三年目八月 ダイエットチャレンジ

 白雪桜の好物といえば。彼女を知っている者なら、すぐに思い当たるだろう。

 そう、甘いもの全般だ。

 とりわけ、その中でも桜が好んでいるものはなにか。ドーナツとパンケーキである。

 毎週一度は必ずミスドでドーナツを買って帰ってくるし、パンケーキ専門店なんて行った日には、とてつもない量のパンケーキを腹の中に収める。それは高校二年の時に思い知らされた。

 最近は家でもパンケーキを作り出す始末。しかも持ち前の料理スキルでやけに凝ったものを作る。イチゴ味とか、チョコチップ入りとか。それを頂戴しに理世とか井坂とかがうちに来たりするが、彼女達は気づいていなかったのだ。

 果たしてその先に、どれだけの悲劇が待ち受けているのかを。




「嘘……でしょ……⁉︎」

「ん?」


 大学に入ってから初めての夏休み。リビングで高校野球をぼーっと眺めていると、洗面所の方から悲痛な声が聞こえてきた。

 この家には現在、ここに住んでいる二人しかいないから、勿論今の声もここの住人である桜のはずなんだけど。

 こんな声、少なくともここ最近聞いたことがない。人は誰かの思い出を声から忘れていくと言うから、もしかしたら高校時代に聞いたことのあるものだったかもしれないが。

 ここまで悲壮感の漂う彼女の声は、初めて聞くものだった。


「どうかしたのか?」


 トボトボと肩を落としてリビングに戻ってきた桜に声をかけるも返事はなく、ソファの上、僕の隣に腰を下ろす。

 激動の高校時代に比べると至極穏やかで平和な毎日だったのに、果たしてなにがこうまで彼女を落ち込ませているのだろう。

 まあ、ここまで落ち込んでる桜も珍しいから、見ていて面白くはあるのだけど。


「……太った」

「は?」

「……だから、体重が増えてたのよ! 太ったのよ!」

「はぁ……」


 これまた珍しく声を荒げる桜には悪いのだけど、まあ、そうなるよな、というのが素直な感想だ。

 だって、普段からあれだけ甘いもの食べてばっかりなのだから、むしろ体重に変化がなかった今までがおかしい。


「そうは言っても、君は元々細い方なんだから、そこまで気にする必要もないと思うぜ?」

「ならあなたは、このまま私がぶくぶく太っていってもいいって言うの?」

「それはちょっと」


 別に太った程度で桜を嫌いになるわけがないけれど、健康的な観点から言えばあまりよろしくはない。生活習慣病とか怖いし。

 隣で見るからに落ち込んでる桜の頬を、人差し指で突く。いつも通りぷにぷにで柔らかい頬。特に太ったとか、そういう感じはしない。


「あんま変わんないように思えるけどなぁ」


 呟きながら掌で頬を撫でていると、桜は気持ち良さそうに目を細めてくれる。さっきまでの落ち込みはどこへ行ったのやら。

 しかし手を離せば今度は不機嫌そうに眉根を寄せるもんだから、思わずクスリと笑みを漏らしてしまった。可愛いやつめ。


「でも、5キロも太ってるのよ」

「ならダイエットでもするか? 腕立て100回、上体起こし100回、スクワット100回、それからランニング10キロを毎日、とか」

「禿げたくないんだけど」

「いや現実に禿げたりしないだろ」


 最強にもなれなさそうだけど。そもそも目的は鍛えることではなく、ダイエットだ。こんな過酷なトレーニング、する必要はない。

 さらに言えば、桜は運動が苦手。運動神経なんて壊滅的だ。妹の小梅ちゃんがああなのに何故なのか。なんて本人に直接言ってしまえば、また拗ねてしまいそうだけど。

 そんな桜がダイエットとはいえ運動しようと言うのだから、あまりハードなことは出来ないだろう。

 僕の日課である朝のランニングについて来させるのですら不可能。

 食事制限はあまりよろしくないとも聞くし、さてどうするか。


「こうなったら仕方ないわね。あの子に頼りましょう」

「あの子?」

「ええ。どうせ受験勉強ばかりで暇してるだろうし、ついでにあの二人も巻き添えにしましょうか」


 ニヤリと悪魔の笑みを浮かべた桜に、もう落ち込んだ様子は見られない。それはいいのだけど、その代わり犠牲になる後輩と友人をつい哀れんで、心の中で静かに合掌した。






「いや、暇じゃないんですけど」


 数時間後、我が家に訪れた後輩、小泉が事情を聞いた後に放ったのはそんな一言。まあ、当然の反応だろう。小泉は現在受験生。部活もこの夏で引退して、これから受験勉強が本格化してくるところだ。

