一年目六月 あの頃には戻れなくても
期末テスト一週間前。
さて、全国の高校生的にはこの言葉がどのような響きを持って聞こえるだろうか。殆どの者が、絶望感と憂鬱を与えられるだろう。
そもそも、この学校という組織のシステム自体がおかしいのだ。勉強をする場だと宣うくせに、生徒がそれに対するやる気を出すような措置はなにも取らない。学校側が教育に力を入れれば入れるほど、反比例するように生徒の勉学へのやる気は落ちていく。当たり前だ。だって大抵の高校生は勉強しに来てると言うより、友達に会いに来てるとか、部活のために来てるとか、まあそんな理由だろうから。
本当は学校なんて怠いしサボりたいしなんなら通いたくないけど、世間体的にそれはマズイ上に親から怒られてしまうので仕方なく。
僕の場合は別に会いたい友達がいるわけでもなく、部活にそこまで熱心なわけでもなく、かと言って今更気にするような世間体もないし、怒るような親もいない。まあ、親代わりはいるし、先日の文化祭で会いたい相手が出来てしまったわけだけれど。ついでに罰ゲームも理由の一つに付け足しておこうか。なんか意外と多いな、学校に来る理由。
閑話休題。
別に学校のシステムなんてどうでもいい。こんな話をし始めたら、そもそもこの国の教育について抜本から見直さなければならなくなってしまう。一介の高校生である僕には大き過ぎる話だ。
問題は、今日から期末テスト一週間前ということだ。僕個人の話をするならば、別にテストが特別嫌いなわけではない。勉強が苦手ということもないし、点数だってそれなりに高得点を取れる。
だから、今の僕が最も懸念しているのは僕自身の話ではなくて。
「もう無理、なによあれ……付き合い始めで一番幸せな時期なのは分かるけど、さすがに限度ってもんがあるでしょ……」
自販機へと続く放課後の廊下で、僕の隣を歩くこの女の子。先日の文化祭において、クラスにとっても文芸部にとってもダントツでMVPを獲得した挙句、ついに僕が好きになってしまった美少女。
つまり、白雪が果たして今回の期末テストも今までと同じく、僕に突っかかって来るのかが問題だった。
「まあそう言ってやるなよ。君だって二人のことを応援してたうちの一人なんだからさ」
「あんな焦ったかった二人がまさかこんなザマになるなんて思いもしなかったのよ」
しかし今のところそういった様子は見受けられない。それもそうか。我々文芸部的にはテストなんかよりも、神楽坂先輩と三枝がようやく付き合い始めたことの方が重要なのだから。
「ていうか、そう言うあなたこそ私と一緒に抜け出して来てるんだから、人のこと言えないでしょ」
「恋は盲目なんて言葉は滅びたらいいと思ってるぜ」
つまりはそう言うことだった。
我が親友と尊敬すべき先輩が付き合い始めたのはいい。とても喜ばしく、祝福すべきことだ。僕も白雪も色々と手を回して応援もしていたのだから、二人には是非幸せになってもらいたい。
が、しかし。先程白雪も言っていたように、いくらなんでも限度というものがある。
僕たちが同じ部室内にいるというのに、こちらのことも気にせずイチャイチャイチャイチャ。身体的接触を行なっていないだけまだマシなのだろうけれど、神聖なる部室であんな雰囲気を醸し出さないで欲しい。
「まあ、幸か不幸か今のところは部活も特にやることないんだし、僕たちが気を回してやればいいだろうさ」
「果たしていつまで続くんでしょうね」
「あれがいつまでかって意味なら、まあ持って夏休み前までだろうね」
「あの二人の関係がってことよ」
「縁起でもないこと言うなよ。是非ともいつまでも続いて欲しいじゃないか」
図書室前の外に繋がる扉を開き、自販機へと辿り着く。グラウンドからは鋭い金属音と野太い掛け声が聞こえてきて、野球部は今日も元気に練習中らしい。
白雪の仕業で再びボールを握る羽目になってしまったが、今の僕はそれがどこか楽しみだ。この子のお陰で取り戻せたのだと改めて実感すれば、つい漏れてしまう苦笑。
「なに笑ってるのよ気持ち悪い」
「一言余計だ」
自販機に硬貨を投入しながらも、ナチュラルに毒を吐いて来る白雪姫。まあ、隣のやつが急に笑い出したら気持ち悪く感じるのも仕方ないか。それをわざわざ口に出そうとは思えないけど。
「あなたの笑い方は、こう、一々癪に触るのよね。もうちょっと普通に笑えないの?」
「普通の定義を語るところから始まることになるけど、それでいいのか?」
「あなたが普通を語るなんて片腹痛いわね」
ずっとデフォルトの無表情だった白雪の口角が、僅かに上がる。僕を詰る時だけ笑顔になるのは相変わらず。
文化祭を通して少しは丸くなったものだと思っていたのだけれど、どうやら毒林檎は健在らしい。むしろこれが白雪桜のアイデンティティのようなものなのだろうか。
実際、毒の持たない無害な白雪なんて全く想像出来ないし。
いつものカフェオレを購入した白雪と入れ替わり、僕もいつものブラックコーヒーを購入。プルタブを開けて喉に流し込んだ黒い液体は、いつも通りの苦さを僕に提供してくれる。隣では白雪がカフェオレを飲んでいて、普段の無表情が嘘のように顔を綻ばせていた。可愛くて結構。
そう言う表情を見せてくれるあたり、ちょっとくらいは距離が縮まったと思ってもいいのだろうか。
