IF:未来のカタチ

『本当はもっと前に引退するつもりだったんですよ。ほら、息子が球界に入ってきたじゃないですか。その時に、俺もそろそろ潮時かな、と思いましてね』

『しかし夏目選手はその後も五年間、前線でプレーし続けましたよね。やはりそこにも、息子さんである夏目智樹選手の影響が?』

『はい。あいつはどうも、俺と投げ合うのが夢だったらしくて。父親として、子供の夢を壊すわけにはいかないな、と』

『同じプロ野球選手である前に、家族ですものね。その夏目智樹選手とはこの五年間で十七試合、同じ試合で先発登板されていましたが、やはりなにか感慨深いものがあったのでしょうか?』

『最初のうちはね。まあ、そりゃかなり感慨深かったですよ。俺の後ろばっかついてきてた小ちゃい智樹が、いつの間にかあんなに立派になって。しかも一年目で三回も完封勝利を収めてるわけですから。あいつとの対決については、ひたすらに悔しかったですね。結局勝てたの、最後の一回だけでしたから。野球はピッチャーだけでやるもんじゃないとは分かってても、俺は智樹に完全に負けましたよ』


 テレビから流れてくるのは、スポーツ番組のインタビュー。昨シーズンでついに長年の現役生活に終止符を打った夏目祐樹の、私の義理の父親のものだ。初めて出会った時よりも少し顔は老けているものの、瞳に宿る優しい光は変わらない。

 齢四十七まで現役を続けた、もはやレジェンドの一人として数えられる野球選手も、今ではただの一般人だ。智樹にとってはたった一人の父親で、義理の母親になった夏目有紗さんにとってはたった一人の旦那さん。ただそれだけの人。もうあと一年後には、また一つ肩書きが増えてるかもしれないけど。


「子供の夢を壊したくないとか、よく言うよ。僕に煽られて引退取り消しただけなのに」

「そういう側面もあった、ってことでしょ。むしろ、あなたに煽られたのが後押しになったのかもね」


 もう七年近く前のことを思い出したのか、ソファの隣でブラックコーヒーを飲みながらも呟いた私の旦那様は、勝ち誇った笑みを見せている。こういうところは親子で似ているというか。若くしてチームのエースとして活躍し、日本一に貢献した絶賛大人気中のプロ野球選手は、どうにも子供っぽい。負けず嫌いなとことか特に。

 ある程度は覚悟していたつもりだったけど、甲子園で母校を優勝まで導き一躍有名になった智樹には、どうにも若い女の子のファンが多いのだ。プロに入ってさらに知名度が増してからは余計に。野球選手と一般人の熱愛報道とか、そんなのわざわざパパラッチしなくていいのよ。もっと他に報道すべきことはあるでしょ。


「しかし、父さんも引退かぁ……」

「すごいわよね。四十七歳まで現役って、今までいなかったんじゃないの?」

「いや、たしか昔には四十九まで投げてた選手もいたはずだよ。現役生活二十五年だから、丁度高卒で入団した父さんと同じ」

「よくそこまで頑張れるわよね」

「それだけ、野球が好きってことなんだろうさ」


 そういう智樹は、果たしていつまで続けるのだろう。私は可能な限り続けて欲しいと思っているけれど、お義父さんが言っていたように野球選手だって歳には勝てない。ある一定の年齢を超えてしまえば、発揮できるパフォーマンスは年々落ちていくだけだろう。


「でも、夢は叶ったでしょう?」

「まあね」


 いつか、父親と肩を並べてプレイしたいと。学生時代の智樹は言っていた。

 敵であれば同じ試合で投げ合いたい。

 味方であるなら、ただそれだけでもいい。

 テレビでもさっき言ってたように、智樹とお義父さんはこの五年間で何度も対戦し、一番最後の引退試合を除いて全て、智樹に軍配が上がっていた。

 しかもオールスターでは親子揃って出場していたから、どちらか片方しか叶わないと思っていた智樹の夢は、その両方を叶えられたのだ。


「諦めなければ夢は叶う、なんてのは大人が宣う綺麗事だけど。そもそも、最初から諦めちゃうとその可能性すら潰れてしまう」

「今はあなたも大人じゃない」

「あんまり大人になったって実感はないんだけどね」


 結婚までしておいて、今更何を言うのか。ていうか、未成年のうちからそこらの大人よりもよほど多いお給料をもらっていたのに。お陰様でだいぶ楽な生活をさせてもらっているけど。


「ところで智樹。今年はキャンプいつから?」

「まだもう暫く先」

「また沖縄?」

「うん。そう聞かされてるけど、なんで?」

「いえ、今年は観に行けなさそうだから」


 私の言葉がイマイチ理解できていないのか、キョトンと小首を傾げている。

 テレビは既にお義父さんのインタビューも終わっていたから、テーブルの上にあったリモコンで電源を落とした。真剣な話をする時は、余計な雑音は全て消した方がいい。お義母さんらから教えてもらったことだ。


