五年目八月 2 温泉と君の匂い
海でたらふく遊んだ夏目さんたちが帰ってきたころには、時刻はすでに夕方へと差し掛かっていた。その間俺は夏休みの宿題を終わらせるべく奮闘していたのだが、残念なことに全ては終わらなかった。小鞠は七月中に全部終わらせてたとのこと。さすがは優等生。見習わなきゃ。
夕飯は桜さんとマスターさんが腕によりをかけて作ってくれた料理を、食堂でみんな揃って頂くことに。これがまたとてつもなく美味くて、なぜか夏目さんがドヤ顔してたほど。実際、これを毎日食べれてるのは羨ましいけども。
さて。夕飯も終われば、次は風呂だ。それぞれの個室にもバスルームは設けられているのだが、しかし使用するのはそこではなく。
「洋風の屋敷なのに温泉があるのか……」
そこらのホテルよりもよほど豪華な露天風呂だった。
「そのあたりは気にしたらダメだと思うよ。最近の温泉旅館ってやつは、みんな洋風の建物なんだしさ」
「よくよく考えると変な話だよな。建物は洋風のくせに、部屋は畳。おまけに日本の文化である温泉まであるんだからよ」
「和洋折衷ってやつだ。温泉旅館はその成功例だろうね」
ぐったりと足を伸ばして全力で寛ぎながら、ぐだぐだと中身のない話をする夏目さんと三枝さん。極楽極楽、なんておっさんみたいなことを言っていた二人は、本当にまだ二十代なのだろうか。
しかしまあ、萎縮してるだけというのも勿体ないので、俺も温泉に浸からせてもらっているが。
「なんか、マジですごいですね、神楽坂さんの家って……」
「だろう?」
「なんで君が自慢げなんだよ」
家がちょっとお金持ちなんだー、と初対面の時に言っていた記憶があるが、まさかこんな別荘を持っているレベルで金持ちだなんて思わなかった。どうやらマスターさんも昔は神楽坂さんの家に仕えていたらしいし、ちょっとなんてもんじゃないだろう。
一体なんの仕事をしてる家なのか。
「しかしまあ、実際すごいよな、神楽坂先輩の家って。僕、使用人がいる家とか初めて見たもん。前に実家にお邪魔させてもらった時とか、腰抜かすかと思ったね」
「そ、そんなに……?」
「そんなに。僕の家もそれなりに裕福ではあったけど、あれはレベルが違いすぎる」
夏目さんの口から漏れるのは失笑。思わず笑ってしまうくらいということか。マジで何者なんだ神楽坂紅葉さん。そしてその恋人を任せられてる三枝さんは一体どうやって取り入ったんだ。
「まあまあ、んな話はいいじゃねぇか。それよりも、だ」
ニヤリ、と笑った三枝さんが、声を潜めて真剣な顔で切り出す。
「知ってるか? この露天風呂、となりの女風呂とはそこの仕切り一枚だけで繋がってんだよ」
「つまり?」
「おいおい椿、カマトトぶってんじゃねぇぞ? 男ならやることは一つだろうが!」
「バカか君は……」
一人で燃え上がる三枝さんに、夏目さんの冷やかな声がかけられる。
三枝さんの言いたいことは分かった。つまり、覗きやろうぜ、ということだろう。たしかに男である以上は仕切り一枚隔て向こう側に興味がないわけではないが、しかし俺も夏目さんと同意見である。
「あのな三枝。今この場に、いやそこの仕切りの向こう側には誰がいる? 昼間痛い目見たばかりだろう」
「そうっすよ。どうせ最後には全員小梅さんにシメられて終わるんですから、無茶なことはやめましょう」
「バカお前ら、そういう逆境があるからこそ燃えるんだろうが」
バカはどっちだよ。冷静に考えなくても、メリットとデメリットが釣り合っていない。そもそもあんたら、どうせこんなとこで覗きなんてしなくても恋人の裸なんて飽きるほど見てるでしょうに。
そんな俺の思いは届かず、立ち上がった三枝さんが意気揚々とお湯の中を歩き出した。
「はっ! なら二人はそこで見てるんだな。俺の勇姿を!」
「あ、バカ! マジで行くやつがあるか!」
「一旦落ち着きましょう三枝さん!」
「お前らみたいな貧弱なやつに俺を止められるかよ!」
夏目さんと二人で三枝さんを抑えつけようとするも、謎の馬鹿力を前に俺たちはあまりにも無力。さすがは小梅さんの師匠だが、感心してる場合ではない。
「ふんっ!」
「いでっ!」
「あぼぼぼ……」
強引に払いのけられ、お湯の中に沈む俺と夏目さん。俺たちに構わず三枝さんはお湯を出て、仕切りの方へと一歩ずつ歩みを進める。
てか待って、お湯が鼻から入った!
