△8手 dear
「あやめさーん!」
午後の郵便物を受け取っていた夏歩ちゃんが、大きく手招きしている。
「はいはい、どうしたの?」
「これ、あやめさん宛てなんですけど、料金不足で。受け取り拒否しますか?」
「これは……。こんなパッツパツに詰まったものを定型料金で運んでもらおうなんて、図々しいね」
無地の茶色い封筒は、中身がはち切れんばかりに詰め込まれている。完全な重量オーバー。
「残念だけど、札束ってわけじゃなさそうだね」
手触りだけを頼りに中身を類推してみても、かなりの枚数の紙が折り畳まれていることしかわからない。
「差出人も書いてないし、怪しいから持ち帰ってもらいましょうか?」
夏歩ちゃんが言うように、封筒の裏面には何も書かれていない。会社に送られてきてはいるものの、私個人宛てのようだ。あまりきれいではない手書き文字で、私の名前が書かれている。
「うーん、一応開けてみたいし、受け取ろうかな」
不足分を支払ってビリビリとその場で開封する。
『前略。今井あやめ様』
白地にラインが入っただけの便せんに、下手くそな手書き文字。異様な厚みのこれは、長い長い手紙らしい。パッと見たところ、やっぱり差出人がわからないので、手紙の一番最後を見た。
『湊』
全身の血の色が、一瞬で塗り替えられたような衝撃だった。
湊くんが退職したのが昨年末。あれから半年以上過ぎて、今は梅雨明け宣言を待つばかりの季節だ。だけど心臓は新鮮な痛みを持って、激しく動いている。
夏歩ちゃんの視線から隠すように、手紙を封筒に戻す。
「やっぱり私宛てだった。……友達から」
「そうなんですか?」
「うん。ごめん、ありがとう」
夏歩ちゃんはまだ納得していないようだったけど、急ぎ足で自分のデスクに戻り、一番上の引き出しに封筒を放り込ん……ぶ厚過ぎて引き出しが閉まらない。仕方がないので、立ててあるファイルの一番端に差しておく。
これは今職場で読むようなものではない。あの手書き文字は間違いなく私信で、きっととても大事なことが書かれてある。
チラチラ目につく封筒を見るたび、何度トイレに駆け込もうと思ったことか。人生でこんなに長い午後を、私は過ごしたことがない。
『前略。今井あやめ様。
手紙を書くなんて初めてなので、多分たくさん間違ってると思うのですが、今回はどうか見逃してください。』
少しズルして定時より十分早く会社を出て、家までなんて待てないから、駅の中にあるカフェに入った。飲み物を選ぶ気持ちの余裕もなくて、適当に七月の季節限定商品を頼んだら、よりにもよって「夕張メロン豆乳ラッテ」が来てしまう。口をつけることもせず、手紙の文字を追う。
『君はきっと怒ってると思う。俺が何も言わないで会社を辞めたから。本当はあの日、みんなと一緒に君もいると思っていて、その時ちゃんと伝えるつもりだった。
だけど君という人は、どういうタイミングの持ち主なんだろうね。フライングで昼ご飯買いに行ってるなんて、わかるわけないよ。
本当にちゃんと言うつもりだったんだ。それなのに、君を見たら言えなくなった。
君には怒っていて欲しいと思う。怒って元気にわめき散らしていて欲しい。俺の悪口を並べて、岩本さんから肉を奪って、日本中の日本酒を飲んでいて欲しいと思う。その方が、泣いているよりずっと君らしい。』
湊くんにとって私はどんな人間に映っているんだろう。確かに「湊くんがいないなんて、さみしくて死んじゃうよー」と言ったこともあったけれど、実際は毎日元気に過ごしていた。体調が悪くなることもなく、よく食べよく飲みよく眠れている。もちろん、自ら命を絶とうなんて思ったこともない。彼の言った通り、この調子なら世界が滅びても生きられるかもしれない。
でもそれは、ただ生命が繋がっているというだけの話だ。何をしても楽しくない。どんな音楽も映画も、何も頭に入らない。毎日が早く過ぎることだけを願う。こんなのは、湊くんが思う「私らしい私」ではない。
『君には何をどう話したらいいのかわからないので、とにかく順番に書きたいと思います。話が前後してしまったり、説明不足だったり、配慮が足りなかったりするかもしれないけど、先に謝っておきます。ごめんなさい。』