少し不躾に視線を投げすぎたか、白雪の鋭い眼光がこちらに向いた。
「……なによ」
「いや、随分と可愛い顔して飲むもんだと思ってね。普段からそうしてればいいのに」
「お断りね。なんで私がそこらの有象無象に笑顔振りまかなきゃいけないのよ」
「僕の前では別にいいのか」
「その事実を噛み締めて感謝に咽び泣き頭を垂れなさい」
「君、白雪姫よりも女王の方が似合ってるぜ」
「三枝と一緒にしないでくれる?」
「三枝を女王呼ばわりするのもやめてやれ。本人にとっては早速黒歴史になってるみたいだぜ、あれ」
なんて軽口を交わしながらも、少しだけ浮ついている僕の心。以前にも白雪の口から語られ、そして僕自身にもその自覚と自信はあったけれど。
こうして再び、僕が彼女にとって特別な存在なんだと聞かされると、どうしても嬉しくなってしまう。
「それはそうと。あなた、ちゃんと体は動かしてるの?」
「まあ、最近はランニングくらいならしてるけど。いきなりどうした?」
「今度後輩と一打席勝負するでしょう? 早く練習始めないと、無様な姿を晒すことになるわよ」
いや、僕の意思も無視して勝手に決めたの君なんだけどね。などと思っても直接口には出さない。実際、僕も相当やる気になっているし。しかし悲しいかな。今のところは一人で出来るトレーニングで精一杯だ。
さすがに今の三枝にキャッチボールの相手を頼むわけにもいかないし、樋山と小泉はそもそも敵側。ランニングか筋トレくらいしかやることがない。
「なんだ、心配してくれるのか?」
「当たり前よ」
からかうように言ってみれば、予想外の即答に面食らってしまう。
白雪の顔はいつも通りの無表情で。しかし僕を見つめるその瞳には、確固たる信念が秘められていた。
「前に言ったじゃない。私は、あなたの努力を無駄にしたくないって」
想いを乗せて熱を帯びたその言葉は、いつかと同じように僕の心の奥底へと浸透していく。僕が、この子のことを好きだと気づく一番の原因になった言葉。
そんなものを不意打ちで放たれてしまえば、どうしても頬は暑くなってしまって。尚も見つめてくる瞳の熱に耐えきれず、つい視線を逸らしてしまった。
それから遅れて、クスリと鈴を鳴らしたような笑みが耳に届き、僕の羞恥は余計に煽られる。
それにね、と。言葉を続けた白雪には、未だに笑顔の気配が。
「今のあなたとあの頃のあなたが違うとは分かっていても。それでも、あと一度だけでもいいから、私が恋をした頃の夏目智樹を見たいのよ」
唄うように紡いだ言葉は、どこか地に足のつかない音を持ち。チラリと横目で盗み見た白雪の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。恥ずかしければ言わなければいいのに。
それに、あと一度だけなんて、勝手に決めつけないでもらいたいものだ。
「別に、これからはいつだって見れると思うぜ。残念なことに、君が好きになった昔の僕じゃなくて、今の僕のピッチングだけど」
白雪のお陰で、取り戻したものがある。
中学三年の時に、たしかに失ってしまったもの。夏目智樹という男の存在の根幹を支えていたもの。
それを取り戻したからと言って、あの頃の僕に戻れるわけでもないけれど。
なら今の僕は今の僕なりに。好きな女の子にはかっこいいところを見せなければなるまい。
「あら、それは残念ね」
ちっともそう思っていなさそうな声で、白雪は上機嫌な音を奏でる。ずっと聞いていたいような、でもそれはそれでまた別の問題が生じてしまいかねない。
なんせ、今はただでさえ頬の加熱が止まらないのだ。これ以上はさすがにキツイものがある。
「そもそも。それよりもまず先に、期末テストがあるだろう。学生としてはそっちの方が大切だと思うぜ?」
「そう言えばそうだったわね」
籠もった熱を吐き出すように言えば、白雪の声が一転。期限の良さはどこへやら、挑戦的な色に染まる。改めて白雪の方に向き直れば、鋭い視線が僕を射抜く。
おっとこれはもしや話題のチョイスを間違えましたかな?
「あなた、今回はちゃんと本気で挑みなさいよ」
「言われるまでもないよ。今の僕は、それなりにやる気があるからね。二連敗を喫して悔しがる準備はしておいた方がいいぜ?」
「フラグの積み重ねご苦労様。あなたこそ、悔しさに塗れながら地べたに頭を擦り付けて私に許しを請う準備は出来てるんでしょうね?」
「君になんの許しを請えばいいんだよ。罪を重ねた覚えはない」
「私の初恋を奪った罪、とか?」
「オーケー白雪、この話はおしまいだ。さっさと部室に戻ろうぜ」
「あら夏目、自分に都合の悪い話が出てきたら尻尾巻いて逃げるというの? 情けない男ね、幻滅したわ。いえ、そもそも幻滅するだけの評価が私の中に残されていないんだけど」
結局いつも通りの軽口に戻り、さっきまでの妙な雰囲気は霧散した。
けれど、この方が僕たちらしくていいんじゃないだろうか。憎まれ口を叩き合う、楽しくて心地いいリズムの会話。
願わくば、罰ゲーム履行のその時まで。こんな時間がずっと存在しているように。
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