「くそッ! 桜の裸を君なんかに見られてたまるか!」
「危ねぇ! おい智樹桶投げてくんじゃねぇよ!」
「ちょっと黙ってそこに立ってなよ三枝。大丈夫、僕のコントロールの良さは君も知ってるだろう?」
「ああよく知ってるさ。だからその桶を今すぐ手離すんだ。さもないとお前の親友の脳天がかち割れるぞ?」
「望むところさ。ちょうどいい機会だ、君とは一度、どちらがより優れてるのか白黒ハッキリさせたかったからね」
「いいぜ、受けてたってやる」
お湯から顔を出すと、夏目さんが桶を構えて三枝さんがそれを警戒して一歩も動けず、ジリジリと睨み合っていた。
いや、なんか真剣勝負っぽい雰囲気醸し出してるけど、覗きに行こうとしてるやつとそれを止めようとしてるやつの二人だからな? この状況だけを見て強いて言うなら、三枝さんが黒で夏目さんが白だよ。間違いなく。
こんな馬鹿らしい争いに付き合ってはいられないが、万が一にも三枝さんが覗きに成功してしまえば、即ち小梅さんと小鞠の裸も見られることになってしまう。それは許されない。しかしその一方、こんな状況では俺にできることは何もないのも事実。ここは固唾を飲んで見守るしかない。
緊張が走る露天風呂で睨み合う二人を収めた俺の視界の端に、突然入り込んでくるものがあった。空高くに舞い上がっていたそれは、重力に従い落下して。
「あっ」
それに気づいた夏目さんが小さく声を上げた次の瞬間。
スコーン、と。とてもいい音が響き渡り、落ちてきたそれ、桶が頭に当たった三枝さんが、声も上げずに倒れ伏した。
代わりに聞こえてくるのは、おぞましさすら感じる冷えた声。
「ずいぶん元気にはしゃいでる声が聞こえてたけど、なにか楽しいことでもしてるのかしら? よければ私たちにも教えてほしいわね」
教えられるわけがなかった。
風呂で一日の疲れを癒した後、夏目さん達は食堂で酒盛りを始めてしまった。もちろん未成年である俺や小梅さん、小鞠の三人は飲めないので、俺と小鞠は一足先に部屋で休ませてもらうことに。小梅さんはオレンジジュースであの人たちに付き合うらしい。
いやはや、しかし。今日は実に密度の濃い一日だった。
海で小梅さんの水着を見れたと思ったら、結局海には入らずバレーボールで蹂躙され、桜さんとマスターさんの作った夕飯に舌鼓をうち、風呂場での三枝さんの奇行が原因で夏目さんと揃って桜さんに説教されたり。
目まぐるしくも、楽しい一日だったことには違いない。明日は山へ虫捕りに行こう、なんて夏目さんが小学生みたいなことを言っていたか。予定では二泊三日の滞在だ。明日もまた、騒がしい日が続くのだろう。明日だけじゃない。これから先、あの人たちと関わっていれば、ずっと。
想像してみれば、それは存外に悪くない未来だと思えた。むしろ好ましい。
だってそこには、不幸ヅラした馬鹿な男の姿はなくて。楽しそうに笑っている俺たちがいるのだから。
なによりも、あの人が。小梅さんが、世界一魅力的な笑顔を振りまいている。
いつかの冬の日に見せた涙なんて、今はどこにもない。そして、これから先の未来にも。
そんなあの人がどうして俺のことを、という疑問は消えたわけではないが、今くらいは忘れていようか。せっかくの楽しい旅行に、水を差すような真似はしたくない。
ベッドに寝転がりそんなことをボーッと考えていると、部屋の扉がノックされた。
誰だろうか。マスターさんは用があったら内線を使うって言ってたし、小梅さんは大人達に絡まれてたし、小鞠はさっき別れたばかりだし。まさか幽霊、なんてこともないだろう。いや、屋敷の風貌的には出ると言われてもおかしくはないのだが。丑三つ時はまだ数時間も先だ。
