五年目五月 初めては図書館で
まずいことになった。
それを完全に忘れていたわけではない。どころか、小鞠や母親からはしつこく聞かれていたのだ。本当に大丈夫なのか、と。それでも俺は、そんな心配の声に耳を傾けず、のうのうと日々を暮らしていた。
浮かれていた、と言ってもいいだろう。小梅さんと過ごす毎日が幸せすぎて、完全に浮かれていたのだ。こればっかりは、不幸だどうだとは言えない。誰がどこからどう見ても俺のミスなのだから。
「だからあれほど言ったじゃないですか」
「ごめんなさい」
「もう。二年生最初のテストで赤点なんて出したら、白雪先輩に笑われますよ?」
「返す言葉もございません……」
まあ、つまりはそういうことだった。
昼休み、いつもの空き教室で。俺は小鞠からお叱りを受けていた。
二年生に進級して最初の定期テストまで、残り三日といった今日。これまでテスト勉強なんて全くせずに過ごしていたのだが、ここに来て己のヤバさに気がついた。
ていうか、気づかされた。
本気で心配になった小鞠に問題を解いてみろと言われたのが三十分前。実際に解いてみて冷や汗が止まらなくなったのが二十分前。小鞠が呆れたため息を漏らしたのが十分前である。
「でも葵くん、ここまで成績悪かったわけじゃなかったですよね?」
「そのはずだったんだけどなぁ……」
「遠い目しないでください。やっぱり、白雪先輩とイチャイチャしすぎなんじゃないですか?」
「お前にそれ言われるとちょっとキツイんだけど」
「わかってて言ってるんです」
我が友人も言うようになったものだ。それもこれも、昨年度末にあったあの人とのあれやこれやのお陰だと思えば、さらに複雑な心境になってしまう。
さて、とは言え。一年の時の俺の成績は、別に良くもなく悪くもなく、と言った感じだったはずだ。
それが進級してみればこの始末。恐らくこのままテストに臨めば、二つくらい赤点を取りそうな勢いである。
「私が放課後、つきっきりで教えてあげればいいんですけど……」
「今日は図書委員の当番だっけ?」
「はい」
二年になってから、残念ながら小鞠とはクラスが離れてしまった。俺も図書委員に所属しているわけではないから、小鞠との交流は昼休みのこの教室か、放課後のあの喫茶店くらいしかなくなったのである。
まあ、それでも結構あるか。小梅さんとも仲良くしてるみたいだし、休日はたまに三人で遊びに出かけるし。
あの時願った、三人での時間は、今もこうして続いているのだ。
誰が見ても文句なしのハッピーエンド。夏目さん風に言うなら、今はエンドロールのその先に、と言ったところか。
「仕方ないですね……こうなったら形振り構っていられません」
「待て、何をするつもりだ。小鞠お前まさかとは思うが……」
「桜さんにお願いして、葵くんの勉強を見てもらおうと思います」
ニッコリと、悪魔の微笑みを持ってして、小鞠から死刑宣告を告げられた。
「待て待て待て、待ってくれ」
「ダメです待ちません」
「じゃあこうしよう、小梅さんに頼もう。な? その方が絶対いいって。あの人の手を煩わせるわけにはいかないって」
「なら今すぐ白雪先輩に連絡してください」
「イエスマム」
言われるがままスマホを取り出し、ラインで小梅さんにメッセージを送る。『勉強教えてください』と至極簡潔に。
返事はすぐに来た。
『えー葵君成績悪いのー?』『学校のテストなんて普段の授業聞いてれば余裕なのにー?』『どうしよっかなーあたしも暇じゃないんだけどなー』『可愛い彼氏がどうしてもって言うなら仕方ないかなー』
と、めちゃくちゃ煽ってきてはいるが、一応教えてくれるらしい。放課後会った時覚えとけよ。
「ていうか、葵くんはどうしてそんなに桜さんを怖がってるんですか?」
「いや、だってあの人怖くないか?」
「そんなことないと思いますけど」
特になにかされたわけでもないが、白雪桜さんはなんとなく恐ろしいイメージがある。夏目さんとか、完全に尻に敷かれてるし。
あの人の毒舌の餌食にされれば、俺は生きて小梅さんと会える気がしないのだ。
「とにかく、白雪先輩にちゃんと教えてもらってきてくださいね」
「分かってるよ、赤点は俺も回避したいし」
それ以上に、小梅さんに笑われるのは癪だから。まあ、今の段階で既に結構笑われそうではあるが。そこは仕方ないと割り切ろう。
というわけで放課後。
いつもの喫茶店だと邪魔が多いということで、小梅さんと合流した俺は市立図書館に来ていた。記念公園から南に徒歩で十五分くらい。俺の家よりも更に遠い。
「さて、それじゃあ勉強を始めましょうか。どの教科を教えればいいの?」
「全部ですね」
「全部かぁ……」
図書館の席、誰も寄ってこないであろう端の方の席についた俺たちは、小声でヒソヒソと予定を練る。どうでもいいけど、この秘密のやり取りっぽいのはちょっとドキッとしてしまう。
