△6手 farewell
毒でも盛られているのかと疑いながら、岩本さんがハーブチキンにかぶりついている。その様子を横目で一瞥して、私は店長オススメのイタリアンワインをみんなのグラスに注ぎ足し、空いたボトルとお皿をテーブルの端にまとめた。新しいグラスをお持ち致します、という店員さんの申し出は、洗い物が増えるので結構です。我が社は環境意識が高いので、と断った。ワインの種類が変わっても、それを指摘する繊細な人なんていない。この課でうんちくや文句を言おうものなら、その口にハーブチキンの骨を突っ込んでやる。
「あの、今井さん、食べていいんだよね?」
ローズマリーを口元につけた岩本さんは、いつものように私が邪魔しないから不安なようだ。
「今日は岩本さんに構ってる暇はありません」
私の言葉に返事をすることなく、岩本さんは通りかかった店員さんに「黒毛和牛ジューシーステーキ二皿!」と、厨房まで届く声で注文している。本来は私がするべきなのだけど、そこまで面倒みてあげる余裕はない。今日は湊くんの送別会で、私は幹事を仰せつかったのだから。
信仰心なんて「位牌は踏まない」程度にしか持っていない私だけど、むしろこんなとき、神様はいるのではないかと思う。十日ほど前の朝礼のあと、薔薇が雨に打たれるようにさびしげな顔で、課長が言った。
「湊さんが、今度事業所の方に異動することになりました」
うちの会社はそれほど異動が頻繁ではない。退職者や都合によって一部が入れ替わることはあるけれど、事務課もほとんど変わらないメンバーで、着古したパジャマのように馴染んでいた。
「以前この課にいた竹林美里さんが、妊娠されたそうです。それはとてもおめでたいことですが、体調が優れないようで、早めに産休・育休に入られることになり、その人員補充を湊さんにお願いしました。湊さん、一言どうぞ」
のそのそとイケメン課長の隣に立つ湊くんは、主役なのに見劣りしている。
「約一年という短い時間ではありましたが、お世話になりました。竹林さんと岩本さんに恩返しするつもりで、精一杯頑張ります。ありがとうございました」
「み・な・と・くーん、よろしく頼みます~~~」
岩本さんが目をうるうるさせながら、ぎゅっと湊くんの手を両手で握る。湊くんは一歩下がって離れようとしたけれど、一層引き寄せられ、厚い包容(誤字じゃないですよ!)がそれを許さない。
「急に産休に入ることになって、美里はとっても気にしてるんだ。湊くんが入ってくれるって聞いてホッとしてた。ありがとう!」
「俺は……普通に…… 仕事する……だけですから」
美里さんも事業所の方で、同じような総務の仕事に就いていた。だから、人員補充もうちの課からした方が、業務も順調に進むだろう。だけどそれが湊くんなんて、神様の意地悪としか思えない。
「湊さんの後って、誰が異動してくるんですか~?」
夏歩ちゃんは、手が埋まるほど強く岩本さんの肉々しい背中を押しやって、期待の目を課長に向ける。
「中途半端な時期だし補充はないよ。元々湊さんは、純粋に増えた人員だったから」
「余ってた人を出すだけってことですかぁ」
「落ち込むのは自由だけど、言い方は考えてね」
神様はやっぱりいるのだ。悪いことをしたらちゃんとバチが当たる。拓真から借りてた漫画を岩本さんにあげちゃったり、会社の備品のセロテープをもらっちゃったり、思い当たることは山ほどある。だけど、これまでの行いを悔い改めて、毎日真面目に出勤しても、もう湊くんには会えないのだ。
「あやめさん、手伝いましょうか~?」
料理の減り具合を見ながら追加して、お皿を置くスペースを作って、お酒の注文を取って、隣の席の女子会に首を突っ込んでいる先輩のお尻を蹴飛ばして……。新入社員の頃以上に、私は猛烈に働いていた。手伝いを申し出てくれた夏歩ちゃんにもメニューを差し出して、彼女の希望に従って南イタリア産のワインを注文する。チョコレートフレーバーという文句に惹かれたようだ。
先日の湊くんの異動発表の後、課長は送別会の幹事に私を指名した。
「同期だし仲いいから。頼んだよ」