疑問に思いながらも開いた扉。その先にいたのは。
「休んでるのにごめんなさい。ちょっとお話しないかしら?」
「桜さん?」
小梅さんの姉、白雪桜だった。彼女は手に缶のカフェオレを二つ持っている。俺や小梅さんもよく飲んでいるやつだ。
頬が少し火照っているように見えるのは、先ほどまで酒を飲んでいたからか。風呂に入って化粧も落としているはずなのに、その美貌にはひとかけらの曇りもない。白雪家の遺伝子はどうなっているのやら。
とりあえず桜さんを部屋の中に通して、俺は一人用のソファに、桜さんには大きい方のソファに座ってもらった。
「どうしたんですか、突然」
「いい加減酔っ払いの男二人が鬱陶しくなってきたのよ。それで、あなたと話したいことがあったから、下は紅葉さんと中岸さんに任せて避難してきたの」
「そんなに酔っ払ってるんですか」
「さっき野球拳を始めたところね」
「そんなに酔っ払ってるんですか⁉︎」
放置してたらダメなやつじゃん。しかも自分の彼氏だろおい。歳上に押し付けるなよ。
しかし桜さんはすでに気にした様子もなく、持ってきたカフェオレの片方を俺に差し出してくれる。礼を言ってそれを受け取り、プルタブを開けて甘ったるい液体を喉に通した。
こうして桜さんと二人だけになるのは、地味に初めてだったりする。いつも夏目さんか小梅さんのどちらかが間に入っていて、俺とこの人個人同士での関わりは薄い方だ。
おまけに美人な歳上のお姉さんということもあって、妙に緊張してしまうのだが、どうやらその緊張が向こうにも伝わってしまったらしい。桜さんはクスリと小さく微笑んで、缶をテーブルに置いた。
「別にとって食おうだなんて思ってないわよ。風呂場での件も、三枝のバカがバカな真似しようとしてただけって聞いてるし」
「は、はぁ……」
「ただ、椿とは中々こうして二人で話すことってなかったから、いい機会だと思ってね」
よかった。温泉での件はちゃんと理解してくれてた。助かった。
さて。となれば話題の中心は、やっぱり小梅さんのことになるのだろうか。夏目さん曰くシスコンな桜さんだから、俺と小梅さんの関係について一言くらい物申したいことがあるのかもしれない。
「とは言っても、特に話のネタなんてないのよね」
いや、ないのかよ。
「どうする? お互いに小梅の好きなところでも挙げていく?」
「それは恥ずかしいんで勘弁してください……」
「あらそう。残念」
微塵も残念だなんて思ってなさそうに微笑む顔は、小梅さんとそっくりだ。纏う雰囲気は正反対のはずなのに、この姉妹はそこらの双子よりも似ている。
ここまで似ているのなら、参考程度に聞いてみてもいいかもしれない。
「ひとつ、聞きたいことがあるんですけど」
「なに?」
「桜さんって、どうして夏目さんのこと好きになったんですか?」
繰り返すようだが、俺とこの人の関係はそこまで深いわけではない。だから、桜さんに小鞠と同じ質問をしたところで無意味だ。
けれど、これなら桜さんも答えてくれるだろう。理由は分からないが、そうだという確信があった。
少し考えるそぶりを見せた桜さんは、ややあって口を開く。
「小梅がどうしてあなたを好きになったのか、分からなかったりするのかしら?」
「……」
「図星みたいね」
なんで分かっちゃうんですか。怖い。
「でも別に不安なわけではなくて、ただ純粋に疑問を感じているだけ、ってとこ?」
「……俺ってそんなに分かりやすいですか?」
「そんなことはないわよ。ただ、私がこういうことを推理するのが得意なだけ」