隣に座る我が恋人こと白雪小梅さんは、俺の返答を聞いてどこか遠い目をしてしまった。現実から目をそらさないでください。これがあんたの彼氏の現状なんですよ。
「とりあえず、文系は暗記あるのみだね。だから今日は理数系を教える。と言っても、結局はそっちも公式を暗記しないとダメになるんだけどさ」
「今あるのは数学の教科書だけですけど」
「ん、なら数学を重点的に教えて、家では国語と日本史と英単語の暗記。明日は理科やろっか」
「了解です」
「これ、あたしが昔使ってた問題集。これ解いてたら大体分かるようになると思うから。どうしても分からないところがあったら教えてね」
小梅さんから分厚い問題集を受け取り、指示されたページを開く。所狭しと並べられた数式を見ているだけで、頭が痛くなりそうだ。
暇つぶしの本を探してくると言って立ち去った小梅さんの背中を見送り、問題集に視線落とす。二年の一発目で赤点なんて、あの人の恋人として取るわけにはいかない。
などと本人に伝えてみれば、変に気負うなと叱られるだろうか。
「やるか……」
気合いを入れて、ペンを走らせる。幸いにも一問目から解けない、なんてことはなさそうだ。ここは少しでも、小梅さんに見直してもらえるよう頑張るか。
なんて思ってた時もありました。
問題集自体はスムーズに解けていたのだが、俺自身も予想だにしなかった妨害があったのだ。
そう、隣に座っている小梅さんである。
分からないとこらはチラホラと聞きつつ、問題を解き進めていったのだが、読書に飽きたのか、小梅さんは机に突っ伏して穏やかな笑みで俺の顔を見つめてくる。
視線を感じるだけならまだしも、そんな顔で見つめられてしまっては集中できるはずもなく。
「……あの」
「なあに?」
「……いや、なんでもないです」
「ふふっ、そう? なら頑張りなさい」
こっち見るな、なんて言えるわけもないので、年上モードの色気がある甘い声色に送り出され、結局また問題と向き合うことに。
ああクソ、その年上モードはまだ慣れてないんだから、ちょっとは俺のことも考えてくれよ……。
気を取り直して集中しようとしても、やはり隣からの視線が気になる。
なにより、俺たちが今座ってるこの場所は、並び立つ本棚で周りから完全に死角になっていて。そんな場所で、すぐ近くに、手を伸ばせば触れることができる距離に、最愛の人がいて。
このシチュエーションでなんとも思わない男はいないだろう。
けれど、今日は勉強しに来たのだ。ここである程度の知識を身につけていないと赤点待った無し。小鞠から何言われるか分かったもんじゃない。
いい加減文句の一つでも言ってやろうかと、隣で突っ伏している小梅さんの方を見ると。
極上の笑みを浮かべた恋人の唇が動く。図書館という静謐な空間で、音を持たない言葉が届く。
す、き。ゆっくり動いた小さな唇は、たしかにそう伝えてきて。
「……っ」
「ふふっ」
微笑みを漏らす小梅さんの頬は、少しだけ赤くなっている。一方の俺は、それよりも余程酷い赤に染まっているだろう。
気がつけばペンを動かす手は止まっていて、顔の熱を自覚しながらも、すぐそこにいる小梅さんに釘付けになってしまう。
「ねえ、葵君」
今度は、明確な音を伴った言葉が発せられる。蠱惑的な声。白雪小梅という女性に、どこまでも溺れてしまいそうになるほどの。
突っ伏していた体を起き上がらせた小梅さんは、そのまま俺に接近してくる。
やがてこちらの耳元に口を寄せて、小さく呟いた。
「キス、しよっか」
一体その声に、どんな力が秘められていたのだろう。
ここが図書館という公共の場であることも忘れて、お互い真っ赤な顔を近づけ、唇を小さく触れあわせた。
初めてのキスは、本当に触れるだけのささやかなもの。ただほんの一瞬、柔らかいなにかが唇に押し当てられただけ。
それでも、小梅さんが顔を離した後も、俺の唇には甘い感触が残っている。
「……ここ、図書館なんですけど」
「そうだね」
絞り出した声は酷く掠れたものだった。照れたように笑っている小梅さんの声も同じく。
「でも、ちょっと気持ちよかったかも」
「変態ですか」
「そうじゃなくて……」
拗ねたように唇を突き出す小梅さんは、とても可愛らしい。
言いたいことは分かっている。俺も似たような気持ちだ。
シチュエーションなんて関係ない。
あなたとだから。
他の誰でもない、最愛のあなただから。
「ところで、そうしてるのはもう一回ってねだってるんですか?」
「……バカ。言わなくても分かるでしょ」
やっぱり明日は、桜さんか夏目さんに勉強見てもらおう。
こんな調子じゃ、赤点待った無しだ。
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