『仲いい』の部分はともかく、『同期』であることは確かだし、むしろ仕事を与えてもらってよかったと思う。
会場として評判のいいイタリアンレストランを予約したのだけど、お酒がワイン中心なのは誤算だった。ワインは得意じゃない。しかもオシャレな雰囲気なんて、十二単並みに似合わない事務課。お隣の女子会メンバーにこっそり謝罪しておく。
「こっちは大丈夫。あ、じゃあ岩本さんの相手して」
「わかりました~」
元気に返事をした夏歩ちゃんは、的確に私の意図を汲んで動き出した。届いた黒毛和牛ジューシーステーキがテーブルに着くか着かないかで、鉄板ごと夏歩ちゃんが取り上げる。
「あ、俺の!」
「はい、岩本さん! どうぞ~」
岩本さんがステーキを迎え入れるために、せっせと空けたスペースには、パプリカ、トマト、キュウリ、カリフラワー、ラディッシュなど色鮮やかな特製バーニャカウダ(パーティーサイズ)がそのままドカッと置かれた。美里さんから、なるべく野菜を食べさせて、という厳命を受けているのは、夏歩ちゃんも承知している。岩本さんは、どれも好きじゃないのに~、と迷った末、しぶしぶカリフラワーを口に詰める。
私はビールをこぼした人に布巾を投げつけながら、グラスのワインを一気飲み。チョコレートフレーバーなんて感じる余裕もない。というか、何飲んだってワイン味としかわからない。
「あやめさん、こっちは大丈夫ですから、湊さんのところに行ってきていいですよ」
返事をしたくなかったので、黒毛和牛ジューシーステーキで自分の口を塞いだ。高いくせに小さめのステーキはやわらかくとろけて、残念ながらすぐに飲み込めてしまう。
「あ、これおいしい! でもさすがに脂が胃にたまるね」
「そうですねぇ。ひと切れくらいは岩本さんにあげましょうか。岩本さん、どうぞ~」
「黒毛和牛~~~!」
「残りは……はい、課長、どうぞ~」
ひと切れ分けてもらったステーキを、岩本さんは涙とともに噛みしめている。
お酒も料理もある程度行き渡り、忙しくしたくても暇になってしまう。
「誰かボトルでも割ってくれないかな」
何かしていないと、どんどん気持ちが落ち込みそうだった。そんな気分で飲むワインはいつも以上に渋くて、自然と眉間の皺が深くなった。注ぎ足そうとする夏歩ちゃんを断って、ビールを注文する。
「あ、このワイン渋いですね。岩本さんと課長に飲ませちゃいましょうか」
夏歩ちゃんが課長や岩本さんにお酌する向こうには、普段より笑顔が多めの湊くんの姿が見える。先輩たちにお酌をしながら談笑する姿は、一年前とは見違えるほどにごく普通の会社員だ。
「今井さん、寂しい?」
ワイングラスを片手に首をかしげる課長は、そのままポスターにでもできそうなほどまばゆいお姿だった。裏面印刷しなければ。
「そう見えます?」
「痛々しいほどにね」
渋いはずのワインは、流れるように課長の喉を通っていった。
「なんで湊くんなんですか? 美里さんの代わりなら、岩本さんが異動すればいいのに」
「本人の希望だからね」
課長の言葉に、息が止まるほどショックを受けた。振られはしたものの、湊くんがいる生活はやっぱりとても楽しくて、私はずっとそばにいたいと思っていたから。課長のグラスが空になっていることにも気づけず、課長は手酌で残りのワインを全部注いだ。
「課長、それって個人情報じゃ……」
「相手が今井さんなら、湊さんは許すでしょ」
ジロッとひと睨みで、何でも許してくれた湊くんの姿が、ありありと思い出される。きっと今回だって、フンッと目を逸らすくらいで済ませてくれると思う。だけど、
「もしかして、湊くんは私のことがいやだったんでしょうか? イジメが辛いって感じてたんでしょうか?」
「ははは! それはないよ。湊さん、いやならハッキリそう言う人でしょ」
入社したての頃、朝礼のとき持ち回りでやっている一分スピーチを当てられて、「いやです」と言い切った姿を思い出した。課長の思い込みだとしても、否定してもらえてホッとした。