 しかも聞いた話によれば、小泉はスポーツ医学の道に進むとかで。ならそれなりに難関な大学を受けるのであろうし、本来なら桜の我儘に付き合っている暇なんてないだろう。

 それでもこうしてうちにやって来たのは、桜が慕われているからか。もしくは、小泉も息抜きがしたかったからか。

 そして来客は小泉だけではなく。あともう二人。


「ぷふー、桜ちゃん太ったんだ? そりゃあんなに甘いものばかり食べてたら当然だよねー!」

「太らない体質とか言ってたのはどこの誰だったかにゃー」


 なぜか嬉しそうに笑っている理世と、呆れたように言う井坂。この二人は最近割とうちに来ていた。その理由から考えると、二人も人のことを笑っていられないとは思うのだけど。


「あなた達、まさか自分の体重見てないのかしら?」

「最近は見てないね」

「家に体重計ないからねん」

「洗面所にあるからちょっと計ってきなさい」


 まさかそんな、と笑いながら洗面所に向かう井坂と理世の二人。桜は笑われたことを怒るもんだと思っていたが、嘆かわしいといわんばかりにため息を吐くのみ。

 やがて戻ってきた二人は、明らかに肩を落としていた。


「「すみませんでした」」

「土下座しろ」


 やっぱり怒ってたのかよ……。声色がマジだから、聞いてるだけの僕も怖いんだよなぁ。

 しかしその様子だとやはり、理世と井坂の二人も体重が増えていたのだろう。僕は一応紳士なので、具体的な数字を聞いたりはしないが。そんなことすればこの場の全員からタコ殴りにされるし。


「そもそも! 桜ちゃんがあんなに美味しいパンケーキ食べさせてきたんだから悪いんじゃん!」

「そうだそうだー! 姫のパンケーキが美味しいのが悪いんだー!」

「それをなにも考えずパクパク食べてたのはあなた達でしょ。完全に自業自得のくせして責任を他人になすりつけるなんて、随分と愚かしい真似をするのね。所詮は灰かぶりと言ったところかしら」

「わたし卒業したからもうシンデレラじゃないもん!」

「それに私だってそのせいで太ってるんだから、文句を言われる筋合いはないわよ」


 わいわいきゃあきゃあと、いつものように喧嘩を始めた桜と理世に、それを囃し立てる井坂。

 とりあえず三人を放っておいて、僕は小泉に向き直る。


「悪いね受験生」

「そう思ってるんなら呼び出さないで欲しいんですけど」

「そう思うなら、そもそもここに来ないって選択肢もあったと思うぜ?」

「なら聞きますけど、夏目先輩はあの人から頼られて断ることなんて出来ます?」

「出来ないね」

「そう言うことですよ」


 桜が人になにかを頼ることは、実はそれなりに珍しかったりする。運動以外なら基本なんでもできる彼女は、大抵のことなら自分一人の力で済ますから。一つ年下とは言え、高校時代のそんな桜の姿を見てきた小泉だ。なんだかんだで僕がいないところでも仲良くしてたみたいだし、ある種憧れのようなものも抱いていたかもしれない。

 その桜からこうして頼りにされている。未だに憎まれ口の絶えない後輩ではあるが、やはり嬉しさが勝ったのだろう。


「お礼に勉強教えてやるよ。桜が」

「夏目先輩がじゃないんですね」

「僕よりも桜に教えてもらった方が、君も嬉しいだろ?」

「当たり前です」


 即答すぎてさすがに傷ついた。

 野球を通してそれなりの時間を過ごしてきたと思うんだけど、もしかしてあんまり慕われてない? いや、中学時代からこんな感じだった気もするけど。


「てか、ダイエットするだけなら適当にランニングしてるだけで良くないですか?」

「それは言ってやるな」


 かくして、小泉主導による三人のダイエットが、この日から始まった。

 メニューはシンプルに、ランニングと柔軟体操。しかし普段は運動しない三人にとっては、十分ハードな内容だったようで。小泉が予備校の日には、代わりに僕が監視していたのだけだ、たった2キロのランニングで三人は根を上げていた。しかも意外なことに、理世と井坂はかなり体が固かったから、柔軟する時は必ず悲鳴が上がって桜が愉悦の笑みを浮かべていたのだ。

 とはいえ桜にも問題がないわけではなく。まず、絶望的に体力がない。桜だけランニングは半分の1キロでいいと小泉に判断させるくらいにはない。しかし負けず嫌いな僕の恋人がそれを良しとするわけもなく。毎回走り終わった後は、息も絶え絶えな理世からもはや死に体な様を弄られ、それに言い返そうとして余計にしんどくなる、なんていう、地獄みたいな様相と化していた。

 桜を襲った悲劇はそれだけじゃなかった。小泉から、カフェオレを禁止されたのだ。おまけに小梅ちゃんに経過を報告するとか言われる始末。

 桜にとってのカフェオレとは、僕にとってのブラックコーヒーと同じ。つまり、彼女の動力源といっても過言ではない。目的であるダイエットを考えれば当然の帰結ではあるのだけど、あの絶望に染まった顔を見てしまえば、さすがに気の毒だった。

