二年目五月 傷痕(1)

 人には誰しも、諦めきれないものがある。諦められないものがある。

 理想と現実のギャップに苦しみ、誰が言ったわけでもないのに諦めることを強いられ。それでもなお、強い想いを捨てられないなにかが、存在する。

 人生は取捨選択の連続だ。捨てるものと選び取るものを何度も比較して、捨てた後に後悔する。そして拾い直す。

 諦めた先にも見えるものがあると、僕の親友はそう言った。彼は彼なりに、何かを見つけたのだろう。

 諦めるとは即ち逃げることだと、僕の後輩は僕に突きつけた。事実僕は逃げ続けていたのだから、反論することもできない。

 けれど、なにかを諦め捨てるしかない時だってある。どうしようもないと悟った気になり、捨てたことすら忘れてしまったなにか。

 今回は、それを拾い直すお話。

 ハッピーエンドのその先で、けれど幸せとは言い難い終わりを迎えたなにかに、再び向き合うお話だ。






「僕に試合に出て欲しい?」


 五月、ゴールデンウィークが始まってしばらく経ったある日のこと。生徒会の仕事も特にない僕は桜を伴って野球部に来ていたのだけれど。

 学校についてグラウンドに顔を出した途端、愛すべき後輩である樋山と小泉、そして野球部キャプテンである新井からそんな申し出を受けた。

 その理由は、新井が足に嵌めてあるギプスを見れば明白だ。たしか、先日の練習試合でやらかしたとか理世が言ってたか。


「いやいや、待ってくれよ。新井が怪我したってのは分かる。復帰が大会に間に合わないことも、まあ理解してるつもりだ。だからってなんで僕なのさ。このチームには他にも投手はいたはずだろ?」

「その上で夏目に頼んでるんだ。チームで何度も話し合って、その上でお前にお願いするって決めた」

「僕が素直に首を縦に振るとでも?」

「思ってた、ってのが素直なところだな」


 両脇の松葉杖で体を支えながら、器用に肩を竦める新井。僕なんかよりもこいつのほうがよっぽどナンパ野郎っぽいのだけど、今はそんなことどうでもよくて。

 チームで何度も話し合ったということは、既にアップを始めてる他の部員も、新井の左右に控えている後輩二人も、今日は家の手伝いで不在の理世も、みんな同じ気持ちなのだろう。


「俺たちからもお願いします、智樹さん」

「まだ選手登録には余裕があるので、好きなだけ悩んでくれていいですよ。まあ、夏目先輩の意思が登録メンバーの選別に介在するかは別の話ですけど」


 頭を下げる樋山とは対照的に、暗にどれだけ悩んでも無駄だと言う小泉。

 まさかこんなお願いをされるとは思っていなかった。僕はあくまでも、野球部の手伝いで来ているつもりだった。正式に部員になった覚えはないし、そうなるつもりもなかったのだ。

 僕の野球人生は、中学のあの頃に終わったから。

 トラウマを乗り越えて、再びボールを握ることがあっても、高校生の間で試合のマウンドに上がることなんて考えていなかった。

 さて、しかしどうしたものか。本音を言えばノーと答えたい。僕たちは三年生。つまり夏は最後の大会だ。これでの高校生活全てを賭けると言っても過言ではないその大会に、僕みたいなぽっと出のポット野郎が出場していいものなのか。

 この場で唯一僕に味方してくれるであろう背後の彼女に振り返ってみれば、しかし出てきたのは期待と違った言葉で。


「出てあげればいいじゃない。そんなに悩む必要ある?」


 いつもと変わらぬ無表情で、無感情とも思われる声が発せられた。僕と一緒に一連の話を聞いていた桜は、その瞳の中に僅かな期待の色を秘めている。

 そういえばこの子は、どちらかと言うと僕に投げさせたい派の人間だった。小泉とはそのスタンスが違うから忘れかけていたけど、そもそもの始まりはそこだったのだから。


「……ちょっと考えさせてくれ。とりあえず今日はいつも通り練習に参加させてもらうよ」

「いつも通りじゃなくて、夏目先輩には試合に出てもらう体で参加してもらいます。ノックは私が打つので」

「もうそれでいい……」


 この場での小泉の決定には逆らえない。僕が試合に出るかどうかは僕自身にもまだ分からないけれど、とりあえずいつもと違う形の練習になってしまった。

 ノックだけでなくバッティング練習にも参加させられ、いつもの倍以上はヘトヘトになった。毎日この練習をこなしてる野球部員たちを軽く尊敬してしまうほどに。

 朝から昼過ぎまでたっぷり練習してその日は解散。桜とともに僕の家へと帰宅する。

 その道中、試合に関する話は一つもなかった。不自然なほど桜はそこに触れてこない。家に着いてからも同じで、漸く向こうからその話を切り出してきたのは、遅めの昼食が終わってからのことだった。