ビールはいつの間にかなくなっていて、手近にあった白ワインを手にすると、ありがたくも課長が注いでくれた。ジョッキに半分ほど注がれた白ワインを、ビールと同じ要領で飲む。
「『残業も休日出勤もなくて、平日もときどき休める方法はありませんか?』って言われた」
「なんですか? そのやる気0%宣言」
「時間が欲しいんだって。無理なら辞めるとまで言われたよ」
「時間って?」
「それは聞いてない。でも事業所の方なら本社より忙しくないし、正社員じゃなくて契約社員だったら、希望に近い条件になるよって教えた」
課長も本当に知らないらしく、私と同じようにその理由に思いを馳せている。そのどこかしんみりした空気を切り裂くように、山盛りのパスタが降ってきた。
「はーい、岩本さん、課長。この店の一番人気メニューでーす!」
やってきた四種のチーズの生パスタを、夏歩ちゃんは大盛りにして岩本さんと課長に分配したようだ。以前「私ゴルゴンゾーラチーズ苦手なので」と言っていたから、処理を任せたに違いない。こだわりのない私は、手近にあったミートソースをすすりつつ、片手間に課長のグラスに白ワインを注ぎ足す。
「今井さんは、なんで湊さんと付き合ってないの?」
相変わらず優雅に飲む課長のワインが、なぜかロゼっぽい色合いになってしまったことは、あえて指摘しない。証拠隠滅のため、本物のロゼを追加注文しておく。
「課長は、なんで私が湊くんを好きって知ってるんですか?」
「あれだけ懐いてて、別の人と付き合ってたことの方が異常だよ。課のメンバー全員『いつ付き合うんだろう?』って言ってたんだから」
「あ、そうでしたか」
これ以上余計なことを突っ込まれたくないので、話す暇を与えないペースで課長にお酌をした。
「課長には言うまでもないことですけど、男女の間はいろいろありますよねぇ」
「そうだね。難しいよ」
トロンとした声は切なげで、私まで胸が締め付けられた。涙が出る前にワインで体内に押し戻す。
「でも、好きだって気持ちは、どうしようもないじゃないですか」
見渡す限りのボトルは空になっていたので、岩本さんが注文していたビールを、本人がトイレに立っているのをいいことに、課長のワイングラスに注ぐ。ビールが減った分は、ワインクーラーの中の氷をぶち込んで誤魔化しておいた。
「場合によっては、抑えないといけないときもあるよ」
課長は何色なのかわからない液体も、一気に喉に流し込む。新しいワインを運んで来た店員さんに、岩本さんが
「イタリアではビールに氷を入れるんですねぇ!」
と感心した様子で話しかけていたれど、素知らぬ顔で課長にワインを勧めた。
「課長もそんな恋愛することあるんですか?」
「そうだね」
「辛いですね」
「辛いよ。もう我慢も限界で」
「我慢なんて必要ないですよ! 言っちゃえ、言っちゃえ。課長にストレスは厳禁です! (ハゲるから)トイレ行ってきまーーす」
トイレから戻り、ラストオーダーをまとめ終えて、私はようやく溶けかけたゆずれもんシャーベットを掻き込んだ。スプーンじゃ埒があかないから、器に口をつけてシャーベットを流し込む。
「はあ!?」
夏歩ちゃんの大きな声が聞こえて、器をくわえたままでそちらを見ると、彼女の腕を課長ががっしり掴んでいた。
「いつも思ってた。斉藤さんは細やかな気遣いができる子だなって。今日だって、さりげなく俺や岩本さんに料理やお酒を渡してくれる。こんなにできた人は、今時なかなかいないよ」
バケツをひっくり返したような色気をたれ流している課長の目は、かつて見たこともないほどに酔っていた。瞬時に、飲ませ過ぎたことを悟る。
「私……そういうつもりじゃ……」
「ずっと前から好きなんだ。俺と付き合って欲しい」
「えっ! ヤです!」
上司の公開告白に対して、悩んでみせる礼儀もなく、夏歩ちゃんは斬って捨てた。
「どうして?」
「『どうして?』って、だって……」
困りすぎて潤んだ目で私に助けを求めてくる。きっとそれすら、課長にはかわいく見えているだろう。私も相変わらず器をくわえたまま、視線だけで夏歩ちゃんに謝罪した。
(無理無理無理無理! 「ハゲだから」なんて言えないよ!)