真剣に話す湊くんの声が聞こえてきそうで、自然と姿勢を正していた。
『まず、何を置いても話さなければならないのは、俺が奨励会にいたということです。奨励会、俺にとっては大きな存在だけど、世間では知られていないのかな。君も知らないものとして、簡単に説明します。
奨励会は新進棋士奨励会というのが正式名称で、将棋のプロ棋士を育てる養成機関です。いろいろ言いたいことはあるけど、ただ一言、とても厳しい、とだけ言っておきます。
現状を知っている君ならわかると思うけど、俺はプロにはなれなかった。中学一年の時入会して、三段にまでなったけど、二十六歳までの人生が全部無駄になった。
二浪どころじゃない。四年、つまり八期。俺は四段に挑戦してとうとう上がれなかった。俺がなぜ二十六歳まで就職もせずにいたのかというと、そういうことだったんだ。』
一度手紙を置いて、スマホで「奨励会」と検索した。多くは小学生から中学生の間に入会して、将棋の腕を競い合いながら、段位を上げていくところらしい。それは入会するだけでも大変なもので、「天才」や「神童」と言われる少年たちばかりが、七十~百人受験して合格者は約三割。その三割に入った者同士が、血を流す想いでプロを目指す。そこは、精神を病んで去っていく人もいるような地獄らしい。
それでもプロと呼ばれるのは四段になった者だけで、そうなれるのは年間で四人だけ。入会できた人の、さらに一割ほどだという。
6級から1級までの昇級も、初段から三段までの昇段も、いくつか規定はあるけれど、どれも勝率七割越えが必要。つまり、選ばれた者の中で、ずっと七割以上勝ち続けなければならないらしい。湊くんはその七割の壁を突破して三段にまでなったのに、どんなに強くたってアマチュアなのだ。
湊くんが辞めたのは、奨励会は二十六歳までに四段になれなければ強制的に退会させられてしまうから。というのも、三段になると勝率に関係なく、半年にリーグ戦を十八戦して、上位二名だけが四段に上がれる仕組みになっているせいだった。
病気ではなかった。遊んでいたわけでもなかった。湊くんは私と出会うまで、必死に夢を追っていたのだ。タイムリミットが近づくことを意味する誕生日を、祝うこともなく。
『器用じゃない俺は、将棋以外の何かと両立することができなかった。奨励会という特殊な世界にずっといて、まともな社会生活もしてきていない、学歴もない、そんな二十六歳ってどう思う? きっと誰だって引くと思う。
だけど奨励会を退会した俺は、世間の目さえ考える余裕はなく、ずっと実家の部屋に引きこもっていた。最初の頃は髪も切らず、髭も剃らず、風呂にもほとんど入らず、ひたすら後悔ばかりしていた。
もっと勉強していれば。もっと時間があったら。もっと早く将棋と出会っていたら。もっともっともっと才能があったら。こんなことになるなら、早めに奨励会なんて辞めていればよかった。そもそも奨励会になんて、入らなければよかった。将棋なんてやらなければよかった。生まれてこなければよかった。もう二度と、駒には触らない。
しばらくすると考えることもしたくなくなって、とにかく部屋でゲームをしたり、漫画を読んだり、時間をつぶすことばかり考えていた。死ぬまでの間、早く時間が過ぎてくれればいいと思ってた。』
『俺の人生は余生だから』
いつだったか湊くんはそう言っていた。単にやる気がない発言だと思っていたけど、紛れもない真実だったのだ。
湊くんの人生の中心は“将棋”で、それ以外はどうでもよかったのだろう。長い長い余生を、湊くんはどう思って生きていたのだろう。
『その頃、師匠が亡くなった。奨励会に入る時には、必ず誰かプロの棋士に師匠になってもらわなければならない。将棋を教えてもらうというより、身元引受人みたいな存在なんだ。
実際、師匠から将棋を教えてもらったことは、ほとんどなかった。ご自宅にお邪魔しても、ご飯をごちそうになるだけ。それでもいつも気にかけて見守ってくれて、時には厳しい言葉もくれる、とてもありがたい存在だった。
奨励会を辞めた時に挨拶はしたけど、その時にはもうだいぶ具合が悪そうだった。それなのに、一度も見舞いに行かなかった。
