五年目七月 お兄さんとお姉ちゃん
夏休みのある日。いつもの喫茶店で。
「野球、ですか?」
「そ、野球。大っきな球場でプロの試合ってわけじゃないんだけど、見にいかない?」
いつもの甘ったるいカフェオレを飲みながら、小梅先輩が提案した。この人の言うことはいつも突然で唐突で突拍子のないものばかりだから慣れてはいるものの、それでも思わず聞き返してしまうのは仕方ない。
慣れたからと言って、その意図が理解出来るわけでもないのだから。
「どうしていきなり野球なんですか?」
改めて尋ねたのは、小梅さんの隣、俺とは逆の右側に座っている小鞠だ。小鞠が所属している文芸部は夏休みの活動がそこまで活発じゃないから、学校がある時よりも頻繁に三人で集まっている。
今日もこれから三人でなにをしようかと話し合っていたのだが、そんな折に小梅さんが提案して来たのだ。
「うーん、自慢したいから、かな?」
「自慢?」
小鞠から思い当たる節はあるかと視線で問われるが、俺には全く思い当たらない、顔を横に振ると、小鞠の怪訝そうな目がまた小梅さんに向かう。
「あの、先輩。私達にも分かりやすく教えてくれると……」
「まあまあ、取り敢えず行ってみてのお楽しみってことで! 三枝さーん、お会計お願いしますー!」
呼ばれて奥から出てきた三枝さんに会計を頼み、俺たちも言われるがまま店を出る準備。
「今日は応援行くのか?」
「はい、そういえば二人には見せてなかったなーって思って」
「なんだ、二人はまだ見たことなかったか」
どうやら三枝さんにはなんの話か分かっているらしい。この二人は俺や小鞠よりも長い付き合いだから、俺たちが知らないことを共有していてもおかしくないけれど。
なんだろうか、ちょっとだけ面白くない。それが表情に出てたのか、目が合った三枝さんが愉快げな笑みを漏らす。
「なんだ椿、嫉妬か?」
「べっ、別にそんなじゃ」
「えー葵君あたしと三枝さんとの仲に嫉妬してるのー? 可愛いなー!」
否定の言葉は、嬉しそうな小梅さんの声に遮られる。嬉しそうっていうか、楽しそうっていうか。三枝さんはにやけヅラを隠そうともしていない。この愉悦部員どもめ。
小鞠も隣で微笑ましげにこっちを見てるし、なんだか非常に居心地が悪くてすぐに話を元に戻した。
「そ、それで! 結局、なんで野球観に行くって話になったんですか? てか、どこに?」
「浅木の中央公園。駅から歩いて10分くらいのとこにそこまで大きくない球場があるんだけどね。そこで草野球の試合があるから」
「……あ、もしかして」
「お、駒鳥ちゃんは気づいたか」
どうやら小鞠は話が見えてきたらしいが、ここまで言われても俺は全く理解出来ていない。これは俺が鈍いのか、それとも小鞠の察しがいいのか。多分後者だと思う。てかそうであってほしい。
そして若干ドヤ顔気味になった三枝さんは、レジの操作を終えて小梅さんにお釣りを返したあと、こう言い放った。
「ま、俺の親友の勇姿ってやつをちゃんと見てこいよ。ちょっとはあいつのこと見直すかもだぞ?」
蘆屋駅から電車に乗って浅木へ。15分ほど電車が遅れているとかいう相変わらずな不幸具合を晒しながらも、それ以外特になにもなく無事に辿り着いたのは、浅木中央公園。
近くの中学校の野球部がたまに使ったり、今日みたいに草野球に使われたりしている野球場と、小学生のサッカークラブやおじいちゃんおばあちゃんがゲートボールに使っている広場の二つがあるこの公園。広さは蘆屋の記念公園よりかは狭いが、夏祭りや花見なども行われるらしく。浅木市民的にはお馴染みの場所らしい。
とまあ、これは小梅さんからの説明だ。小梅さんは別に浅木に住んでるわけでもないから、どこまで正しいかは分からないが。