「手を離してください! セクハラです!」
「斉藤さんが付き合ってくれれば、セクハラにはならないよ」
「付き合わないです!」
「理由を教えてくれ。言うまでこの手は離さない」
「ご自分の頭に手を当てて、よーく考えてください!」
課長の熱烈な攻撃と、ギリギリでそれをしのぐ夏歩ちゃん。そしてその隙に、黒毛和牛ジューシーステーキを追加して堪能する岩本さん。寝始める人。隣の女子会に紛れ込む人。混沌と混乱。幹事は私。
「そ、そうだ! もう中締めの時間だった! 夏歩ちゃん、湊くんに花束渡す係りお願い!」
幹事の権限で課長の腕から引き離し、男性向けにシックにまとめられた花束を差し出すと、
「そんなのあやめさんの役目じゃないですか。私、その隙にトイレに行くフリして脱出しますので!」
と、そのまま湊くんの前に押し出された。
渋々見上げた湊くんは、いつもの重苦しい前髪とメガネだ。その目を見ながら話すなんてとてもできないので、俯いて考え考え絞り出す。
「えっと、一年間お疲れさまでした。入社してきた頃は本当にダメダメだったけど、今は必要とされて異動して行くなんて、なんだか感慨深いです。……湊くんがいて、私は毎日楽しかった」
言っているうちにだんだん感情が高ぶってきて、目に涙が溜まる。 ワインは人の感情に作用するのかもしれない。
表面張力でギリギリ止まっていた大粒のそれは、次の言葉を発した振動でついに落ちた。
「湊くんなんて、見た目はまあ普通だけど、地味だし。それ以外は普通じゃないし。仕事はできるけど稼ぎがいいわけでもないし。ちゃんとカットしてる割に髪の量は多いし。メガネで表情はよくわからないし。愛想も覇気もないし。連れて行ってくれたところは蕎麦屋だし。秘密主義で腹立つし」
湊くんの、赤と白のラインが入った紺色のネクタイだけを見ているのに、その視線が私に向けられていることはよくわかった。
「誰かに自慢できるような目立ったところなんて全然ないのに、湊くんの魅力には誰も気づかなければいいって思う。背が高くて姿勢だけはいいから、後ろ姿はそこそこ格好いいとか。あと手もすごくきれいで、左利きで。髪の毛はいつも天使の輪ができてて。ぼーっとしてるくせに話は聞いてて。記憶力がよくて。そういうの全部、私だけが知ってたらいいのにって思う。……今、言っちゃったけど」
危うく嗚咽が漏れそうになって、口の内側を噛んで我慢した。
「今日は湊くんの送別会だけど、でも、でも、湊くーーん! 行かないでよー! 湊くんがいないなんて、さみしくて死んじゃうよーーー!」
持ち帰りやすいように小振りに作ってもらった花束は、私の手の中でぎゅうぎゅう握られていた。それを湊くんはやさしく抜き取る。
「今井さんは絶対大丈夫。世界が滅びても生きられるよ。今までありがとう」
「『これからもよろしく』って言ってよ」
「それより涙と鼻水拭いたら?」
ポケットから紺色のハンカチを取り出して、私の鼻に当てる。
「……湊くんの匂いがする。このハンカチ返さなくていい?」
「常識的には、洗った上で新しいハンカチと一緒に返すべきだと思うけど」
「湊くんに常識を説かれたくない」
「返すべき」ものを渡してくれるなら、今はそれで十分。
私が涙と鼻水でグズグズになっている隣で、湊くんはみんなの方に向き直る。
「全然仕事もできないところから辛抱強く見守り、受け入れてくださったこと、とても感謝しています。違う場所にはなりますが、この会社に恩返しができるよう、頑張りたいと思います。今までありがとうございました」
パラパラという拍手とすすり泣きの後、課長自ら二次会なしの解散を告げた。
「湊さんは今井さんを送って行きなさい」
居酒屋やコンビニから漏れる明かりが、私の顔を照らす。泣き腫らしてしまった目をさらすのは恥ずかしいので、俯いてたらたらと駅に向かっていた。
「その顔で電車乗るの?」
数m後ろを、同じ早さで湊くんがついてきていた。顔は見えないけれど、声には笑いが含まれている。
「まさか。駅前でタクシー捕まえる。だから帰っていいよ」
湊くんが隣に並んだので、すでに見られているくせに往生際悪く顔を背けた。
「今井さん送らないと課長に怒られる」
「いいよ、別に。湊くんなんてどうせいなくなるんだから、課長だって怒れないでしょ」
本当はうれしいくせに、離れたくないくせに、拗ねる子どもと同じように気持ちとは逆のことばかり出てくる。でもきっと湊くんは、ついて来てくれると思うんだもの。
ゆっくり歩く私に歩調を合わせて、湊くんは少しだけ前を歩く。それはきっと、通行人から私を隠してくれているのだと思う。
「ねえ、課長から聞いちゃったんだけど、『時間が欲しい』って何のため?」
