線的に目を通す読者もいないとおもう。詩を読んで注訳を読んで、という感じで、そのリズムや順番は読者によって異なるだろう。それに索引まで合わせるとなると、読み方は無限大。読み方が無限大ということはつまり、解釈、受け取り方も無限となるだろう。


 このように、一冊の本で読書の迷宮性を体現されたのだから、読み手としてはもう迷いこむしかない。

 パラノイアックな注訳の裏を読んで、あるいはその断片から詩人の人生や考えを汲みとって、『淡い焔』という名の999行の詩を読み返し、自分なりにこうでもないああでもないと考えを巡らしていると、はっと気付かされることになる。

 まるで自分がこの小説の語り手じゃないかと。


 あんがい、『砂の本』が身近にあったことに戦慄を隠せない今日、この頃でした。









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