ふふん、と自慢げにドヤ顔を披露する桜さんは、少し幼く見える。この人でもこんな表情をするなんて意外だ。
いや、俺が勝手なイメージを抱いていただけで、これがこの人の本質なのだろう。
「とりあえず、あなたの質問に答えましょうか。と言っても、私の一目惚れだったから、あなたが望むような答えにはならないけど」
「一目惚れ? 桜さんの?」
「ええ。私の、よ。中学の時、たまたま立ち寄った球場で彼の試合を見たのよ。その時に、彼の目に一目惚れしたの」
「目、ですか……」
思い返すのは数ヶ月前。小梅さんに連れられて、小鞠と三人で浅木の中央公園に赴いた時のことだ。
普段のような皮肉げな笑みは身を隠し、ただ相手を全力で捩じ伏せようとする、あの目。同時に、子供のように瞳を輝かせて野球を楽しんでいる、あの姿。
「彼のその目の輝きに、私は一目惚れしたの。今でこそ他にも思い浮かぶけど、彼への気持ちの原点はそこね」
大切にしまっていた宝物を扱うかのように、どこまでも愛おしさを込めた声音で、桜さんは語る。本当に、夏目さんのことが好きなのだろう。それが俺程度にも分かる。
こんな美人にここまで想われているなんて、夏目さんはなんて幸せ者なのだ。俺も人のこと言えないけど。
「小梅とはね、あまりあなたの話をしないのよ」
「そうなんですか?」
それは、なんというか意外だった。仲のいいこの姉妹のことだから、俺について色々とある事ない事話してるものだとばかり思っていたが。いや、ない事話したらダメだろ。でもそれを平気でしそうなのが小梅さんなんだよな……。
「そりゃ近況程度は聞くけど、それでもその程度。多分小梅も、色々と戸惑ってることがあるんだと思うわ。あの子にとって、あなたみたいな存在が出来たのは初めてだから。でも、そんなあの子がひとつだけ、私に教えてくれたことがあるの」
「それは……?」
「あなたと一緒に、幸せになりたい。ですって」
聞いた瞬間、言葉にしようのない嬉しさが全身を駆け巡った。
本人から直接聞いたわけでもないのに。それでも、あの人がそう言ってくれた。その事実だけで。
泣きそうになるほどの感情の奔流が、俺を襲う。
「幸せにしてほしいでもなく、幸せにしてあげたいでもなく。あなたと一緒に、幸せになりたいって。あの子はそう言ったの」
「俺と、一緒に……」
鼻の奥がツンとする。それを誤魔化すために、カフェオレを一気に呷った。けれどそれでも、暴れ狂う感情を抑えられなくて。
俺は、他の人間よりも不幸な人間だ。それは自他共に認めることである。幸せになれるはずがないと、俺自身も諦めていたんだ。
でも、あの人と出会った。
小梅さんと出会ったおかげで俺は、幸せってやつを感じることができた。
人間誰しも、一度甘い蜜を吸ってしまえば、それを手放せなくなる。さらに上を欲しがってしまう。俺だってそうだ。もっと幸せになりたいと思ってしまって、思い描くその光景には小梅さんがいて。
だから、好きになってしまって。
「そう言ってくれるだけで、俺は十分に幸せなんですけどね……でも、一緒に幸せになるためには、俺だけじゃだめか……」
「よく分かってるじゃない。これが、あの子が椿を好きになった理由かは分からないけどね」
仮にそうじゃなかったとしても、このことを教えてくれただけでも十分だ。
「もしかしたら、私の予想の方が合ってるかも」
「予想?」
「知らない? あの子って実は匂いフェ──」
「ああああああああ!!!!!! ストップ! お姉ちゃんストーップ!!!」
大きな叫び声と扉の開く音。部屋に飛び入ってきたのは、話の中心人物である小梅さんだった。
なんで?