「いつか話すよ」
「また秘密主義! 『いつか』なんて忘れちゃう! 課共有データのパスワード並にすぐ忘れちゃうから!」
「それ、本当に覚えないよね。今井さん」
だっていつでも湊くんがいたから。定期的に変わるパスワードは、アルファベットと数字が不規則に並んでいて、ほとんどの人はセキュリティ上問題だと知りつつも、覚えるまではどこかにメモしていた。でも湊くんはいつもすぐに頭に入れてしまうから、湊くんに聞けばいいやって、私はメモすら取っていなかった。
『いつか』なんて、来ない日を指す言葉のように遠い。
景気回復の兆しは、タクシー業界にはまだ訪れていないらしい。駅前には客待ちのタクシーがずらっと並んでいて、ほとんど待たずに乗れた。暗い車内でなんとなく会話もしないまま、時折運転手さんのこぼす愚痴のような天気の話に相づちを打つ。湊くんはというと、それすらせずに窓の外を流れる景色を見ていた。何気なく置かれたその右手が、私の左手のすぐそばにある。
手を伸ばせば届く距離にいたのに、それすらなくなってしまう。そう思ったら、左手が吸い寄せられるように動いていた。跳ね返されることを覚悟で、湊くんの手に手を重ねる。その手はビクッと一瞬震えたけれど、予想に反して跳ね返されることもすり抜けられることもなく、私の手とそっと合わせるように、手のひらを返して上に向けた。握るというほど強くなく、繋ぐというほどの意志も持たない、儚い接触。そのぬくもりに、私の呼吸は止まった。
顔を見上げても相変わらず外を見たまま。外を通るバスの車内灯や車のライトが強い光を放っていて、窓ガラスにも顔は映っていない。後ろ姿だけでは、湊くんが何を考えているのかなんて、わかるはずもなかった。
「ここを右でいいのかな? そろそろこの辺ですよね? あれ? すみませーん!」
運転手さんの声にさえ、しばらく反応できないくらい、私の感覚は左手だけに集中されていた。だけどそれもほんの数十秒程度。通りを入れば、すぐそこが私のマンションだ。
着いてしまえばお金を払わないといけないので、しぶしぶ手を離してお財布を出した。けれど湊くんは「いいから降りて」と私を促す。
「どうもありがとう。お茶くらい淹れるから、上がっていって」
そう言って先にエントランスに入る。けれど、湊くんはタクシーを待たせたまま、エントランスで立ち止まった。
「簡単にそんなこと言わない方がいい。襲われるよ?」
静電気のようにピリピリした圧力を、湊くんは発していた。だけど湊くんがこのまま別れるつもりなのだとわかったら、機嫌なんて私の方がずっと悪くなった。
「湊くんになら襲われたいよ!」
ドンッと強く湊くんの胸を叩いた。運動なんて全然していなそうで、吹けば飛ぶと思っていたのに、全身で私を受け止めても揺らがない。それがまるで湊くんの心そのもののようで、一層悲しかった。
「私、諦められない! 諦められないなら、諦めなきゃいいんだもん。気が済むまで追いかけるから!」
湊くんはメガネの奥で切れ長の目を見開いた。
「今井さんって、本当に……」
「何よ」
「何も知らないくせに、適当に思いつきで言ってどうせ全部忘れるくせに、なんでそうピンポイントで……」
「だから何なの?」
このパターンはもうわかっている。どんなに聞いても湊くんに答える気はない。
湊くんは私の頭に左手を乗せて、撫でるようにしながらも押し戻して距離を取る。
「元気でね」
向けられた笑顔はいっそ晴れやかで、そこには私に対する愛情があるように見えた。振り返ることなくエントランスを出て行く背中を、まとまらない感情に翻弄されながら見送るしかできない。
どのくらいそうして立っていたのか。言葉とちぐはぐな湊くんの態度を、説明できる理由はとうとう見つからず、のろのろした動作でエレベーターのボタンを押す。部屋に入って電気をつけ、着替えようとしたところで、わずかにカーテンが開いていることに気づいた。閉めようとしたとき、タクシーのテールランプが目に入り、あわてて窓を開ける。湊くんが、ちょうどタクシーに乗り込んで行くところだった。もうとっくに帰ってしまったと思っていたのに。身を乗り出しても、見えるのは薄暗い街灯に照らし出されたタクシーの後ろ姿だけ。それもすぐに見えなくなった。それでもその余韻を感じて、秋風が身体の芯を冷やすまで、ずっと通りの向こうを眺めていた。きっと湊くんもこの風に包まれながら、私の部屋の電気がつくまで、待っていてくれたのだろう。
その気持ちだけで、ずっと湊くんを想っていける気がしていた。
end
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