「それで、あなたはなにをそんなに悩んでるのかしら」

「さて、なにに悩んでるんだろうね」

「質問したのはこっちなんだけど」


 食後のティータイム。いつもの甘ったるいカフェオレを飲みながら聞いてきた桜は、ムッと眉根を寄せる。

 そうは言われても仕方ない。僕自身、なにをそんなに悩んでるのか理解できていないのだから。

 嫌だったら嫌だとあの場で言えばよかった。そうしなかったのは何故か。

 その答えは僕ではなく、僕以上に僕のことを理解している恋人が導き出す。


「さしづめ、新井に昔の自分を重ねてるってところでしょう。運悪く怪我をして、これまでの努力が全て無駄になってしまった野球部のキャプテン。どこかで似たような話を聞いたことがあるものね?」

「……かもしれないね」


 これまで努力して積み重ねてきたもの。その全てが、なんの前触れもなく唐突に無へと帰る。その恐ろしさと虚しさを、僕は知っている。

 果たして新井は、あの怪我のことを詳しく聞かされた時にどんな気持ちになったのか。痛いくらいに理解出来てしまう。


「それだけなら、あなたはあの場で首を縦に振っていたはずだけど。さて、他にはなにを考えてるのかしら」


 まるで空を写したような澄んだ瞳が僕を射抜く。自分でも見えない何かを、その目が捉えようとする。

 ソファの隣に座った桜は、しかし視線を外してしまうとカフェオレを一口飲み、こちらに体を寄せてきた。


「明日、あなたの両親の命日よね」

「ああ、そうだけど」

「お墓参り、行くって言ってたわよね」

「そうだね」

「……心の傷やトラウマって、そう簡単に消えるものじゃないと思うのよ。そもそも、消そうと思うこと自体が間違い。それと向き合って、抱えたままで前に進まないといけない」


 桜の言いたいことを理解して、安心させるように頭を撫でる。気持ちよさそうに目を細める姿は猫のようで可愛らしい。

 何度も確認したことだ。ボールを再び握れるようになっても、両親が帰ってくるわけではない。その傷が完全に消えることも癒えることもない。それでも僕は、再び野球と向き合うことが出来た。

 ──本当に?

 そうだと言うのなら、なぜ野球部に入ろうとしなかった? そもそも、小泉は最初から言っていたはずだ。野球部に戻ってくれと。僕は蘆屋高校の野球部とは何の関わりもなかったから、戻ると言う表現は適切ではなかったし、樋山との対決でその辺りをなあなあに済ませていたけれど。

 向き合った気になっていただけだ。そのつもりでいただけなんだ。野球と、いや両親の死と。去年の夏休みで完全に乗り越えたと思っていたそれは、けれどこうして再び僕に牙を向けている。

 僕はまだ、一歩も前に進めていない。


「勘違いしてはダメよ、智樹。あなたはたしかに、一年前から変わっている。少しずつでも前に進めているの」

「本当にそうかな……」

「ええ、そうよ。だからこそ私は、あなたに想いを伝えることが出来たのだから」

「それは、説得力があるな」

「でしょう?」


 桜と関わっていく中で、何度も両親の死について考えさせられた。

 本気で頑張ったなにかが、ふとしたことがキッカケになり一瞬で崩れ去る、そのことが怖い。

 誰かと近づいて、親しくなって、いつかその誰かと別れる時が来てしまうのではないかと考えると、身の毛がよだつ。

 そのどちらも、他の誰でもない桜のお陰で乗り越えることが出来た。


「諦めてたんだろうな、僕は。昔みたいに、試合に出て全力で投げるってことを。それは中学までの僕で、その僕はあの事故で死んだんだって」


 自分の投球で相手を捩伏せ、チームを勝利へと導く。一度でも逃げた僕に、再びそんな役目を負う資格はないのだと。

 人生は取捨選択の連続だ。野球という僕にとっての大切なピースを取り戻す代わりに、その醍醐味と言える一番大切なものを捨てた。

 勝負に勝つ楽しさ。相手から三振を奪い取った時の爽快感。もっと上手くなろうという向上心。

 その全てを捨てて、諦めた。


「全ては、あなたが決めることよ。私もこれ以上は口出ししない。だから、あなたがどうしたいのか、ちゃんと悩みなさい」

「そうさせてもらうよ」


 こういう時、無理に答えを急かそうとしないのはありがたい。僕が考え抜いた結論を桜が優先してくれるのは、恐らく僕に対する信頼からだろう。

 ならばその信頼に応えなくてはならない。

 結論は既に定まっているようなものだけれど。それでも、あと一歩後押しが欲しい。

 だから、まだ一日だけ待ってくれ。






 智樹が野球部の面々から突然の申し出を受けた翌日の朝。私たちは浅木の北にある墓地へ来ていた。

 私がここに来るのは今日で二度目だ。前回は冬、この場所で眠っている智樹の両親に私たちのことについて報告しに来た。

 そして今日は智樹の両親の命日であり、夏目智樹という人間の人生を決定的に変えてしまった日でもある。

 この後そのまま練習に向かうらしい智樹は、墓地に似つかわしくない練習着。それに付き合う私も制服姿。

 前回来た時同様、お墓にはまだ真新しい花が供えられていた。恐らく、智樹の叔母であるあの人が来ていたのだろう。こっちに全く顔を見せなかったのは喜ぶべきか、それとも惜しむべきか。