久しぶりの外の世界で、俺はどこにも身の置き場がなかった。ちょうど梅雨の晴れ間の穏やかな、暖かくも強い風の吹く日で、切ったばかりの髪の毛を風が抜けていく。本来なら、とても気持ちのいい日だったに違いないのに、季節も時間もよくわからなくなっていた。
師匠の遺影を前にしても、全然実感なんて湧かない。だけど当然たくさんの棋士が弔問に訪れるから、そんな状態でも話しかけられる。それがいやで、焼香だけ済ませて逃げるように元の道を引き返す俺に、たまに師匠の家や道場で見かけたことのあるおじさんが声を掛けてきた。
「湊純史朗くんだよね。
って、のんびりした声とは違って、かなり強引に連絡先を交換させられた。
それが社長。師匠と親しかった社長は、師匠の心残りを引き受けようとしてくれたんだ。何も言わなかった師匠は、今の俺をどう思っているんだろうかと、初めて考えた。そして、それを問うことは、もうできないんだとやっとわかった。
俺は流されるままに就職を決めた。師匠の心残りを、少しでも軽くできるならって。』
将棋の勉強第一の奨励会員は、アルバイトに精を出すこともできない。そんな世界から、いきなり“会社”というまったく別の世界に放り出されて、きっと湊くんなりに必死だった。私に何を言われても黙っていたけど、本当はたくさん傷ついていたのかもしれない。
『会社というより社会そのものに、俺の居場所はやっぱりなかった。会社員なんて勤まるはずがないから、すぐに辞めるかクビになるだろうって、その日をただ漫然と待っていた。
だけど、それを君は許してくれなかったよね。毎日毎日飽きもせず、俺のミスを責め立てては笑う君は、正直うるさくて仕方なかったよ。機嫌を損ねると、ホチキスの針を抜かれていたり、イスの高さを変えられていたり。小学生なの?
降ってくる火の粉を払っているうちに、いつの間にか話す人が増えて、できる仕事が増えて、会社に俺の居場所ができていた。
奨励会員って「人じゃない」って言われることがあるんだ。昔は「プロじゃなければ人じゃないんだから、笑うことすら許さない」って風潮もあったらしい。今はそこまでじゃないけど、それでも一人前の人間としては見てもらえない。人間になるには、認めてもらうには、四段になるしかない。
だけど奨励会を退会してみると、自分は一般人でもなかった。常識はないし、経験はないし、それなのに将棋に関しては鬼神のように強い。「人間じゃない」って、そこでも言われるんだ。
そんな俺に、君は関わり続けてくれた。言ったことはなかったけど、感謝してる。』
「湊純史朗」と検索したら、たくさんの情報が溢れていた。アマ竜王一回、アマ名人一回。準優勝を含めれば、もっとたくさんの記録がある。アマチュア棋界では、知らない人はいないほどの強豪らしい。
画像にはアマ竜王を獲った時のものや、小学生名人戦に出場したときのもの、そして奨励会員として記録係をしているときのものもあった。今より若い湊くんは、和服姿の対局者の隣で両手を合わせて何かしている。写真の下には『振り駒をする湊純史朗三段』とあった。タイトル戦の記録は奨励会の有段者が取ることが多いらしく、対局風景のところどころに、対局を見つめる湊くんの姿が映っていた。その真摯な姿は、私には人間にしか見えない。
『試験も何もないコネ入社の俺に、社長が唯一出した条件が「たまに将棋を教えること」。将棋なんて全然強くないくせに、やる気だってあるのかないのかわからないくせに。
触らないと決めて自分の盤駒は捨ててしまったから、社長が持ってるマグネット式の駒で、月一回社長と将棋を指した。それが会社に馴染むに従って、気づけば楽しくなっていた。社長なんかじゃなくて、もっともっと強い人と指したいって気持ちが抑えられなくなって、仕事が終わると将棋の研究とネットでの対局に明け暮れ、研究会にも通った。
アマチュアの棋戦で好成績を残すと、場合によってはプロの棋戦に参戦することができる。初めて出たプロの棋戦はとても楽しかった。見知った顔とこんな形で対局することに気恥ずかしさはあったけど、プレッシャーから解放された俺は、伸び伸びと指すことができた。気づけばプロ相手に三連勝という、自分でも信じられない成果を残した。楽しくて、楽しくて、俺は将棋を覚えた頃のように、またのめり込んでいった。