 しかも小梅ちゃんに経過を報告、なんて言われると、シスコンの桜が途中で投げ出すわけもなく。トドメとばかりに小梅ちゃんから届いたメッセージは『お姉ちゃん頑張ってね!』の無邪気な一言。

 そうして追い詰められた桜がどうなるか。


「もうやだ……なによあのチビ……人が下手に出てると思ったら調子に乗って……縮めてやろうかしら……」

「まあまあ。一応は君たちの為を思って付き合ってくれてるんだから」


 こうなる。

 ソファに座った僕の隣に腰を下ろし、腕に思いっきり抱きついてくる桜。体重は増えても胸は増量されるわけじゃないんだなーとか究極的に失礼なことを考えながら、その頭を優しく撫でてやる。

 つまり、普段の十倍くらい甘えん坊になってしまった。

 これはまだマシな方で、お風呂一緒に入ってとか言われる日もあるから、僕としては堪ったもんじゃない。しかも毎日同じベッドで寝ることになっちゃってるし。グッジョブ小泉。


「ねえ智樹」

「ん?」

「カフェオレ飲んじゃダメ?」

「ダメだな」

「むう……」

「そんな顔してもダメなもんはダメだ」


 僕だって、高2の夏休みは似たような目に遭っているのだ。目の前で嘲笑うようにカフェオレ飲まれた恨みは忘れてないからな。

 とは言え僕は桜みたいに性格が悪いわけではないので、一応コーヒーを飲むのは控えめにしているつもりだ。ていうか、桜の目が怖いから、彼女のいる前ではあんまり飲めない。

 だから代わりに、桜のことはめいいっぱい甘やかすことにしているのだけど。


「じゃあぎゅってして」

「はいはい」


 拗ねた子供のように唇を尖らせる桜の手を苦笑しながらも引いて、こちらの股座へと誘う。華奢な体に手を回して背中から覆いかぶさるように抱きしめれば、腕の中でむふーと満足げに息を吐く桜。

 小泉の都合もあるから、一応期限は明日までとなっている。明日からは甘えん坊じゃなくて、いつもの桜に戻ってしまうと思えば、安堵するような、少し名残惜しいような。


「とりあえずは明日で終わりなんだから、あと一日頑張れ」

「うん」


 抱きしめたまま頭を撫でると、素直な頷きが返ってくる。

 やっぱりちょっと名残惜しいから、小泉に無理言って夏休みいっぱいお願いしようかな。




 そんなこんなでダイエット期間が終わり、最後の一日も思いっきり運動して帰ってきた桜を思いっきり甘やかせて、更に明けたその翌日。

 再び僕達の家に集まった小泉と理世と井坂。今日は結果発表の日だ。

 とはいえ、あれだけ運動したのだから、結果は見えているようなものだが。


「やったー! 戻ってた! ていうか前より痩せてたよ綾子ちゃん!」

「はいはい良かったですね」


 一人大げさに喜んでいる理世を、小泉は適当にあしらう。この後輩、先輩の扱いがどんどん雑になってきてる気がするんだけど。昔は理世にももうちょっと敬意持ってなかったっけ?

 他二人の桜と井坂もどこか安堵したような表情を浮かべていたから、とりあえずダイエットは成功したのだろう。


「いいですか、お三方。一応私が見るのは今日までと言っても、こういうのは継続することが大事なんですから。これに懲りたら、普段から軽い運動くらいはするように──」

「パンケーキ焼くわね」

「白雪先輩!!!!」


 何食わぬ顔でホットケーキミックスを取り出した桜に、小泉の怒号が炸裂。しかし桜は大きな声に顔を顰めるのみ。


「なによ煩いわね。カルシウム足りてないんじゃないの?」

「足りてます!! 毎日牛乳飲んでます!!」

「それでその身長はちょっと可哀想ね」

「ほっといてください! そうじゃなくて! 私の話聞いてましたか⁉︎」

「聞いてたわよ。普段から軽い運動くらいしてろって言うんでしょ?」


 言いながら、桜はパンケーキを作る準備を進める。慣れた手つきで素早く動くその様子を、小泉は見ていることしか出来ない。

 何故なら、ここに二人。桜の作るパンケーキの虜になってしまった女子がいるのだから。


「まあまあ綾子ちゃん。食べた分また運動したらいいんだからさ?」

「姫のパンケーキは絶品だから、綾ちゃんも食べてみたらいいぜい?」

「あ、ちゃっと、離してくださいよ! ていうかそういう問題じゃないですよ!」

「久しぶりだし、今日はたくさん焼いちゃおうかしら」

「「わーい!」」


 この数十分後、また一人、桜の作るパンケーキの虜になってしまうのであった。

 即落ち2コマかよ。

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