ペンネーム

「注意深い読者ならお気付きだろうが……」とか、それに類した文章を読むと冷や水を浴びせられたような気分になる。血の気が引いて、せっかく物語にのめり込んでいた頭も究極のメタへ、ページのこちら側へ、つまり完全シラフの現実世界へ強引に弾き出される。

 というのも、語り手が言わんとしていることに気付いていたことなんて一度もないんだもの、ただの一度も。

 だから自分がひどく愚かな人間になったように感じる。「お前はこんなことも読み取れないんだな」と、見ず知らずの作家に叱責されてるようで何となく居心地が悪い。そんな思いをしてまで本なんて読むもんじゃない。

 まあ、注意深く読めてない僕が悪いのかもしれないけれど、あれは禁句だと思うのは僕だけでしょうか。

 でも前に、ナボコフか、情報量や言葉遊びが多くて、ぶっ飛んだ語りのナボコフに似た作家の本を読んでいた時に、同じ言葉に出くわして思わず吹いてしまったことがある。

 いや、誰がそこまで読み取れるねん、ムチャやろ。

 と、まあ前置きはこのぐらいにして


 注意深い読者ならお気付きだろうが

 僕のペンネームの赤木衛一という名前は、ゴーゴリの短編「外套」の主人公、アカーキー・アカーキエヴィチから取っている。


 何を隠そう、「外套」こそ僕が小説にのめり込むきっかけとなった作品である。ドストエフスキーをして、「我々はみんなゴーゴリの外套の中から出てきた」と言わせしめたほどの傑作。僕にしてみれば、「ゴーゴリの外套の中へ引き籠りにいった」と胸を張って豪語できるほどの記念碑的小説。


 中学一年生の冬だったとおもう。僕の住む兵庫の瀬戸内海沿岸の小さな漁師町にも珍しく雪が積もって、ひどく寒い日だった。ちんぷんかんぷんの数学の週末課題にも飽きて、父親が机に置いたままの文庫本を手に取って読むと、これが止まらない。

 目の前で次々と扉が開いていくような感覚、あるいはふわりと体が宙に浮くような感覚、いずれにせよ開けた世界が頭の中に広がるような感覚。

 それが「外套」(そして「鼻」)であったわけで。今思えば、「外套」を読むのに、これ以上ないほど適したタイミングだったのかもしれない。欲求不満の思春期で、わけもなくイライラしていて、何より冬の寒い夜だったのだから。

 そして今でも僕はその感覚を求めて本を読んでいるのかもしれない。


 父親の部屋には古い文庫本がぎっしり並んだ本棚がいくつもあって、その日以来、父の部屋を出入りしてはわけのわからない本をどっさり自室へと持ち込んで目を通す日々が始まった。ホーソーンやら、バイロンやら、フローベールやら、ジョイスやら……。

 ロシア文学を好む父はもちろん、ドストエフスキーとトルストイを読め、と、急激に読書熱を上げた僕に言ったのだが、僕は言われるがままにそれらにも目を通した (読んだとは言うまい。読んだなんてそんな不躾なこと言えるわけがない)。

 いずれも当時の僕には高尚すぎたのだろう。発達の段階に合ってなかったというか。だから十数年経った今でもその敗北感が胸のうちにあって、古典はどこか僕の手の届かないところにある、といった感じがしてなかなか読めない。


 さて、ペンネームであるが、実は自分で考えたものではない。昔、父親と本の話をしている時に、父がこう言ったのだ。

「大学の時に友達と同人誌を書いとったんやけど、その時にアカギエイイチっていうペンネーム使っとった。ゴーゴリの短編から取ったんやけどな」

 父の話によると、雪の多い岡山のド田舎で小学生の時に「外套」を読み、ロシア文学に魅了されたようだ。

 僕はなんとなくその時には気恥ずかしさで、へえ、としか答えられなかったのだが、蛙の子は蛙というか、やはり父の子なのだなあと感慨深くなった。

 奇しくも導かれるように同じ小説によって本を読み出した親子であるが、その不思議な縁をありがたく思い、僕も父のペンネームを継承することにしたというわけだ(無論こっそりとではあるが)。


 父が多くの古典を読んできたものだから、自然と僕は現代文学を読むようになった。たぶん、フィールドを微妙にずらして、いわば違う土俵に立って父と張り合いたかったのだとおもう。


 いずれにせよ、僕があまり熱心な古典読者でない裏には、無知と父への尊敬故の二重の敗北感があるようだ。それと同時にやはり強い憧れを覚えるのもまた事実である。

 現代文学の礎を築いた諸々の古典作品のエネルギーを完全に汲みとるだけの器と知識が、まだ僕には欠けているように感じる。

 父の背中は、まだ遠い。





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