ちょうどその頃、あの飲み会の夜、君に声を掛けられた。君は酔っていたし、そうじゃなくても適当なことばかりポンポン言う人だから、きっと覚えていないと思う。だけど確かにこう言った。
『私は湊くんがいいの!』
って。誰かから選ばれたのなんて、生まれて初めてだった。
「才能」って英語だと「gift」って言うんだって。「神様からの贈り物」って意味。
俺は将棋の神様に選ばれなかった。だけど今度は俺の方から将棋を選びたい。君が俺を選んでくれたように。
そういえば、君は俺の手も好きだって言ってくれたよね。本当にたいした手じゃないんだ。平凡で無力で、諦めだけはものすごく悪い手。だけど、諦められないなら、諦めなきゃいいんだったよね。
将棋を恨んだこともあったけど、将棋が悪いわけじゃない。将棋はいつも俺に喜びと楽しさを与え、努力や忍耐の大切さを教え、この世で一番悔しい気持ちも教えてくれた。
悪かったのは将棋じゃなくて、俺の弱さだ。もっと真剣に、もっと全力で、将棋にしがみつかなければいけなかったんだ。
アマチュアがプロに対して一定以上の成績を残すと、プロ編入試験というのが受けられるんだ。それに合格すれば、フリークラスだけどプロになれる。
俺はやっぱりプロになりたい。将棋を指して生きていきたい。』
本当に説明不足な手紙だから、急いで「プロ編入試験」を検索した。細かいことはよくわからないけど、アマチュアの代表としてプロの棋戦に出て、プロと対戦を繰り返した結果、十勝以上して、且つその間の対プロの勝率が六割五分以上になると、編入試験を受ける資格が得られる。それに合格すると、フリークラスという下位のクラスながら、四段のプロになれるらしい。
『俺は、あと一勝すれば資格が得られるところまで来られた。一日が二十四時間しかない以上、将棋の研究をするにも練習を積むにも、どうしても時間が足りない。だけどこのチャンスは絶対に逃したくない。だから俺は会社を辞めた。社長と君が与えてくれた場所だけど、とても居心地のいい場所だったけど、ごめん。それでも俺はもう一度、将棋を選びます。
書ききれないほどたくさんのことを、どうもありがとう。
湊』
「あの反応の悪い湊くんが?」というほどに、饒舌な手紙だった。でも、うまく行の中におさまらず、文字が小さくなってしまったり、間違えた文字が黒く塗りつぶされて、矢印で「まちがえた」とわざわざ書いてあったり、手紙そのものは実に湊くんらしい。何よりところどころインクがかすれていて、この手紙が左手で書かれたものだとわかる。
湊くんに感じる謎のすべては“将棋”だった。
おかしなところをつなぎ合わせると、きれいに駒の形になるくらい、すべての辻褄が合ったから、驚くよりも納得した。
気持ちのこもった長い長い手紙。これを書くのには、かなりの時間がかかっただろう。けれど、こんなに言葉が尽くしてあっても、私が知りたいことだけは書かれていなかった。私に対する湊くんの気持ちが、私の告白に対する本当の答えが、きれいに避けてあるように思える。
『将棋を選びます』
それはつまり
『君を選ばない』
そう言っている。
明らかな拒絶は、だけど将棋と私を同じくらい大事なものとして、天秤にかけたゆえではないかと思う。
「将棋くらい何だっていうのよ」
鬱屈した気持ちからうっかり口にしたのは、きらいなはずの夕張メロン豆乳ラッテ。だけど今日は何口飲んでも味がしなくて、とうとう最後まで飲み切れた。
将棋のプロっていうのが、どのくらいすごいのかわからない。アマチュア棋戦で勝つことが、どのくらい大変なのかもわからない。それでもたった一言「好きだ」って言ってくれたら、将棋だろうが暗黒舞踏だろうが、何だって受け入れるのに。こんなに中途半端な告白は、居酒屋の安いサイコロステーキよりも胃にもたれる。
「さようなら」も「好きだ」も書かれていない湊くんの手紙は、それを送ってきたという事実こそが、私へのラブレターだから。
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