「待て、待て待て、離婚はしないぞ」

「違うわよ」

「あ、だよね。よかった……」


 心底安堵したように、ホッと一息吐く智樹。私からそんな話を切り出すなんて、あり得るわけがないのに。


「で? なにか真剣な話があるんだろう? 変なこと母さんに教えてもらってるじゃないか。たしかにテレビの雑音は真剣な話をする上で邪魔になるけど、これ、怒られる時も同じだったんだよな。軽く身構えちゃう。だから出来れば、次からはなにか別の合図を考えといてくれたら──」

「出来たのよ」

「……へ?」

「三ヶ月ですって」

「……マジで?」

「こんな冗談、言うと思う?」


 目を丸くさせた智樹は、私の言葉に答えない。ただただ驚いて、声すら出ないんだろう。産婦人科に行った時、私だって似たようなリアクションをしてしまった。

 だって、信じられないものね。私たちが親になるなんて。

 私も智樹も、とても恵まれた環境で育ってきた。家族仲は頗る良好。こうして智樹と結婚して地元から離れたところで暮らしてる今だって、白雪家とも夏目家とも頻繁に連絡を取り合っている。

 親に愛されて育ち、今もずっと愛されていたから。半ば距離が近すぎたせいで、まだまだ子供のつもりでいたから。

 だから、自分が親になるなんて言われても、いまいち実感が伴わなかった。


「そっか……そうなんだ……僕たち、親になるんだね……」

「実感湧かないわよね」

「そりゃ、そうだけど……このこと、他のみんなには?」

「お母さんと有紗さんと小梅には伝えてるわ。お父さんたちにはまだ」


 智樹の手が、私のお腹に触れる。まだ胎児にもなっていないから、なにも感じることは出来ないけど。それでも、新しい命がたしかに宿ったそこに。


「……怖いな」

「ええ」

「すごく怖い。不安なことだらけだ」

「ええ」

「こんな仕事だから、ろくに構ってやれないかもしれない。接し方を間違えるかもしれない」

「そうね」

「でも、さ。昔、君と付き合った頃かな。なんで辞めるのかって聞いたら、父さんが言ってたよ。僕と君の間に子供が出来たら分かるって。あの件は結局、君に色々と気付かされたわけだけどさ。でも、それだけじゃなくて、他にも色々あるよな。親にならないと分からないことっていうのは……」

「どうして、今から泣いてるのよ」


 ソファを濡らす雫を見て、思わず苦笑がもれてしまう。今からそんなザマでは、いざ産まれるとなった時にどうなることやら。

 きっとその時もいっぱい泣いてしまうんでしょうね。でも、あなたはプロ野球選手で、みんなのスターだから。きっと立ち会うこともできない。お母さんたちとは暫く地元に帰るつもりで話を進めているから、頑張るあなたの隣にいることもできない。隣にいてくれない。

 ただそれだけのことで、言いようのない不安が募る。いつも一緒にいて当たり前のあなたがいないと思うと、怖い。


「ごめん、君の方が不安で怖いのに……」

「いいのよ。今は泣いてなさいな。この子が産まれる頃には、あなたはあの場所に立っているんだから」


 隣にいないというのなら。せめて、そうあって欲しい。どれだけ長い月日を重ねたとして消えない、淡い想いのために。

 初めて見た時から変わらない、あの輝いた瞳を。その時になっても変わらず輝かせていて欲しいから。


「桜」

「なに?」

「すごく不安で、先のことを思うと怖いんだけど。それでも、今、めちゃくちゃ幸せを感じてるのって、おかしいかな?」

「おかしくないわ。私も同じだもの」


 時計の針は、止まることなく動き続ける。過去に戻ることは出来ないし、未来を知ることだって出来ない。だから人は、今を懸命に生きようとする。

 自分のために。大切な人のために。これから生まれてくる命のために。


「でも、もっと。これからは、もっと幸せになりましょうね」

「うん」


 色んな人から色んなカタチを教えてもらったから。恋も、愛も、家族も、幸せも。

 今度は、誰に教わるでもなく私たちが自分たちで見つけなければならない。

 私たちの、幸せのカタチを。






「お母さん! お母さん!」

「どうしたの?」

「お父さんテレビに出てる! のーひっとのーらん? だって! それって凄い?」

「ええ、とても凄いわよ。お父さんが世界一カッコいいっていうことだもの」

「そっかー! ききょうのお父さん、世界一カッコいいんだー! じゃあさ、今日はちゃんと帰ってくるよね?」

「ふふっ、勿論よ。今日は桔梗の誕生日なんだから。ケーキが焼きあがる頃には帰ってくるわ」

「ケーキ! ききょう、チョコのケーキがいい!」

「ええ。お母さんに任せなさい」

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