 軽く墓石の掃除を終わらせた後、二人でしゃがみこんで目を瞑り手を合わせる。

 その時チラリと横目で伺った智樹の表情は、普段の私以上に無色透明。瞼を下ろしたその中になにを見ているのか、皆目見当もつかない。


 本音を言えば、智樹には試合に出て欲しい。

 あの頃のような、絶対的な自信に満ちた瞳の輝きをもう一度見たい。

 野球部の練習に顔を出す智樹も、十分に瞳を輝かせてはいるけれど。それでもやはり、あの頃と比べると幾分か劣る。

 今の智樹と昔の智樹を重ね合わせるのはいけないことだと分かっている。一度本人にもそれは辞めてくれと言われたことがある。でも、私は無意識に探してしまうのだ。

 野球をしている智樹に、あの頃の面影を。


 きっと怖がっているだけなのだ。本人にその自覚があるのかは微妙なところだが、私から見れば一目瞭然。

 負けることを、ではない。そもそもこの男は、自分が負けることを考えないから。

 以前、去年の夏休みに言っていた、投げる時にチラつくという両親の影に。それこそ、智樹が恐れているもの。現実を再び突きつけられる恐怖。

 あの時は荒療治にもほどがある方法でなんとか乗り切らせたけど。あんなもの、所詮はその場凌ぎにしかならない。

 智樹が頑張ることこそ、両親が生きた証になる。そう言ったのは私だけど、それで完全に乗り切れるなんて思っていない。

 最も近しい肉親の死なのだ。その程度でどうにかなる訳がない。簡単に受け入れられる訳がない。

 それでも、いつかは向き合って、受け入れて、それを抱えたままで前に進まないといけない時がいつか来る。

 智樹にとってのいつかは、きっと今だ。

 中学の頃の智樹の努力を、全てとは言わないまでも知っている。そして、今の智樹が積み上げたものを、両親のことを受け入れ、前に進もうと努力していることも、知っている。

 ならば、私のやるべきことは一つだけ。

 元より私に出来ることはそれしかない。だから、その一点に。智樹のサポートに全力を尽くす。

 夏目智樹の、これまでの人生で積み上げて来たその全てを無駄にしないために。


「ねえ、智樹」

「ん?」

「言ったわよね、昔。私は、あなたに二度とあの時のような思いはしたくないって。あなたの努力は、私が無駄にしない。あなたの努力を、価値を、その物語を、何度だって拾い上げるって」

「よく覚えてるよ」


 去年の文化祭で告げた言葉を、再び彼に突きつける。これは宣誓だ。智樹に対して、この世界に対して。なにより、自分に対しての。


「今回も同じよ。あなたが本気で試合に臨むのであれば、私はそれを全力でサポートする。あなたの努力が無駄にならないために、なんだってする」

「うん」

「でも、試合に出たくないのならそれでも構わない。まだ両親のことを乗り越えられないなら、それでもいい。私はずっとあなたの隣にいるから。ゆっくりと、少しずつ前に進めばいいだけだもの」

「……うん」


 墓石を眺める透明な瞳に、たしかな闘志が宿るのを見た。

 立ち上がった智樹が、しゃがんだままの私に手を差し伸べる。それを取って立ち上がり、強い光を携えた目と視線を合わせる。


「決めたよ、桜」

「なにを?」

「頑張る理由を。僕が両親のことを乗り越えるなんて、そんなもの二の次だ。それよりも優先すべき目標を、今決めた」


 はて。私たちは今、いかにして智樹が両親のことと向き合って乗り越えるべきかを話していたのではないか。

 言葉の意図をうまく掴めずに小首を傾げれば、柔らかな微笑が落とされる。


「こういう時には鈍いんだな、君」

「心外ね。あなたよりもあなたのことは分かっているつもりなんだけど」

「なら僕について勉強のし直しだな。僕が他のなにを置いても頑張る理由なんて、そんなの一つしかないだろう?」

「勿体ぶらないで教えなさいよ」

「君だよ」

「……私?」

「君にカッコいいところを見せたいから。だから頑張る。これ以上なくシンプルで分かりやすい理由だと思うぜ」


 勝気に笑ってみせるその姿に、もう悩んでいる様子は微塵も感じられない。

 こうなった智樹は、強い。

 だからもう大丈夫。あとは私が、今まで積み上げて来たものとこれから積み上げるものを、一つも取りこぼすことなく拾い上げる。


「なら、私を幻滅させないように精々頑張りなさい」

「ん、任せてくれ」

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