さて。そんな中央公園までやってきた俺たち3人なわけだが。
「おー、もう始まっちゃってるかな?」
階段で一塁側の観覧席に上がりグラウンドを見下ろせば、フェンスの向こうではもちろん野球の試合が行われていた。
そしてマウンドの上。そこで小さく深呼吸をしているのは俺たちもよく知る人物。小梅さんが兄と慕う、夏目智樹さんだ。
俺が知っている普段のあの人からは全く想像できないような、真剣な表情を浮かべている夏目さん。鋭く光る日本刀を思わせる雰囲気は、この場に緊張の糸を張り巡らせている。
俺の隣に立っている小鞠が息を飲んだ。同時に、夏目さんの体が動く。
振りかぶって投げたボールは到底目で追えるスピードなどではなく、気がつけばキャッチャーミットに収まっていた。相手バッターのスイングは空を切り、味方選手たちが歓声に沸いた。
「小梅」
「あ、お姉ちゃん。お待たせー」
観覧席には先客が一名。白雪桜さんだ。どうやら観戦しているのは桜さんだけらしく、俺たちの近くはおろか、三塁側の観覧席にも人はいない。ただの草野球だとこんなものなのだろうか。
「二人とも連れてきたよ」
「どうも」
「お久しぶりです、桜さん」
「ええ、小鞠は久しぶりね」
小鞠に向けて柔らかい笑みを投げる桜さん。本当に姉妹でよく似ている。ただ、桜さんから歳上の余裕のようなものを感じるのが、小梅さんとの違いか。
桜さんに促されて俺たちも腰を下ろして、再びグラウンドに視線を向ける。そこでは未だマウンドの上の夏目さんが、この場の空気全てを操っていた。
あの人の一球に、このグラウンドに立っている選手たちが操られている。あの人がこの試合を支配しているのは、素人の俺でも分かってしまう。いや、それどころか。観戦しているだけの俺たちすらも呑み込まれてしまいそうだ。
それくらい圧倒的なオーラ。
「お兄さん、凄いでしょ」
同じく夏目さんへ視線を向けている小梅さんが、笑みとともに呟いた。そこにはどこか誇らしげな色が含まれている。
夏目さんがボールを投げ、バッターは手を出すことも出来ずに見逃し三振。捕球したキャッチャーミットは破裂音とも呼ぶべき音を鳴らす。何キロ出てんだよ一体。
「あの人は、あたし達と違って本当に天才なんだよ。野球の神様に愛された、とでも言えばいいのかな」
「俺からしたら、小梅さんも桜さんも十分天才ですけどね」
「んー、そうじゃなくてね」
フォローのつもりはなかった。俺からしたら白雪姉妹も夏目さんも、三者三様に変わらず天才だ。そこにはジャンルの違いこそあれど。本気でそう思った。
しかし、小梅さんの口から漏れるのは苦笑混じりな否定の言葉。
「たしかにあたしは、他の人よりも色々出来ちゃう自負はある。だからこそ面倒なことを考え込んでた自覚もある。それは、もちろん君も知ってるでしょ?」
「ええ、まあ……」
「でもね。そんなあたしでも、結局は努力をしたから色々と出来るようになったわけ。勉強も、陸上も。そりゃある程度要領いいから、伸び代だって他の人たちよりもあるつもり」
他の奴らが聞いていれば、たんなる自慢話にしか聞こえないようなセリフ。しかし俺は、この人がそこにいかなる思いを宿していたのかを知っている。
「例えば、あたしが野球してたとして、たしかに天才って言われるくらいには頑張れるかもしれない。努力した結果が報われるかもしれない。だけど、努力っていうのには必ず限界があるの。残酷だけどね」
その限界値を、人は才能と呼ぶのだろう。小梅さんはあらゆるジャンルにおいてその限界値が高いからこそ、天性の才能を有していると、天才だともてはやされる。