「それ以上は言わなくていいから! ていうかお姉ちゃんの予想は外れてるから!」
「あら小梅、奇遇ね」
「いや、それは無理があるでしょ」
この様子だと、どうやら小梅さんは俺たちの会話を盗み聞きしていたらしい。桜さんのとびきりの笑顔を見る限り、たった今なにかを暴露しようとしてたのはわざとか。いい性格をしてらっしゃる。
「ということで、私は下に戻るわ。そろそろ智樹がひん剥かれてるころでしょうし。あとは自分の口で、本人に聞きなさい」
それだけを言い残し、桜さんはゴミとなったスチール缶を手に持って部屋を出ていった。
残されたのは、俺と顔を赤くした小梅さんのみ。聞きたいことは色々とあるけど、まずはそれよりも。
「小梅さん、匂いフェチなんですね」
小さく呟いた瞬間、ビクゥッ! とこっちが驚くレベルで肩を震わせる匂いフェチの人。恨むんなら自分の姉を恨んでくださいよ。
「あははー何言ってるの葵くん、あたしが匂いフェチとかそんの変態じみた性癖持ってるわけないじゃん」
「俺のあげたマフラー、変なことに使ってないですよね?」
「つ、使ってるわけないじゃん! てかそれ前にも言ったよ!」
「本当に?」
「……じ、実は、マフラー貰ってから一週間くらいは、めちゃくちゃ堪能してました……」
ちょっと詰め寄ったら簡単に白状してくれた。
お、おう、一週間くらい堪能してたのね……吐かせたのは俺だけど、その真実はちょっと複雑……てか堪能って具体的にどう堪能したの。知りたいけど知りたくない。
「べ、別にいいでしょ! あたしなにも悪いことしてないし!」
「悪いなんて一言も言ってないですよ。それとも、俺のあげたマフラーでなにか悪いことした自覚でもあるんですか?」
真っ赤な顔を悔しそうに歪めているその様は非常に可愛い。ぐぬぬ、とこちらを睨んでくる小梅さんだが、口で勝ったのは初めてだったりするので思わず笑みが漏れてしまう。
記念すべき初勝利。多分今後二度と勝てることなさそうだけど。
「で? どこから聞いてたんですか?」
「……最初から」
色の戻らない顔のまま、どこか拗ねたように小梅さんは呟く。最初から、ということは。全部聞かれてたわけだ。俺が感じては疑問についても、全て。
おそらくは桜さんもグルだったんだろう。小鞠からなにか話でも聞いていたのだろうか。
「とりあえず座りましょうよ。立ってても仕方ないし」
「そだね」
ベッドの上に腰を下ろせば、そのすぐ隣に小梅さんも座る。その距離は拳一つ分もなくて、肩と肩が触れ合ってしまうほどに近い。
関係の薄い他人との距離ではなく、紛れもない恋人との距離だ。
「あたしもね、実はお姉ちゃんと一緒だったりするんだ」
先に口を開いたのは、小梅さんだった。主語のない言葉ではあるが、それがなにを指しているのかは分かる。
「一目惚れってところは違うけど、でもあたしは、葵くんのその目に惹かれたの」
「俺の目は夏目さんみたいに輝いてませんよ」
「でも、強い意志が宿ってるのは一緒」
小梅さんが、俺を見る。すぐそこにある澄んだ瞳が、俺を写している。
「初めて出会った時から、ずっとそうだった。理不尽な不幸に負けるもんか、って。そんな強い意志が君の瞳にはずっとあったの。だから最初は、そんな君を幸せにしてあげたいって思った。傲慢にもね」
「傲慢ってほどじゃないでしょ」
「ううん、傲慢だよ。あたしは人を幸せに出来るほど、出来た人間じゃないから」