「だけど、お兄さんは違う。努力の限界がないんだよ」
誰かがどれだけ頑張って、夏目さんの上を行く選手が現れても。あの人は、更にそれを上回るだけの努力を繰り返す。何度でも、何度でも、何度でも。
「でも、白雪先輩。あの部誌が本当にあったことだったら、夏目さんは……」
「うん、そうだね。駒鳥ちゃんの言う通り、一度は挫折してるよ」
俺の隣で黙って話を聞いていた小鞠が口を開いた。部誌、とは文芸部の部誌のことだろうか。俺も何度か読んだことはあるが、二人の会話はイマイチ理解が及ばない。
ただ、小梅さんにここまで言わせる夏目さんですら、挫折を経験しているということだけが分かった。
「だからこそなんじゃないかな。一度は全部を失って、でもそれを取り戻せたからこそ」
キンッ! と金属音が鳴った。完全に振り遅れ、夏目さんの投げたボールの勢いに負けているファールボール。
それが、フェンスを越えて俺たちの座ってる観覧席に落ちてくる。ていうかヤバイこれ俺の真上じゃん!!
「きゃっ!」
「よっ、と」
小さく悲鳴を上げた小鞠と、軽い調子で落ちて来たボールを素手でキャッチする小梅さん。なんで素手で取れちゃうんですか。
「危ない危ない。相変わらずツイてないね」
「笑い事じゃないですよ……」
小梅さんかいなかったら大惨事だぞ。直撃して気を失うまである。それでも小梅さんは微笑むばかりで、マウンドの方を指で示した。
そこには、こちらを見ている夏目さんが。ちょっと驚いた表情をしていた。
一応軽く会釈すると、向こうも笑みを返してくれる。
ちなみに、この間桜さんは微動だにせずジッとしていた。たしか運動音痴とか聞いたことある気がするんですけど、ビックリして動く暇もなかったとかじゃないですよね?
「随分と大層な評価を智樹に下してるけど」
グラウンド上がプレーに戻ったのを見守りながら、ここで桜さんが口を開く。
果たしてあの人の恋人として共にいる白雪桜さんは、夏目智樹をどう見ているのだろう。
「小梅が思ってるよりも、大したことはないのよ、智樹は」
「そうなんですか?」
「ええ。負けず嫌いで、ただ野球が好きなだけ。だから頑張る。それだけよ。プロに挑戦せずこんな草野球程度で満足してるのが、その証拠でしょ」
ため息と共に吐き出された言葉は、どこか馬鹿にしたような、それでも愛おしいものを語る口調で。
羨ましいと思った。
そんな風に恋人のことを語れる、その関係が。
きっと小梅さんは、こんな二人を長く見てきたから。だから、憧れたんだろう。
いつか、自分にも。そんな風に願って、そして俺たちと出会った。
「私も智樹も、あなた達が思っているより本当に小さな人間よ。小さなことで悩んで、答えを間違えて、色んな人とすれ違って。その中で得たものを宝物のように大事にしてるだけ。それだけなの」
いつも見せる無表情とはかけ離れた、優しく柔らかな笑み。それが向けられる先は、マウンドの上で目を輝かせているひとりの男。
「まあ、お姉ちゃんはこう言ってるけどさ。あたしから見たらまた違うってわけ。言葉だけじゃなくて、その人の在り方だって、あたし達の捉え方一つで変わるんだから。でしょ、お姉ちゃん?」
「自分の言葉を引用されたら、反論も出来ないわね」
いつかは俺たちも。俺と小梅さんだけじゃなく、小鞠も含めた俺たち三人も。
夏目さんと桜さんや三枝さん達みたいに、大切な宝物を共有出来る日が来るのだろうか。
いや、いつかじゃなくて。今もそうであれば。
たしかめる術はないが、きっとそうあるのだと信じよう。
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