聞く人が聞けば、嫉妬に狂いそうな発言だ。勉学も運動も芸術も、その全ての才能に恵まれた者が、それでも自分は誰かを幸せに出来るよつな人間ではないというのだから。
でも、この人が言っているのはそういう問題じゃないのだろう。才能なんて関係ない。『白雪小梅』というひとりの人間としての話。
「だからあたしは、駒鳥ちゃんに譲ろうと思った。あたしなんかよりも葵くんを幸せにしてくれるって、あの子といたほうが葵くんも幸せだって思ったから。それでも、我慢できなくて。気がついたら取り返しのつかないほど好きになってて。だから、一緒に幸せになりたいって思ったの」
「その言葉が直接聞けただけで、十分幸せなんですけどね」
「もっとだよ。今よりも、もっと。一緒に」
手を、握られる。応えるようにギュッと握り返す。互いになにを言わずとも顔を近づけて、やがてその距離をゼロにした。
触れ合っていたのはほんの一瞬だけ。離れていった小梅さんの顔は真っ赤に染まっている。多分、俺の顔も同じ色をしているのだろう。
「今よりも幸せになると、死んじゃうかもしれませんね」
「それは、やだな」
やがて我慢できなくなったみたいに、小梅さんは俺の顔をその胸に抱く。されるがままの俺は、小梅さんの柔らかさとか鼻腔をくすぐる匂いとかで心臓をバクバクさせながらも、ふと思いついたことを言ってみた。
「そうだ。今日は一緒に寝ますか? そしたら俺の匂い嗅ぎ放題ですよ」
ちょっと揶揄うつもりで発したセリフ。実際に一緒に寝る度胸なんて俺にはない。いや、正確には度胸がないんじゃなくて、理性を保っていられる自信がない。
だから、俺にそのつもりはなかったのだが。
ニヤリ、と頭の上で笑う気配がして、己の失態に気がついた。
「ふーん、そっかそっか。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかしら?」
「え、あの、小梅さん?」
口調が変わったことに嫌な予感がして、顔を上げる。見上げた先には、やはり小梅さんの小悪魔な笑みが。あっ、これあかんやつ。
「なに、葵くん? まさか冗談なんて言わないわよね? 君はそんな乙女の純情を弄ぶようなことはしない子だって、あたしは思っているのだけれど」
「いや、まあ……」
「だったらいいでしょう? 言い出しっぺは君なんだから」
突然纏った色香に惑わされそうになる。
いっそのこと、なにもかも考えるのを辞めて惑わされてしまえば、どれだけ楽か。しかし俺の理性は必死にブレーキをかけ続け、かけ続けた結果。
無言で頷くことにした。
「じゃあけってーい!」
「ちょっ、わぷっ」
小梅さんがベッドに寝転がったことで、抱き締められたままの俺も巻き添えに。上に乗せておくのは流石にしんどいのか、小梅さんの横に倒される。しかし抱擁が解かれないのを見る限り、どうやら俺を抱き枕にするつもりらしい。
いや、まあ、別にいいんですけどね。色々と役得だし。
「えへへ」
「……なんすか」
蕩けた笑みを真近で見てしまえば、なんだか照れ臭くなって視線を逃してしまう。
それでも、なぜだろうか。そんな心情とは裏腹に、満たされている俺がいて。この距離で、俺の隣で、小梅さんが笑ってくれていることがなによりも嬉しくて。
「ね、葵くん。もっともっと、幸せになろうね。お姉ちゃんたちが羨むくらいにさ」
「当然ですよ」
これはもう、不幸だなんて言えないな。
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