▲7手 distance

 ━━━━━なーんて、こんなことくらいで私が大人しくなると思ったら大間違い。ここから続く長い続編と番外編と特別編を駆使して、湊くんを追いかけている。

 ところで、私の友人は「遠距離とは金銭的負担である」という持論を展開している。「例えすごく遠いところに住んでいても、お金があってプライベートジェットでいつでも行き来できるなら、それは遠距離ではない」のだそうだ。ということは、電車で一時間半、千五百円弱という距離は、小学生なら地の果てと同じかもしれないけれど、一応大人であり一応正社員の私にとっては、遠距離には含まれない。


「湊くーん、一緒にお昼ご飯食べよう!」


 湊くんはチラッと横目で私を確認して、すぐにパソコンに戻る。


「あれ? 全然驚かないね」

「工場の方の予定表に『情報セキュリティ研修』ってあったから、本社からはどうせ今井さんが来るだろうと思ってた」


 諦めるつもりはなくても、実際に離れてしまうと簡単には会えない。湊くんのいない毎日に、私は少しずつ着実にすり減って、まるで靴底にでもなった気分だった。イスからずり落ちそうなくらい背もたれに寄りかかり、目を90%閉じてタラタラ叩いているキーボードの上に、夏歩ちゃんが書類の束をぶちまけた。


「ジメジメジメジメ鬱陶しい! 会いに行ってしまえ!」


 本社と事業所で行き来が頻繁なわけではないが、事業所まで出向く業務がまれにある。夏歩ちゃんは自分の仕事であるそれを、私に振って寄越した。


「え? いいの?」


 もう返さないつもりで、書類をぎゅっと抱きしめる。


「私は別に湊さんに会いたいとは思ってませんから」


 そうして突然現れた私に、湊くんは一瞬固まったものの、やっぱり拒否はしなかった。


「湊くん、今日の夜は暇?」

「忙しい」

「じゃあ土日は?」

「忙しい」

「いつなら暇?」

「ずっと忙しい」

「いつまで忙しいの?」

「あと……三~四年はずっと忙しいと思う」

「迷惑なら迷惑って言えばいいのに」

「………………迷惑、ではない」

「だよね! じゃあお昼くらいは付き合ってくれる?」


 湊くんはデータの保存をしてから電源を落とし、背もたれにかけてあったジャケットに袖を通す。


「うどんでいい?」

「何でもいい!」


 諦めたような湊くんのため息は、私の足を弾ませた。


「なんでそんなに忙しいの?」


 時間が欲しいと言って事業所の契約社員になったのに、そうして作った時間は、何に消えているんだろう。

 けれど、答えたくない時の湊くんは、絶対に口を割らないのだ。おにぎりを食べて手についた海苔のかけらを、一生懸命布巾で拭っているけど、絶対無視しているだけだと思う。

 タイミングよく(悪く?)注文していた担々つけうどんが運ばれて来たので、私も追及の手を緩める。最初普通に山菜かけうどんを注文しようとしたら「ここの店ではつけうどんにした方がいい」と却下された。珍しいから担々つけうどんにしたのに「また邪道な」と不満そうな顔をされたのだけど。

 結局無視し切った湊くんは、海苔が取れないらしく、トイレに手を洗いに行った。ハンカチで手を拭きながら帰ってきたのを見て思い出す。


「そうだ! これ返す。ありがとう」


 湊くんの言う「常識」通り、洗ってアイロンをかけたハンカチに真新しいハンカチを添えて、テーブルの上を滑らせた。


「別に返さなくてよかったのに」

「洗濯したら、もう湊くんの匂いしないんだもん」


 変態発言は苦笑ひとつでかわされた。そして新しい方の袋を開けて、がっくりうなだれる。


「これ、使うの? 俺が?」

「ちゃんと確認したけど、メンズ・レディース兼用だって」


 上野駅周辺をぐるぐる回って選んだ一品は、エメラルドグリーンに白の水玉模様。もちろんその水玉はよく見ると全部パンダだ。


「ありがとう。ここぞ、という時のために大切にしまっておく」

「毎日『ここぞ!』と思ってよ!」


 やっぱり無視して、つけうどん大盛1.5倍(ごまだれ)に集中されてしまった。そんな湊くんをうっとり眺めつつ、担々つけうどんをすする。


「あれ? これ、すっごくおいしいよ! 変な担々麺よりずっと好きかも。ちょっと食べてみてよ!」


 お盆ごと湊くんに押し付けると、疑いの眼差しを落としながら赤いつけだれに白いうどんをひたす。左手で器用にスイスイ食べる姿は、右利きの私には少し違和感があって、同時にとても憧れる。


「あれ、うまい」

「ね? 全然邪道じゃないよ! 普通のつけうどんよりおいしいって」


 湊くんのつけうどんを一口食べてみたけれど、私は断然担々つけうどんが好き。悔しそうな顔を満足気に眺めて、ふと思う。


「湊くん、なんか痩せた?」


 採寸しているわけではないから確かなことは言えないけれど、人としてのラインがほっそりしたような気がする。


「最近体重計乗ってないからわからない」

「前回会った時も思ったけど、顔色もあんまりよくない気がする」


 うどんの大盛に加えておにぎりも追加しているから、食欲はあるようだ。


「家でもちゃんと食べてるの?」

「食べてるよ。オンリー碗で」


 ラー油が鼻に入った!!


「まだ持ってるの? 捨ててよ!」

「もらったものをどうしようと、俺の勝手でしょ」

「今井家の恥……」

「恥じゃない。誇れ」


 あっという間に食べ終わった湊くんは、それでも私がたらたら食べる間ずっと待っていてくれる。本当は早く帰りたいのかもしれないけど、私はいつも時間ギリギリまでかけてゆっくり食べていた。湊くんと会えるのは、この時間だけだから。


「昼休み終わったら置いて帰るよ?」

「やだやだ! 待って! すぐ食べる!」


 社会人だから、どんなに粘っても限界がある。人生ずーっと昼休みにならないものかと祈っているのに、叶う気配はない。

 研修や会議で湊くんが本社に来ることもたまにあるので、その機会を逃さず捕まえて、二~三ヶ月に一度は湊くんとお昼ご飯を食べた。

 ちなみに湊くんの出張情報は、事業所にいる同期の田淵さんから仕入れていた。


「田淵さん、いつもありがとう!」


 お礼に上野駅限定パンダサンド(黒いビスケットに白いクリームが挟まったもの。……あれ? すごく似たやつスーパーでも売ってるな)を、袖の下としてそっと差し入れた。


「いやいや、課が違うから情報遅くて申し訳ない」


 片手で謝罪しつつ田淵さんは早速オレ……違った「パンダサンド」をひと口で食べた。


「そんなことない! これからもよろしく!」


 湊くんに会える日を指折り数えて、居酒屋の日本酒を制覇したり、長編歴史マンガを読破したり、「あれ? この芳香剤、もしかして切れてる?」なんてことに気を取られていたら、ゆるゆると一年が過ぎていた。

 その間に変わったことと言えば、美里さんが無事女の子を出産したことと、そのせいで岩本さんがデレッデレで鬱陶しいこと。あとは夏歩ちゃんが折れたことだ。課長としてはすぐにでも結婚したいらしく、毎日のようにプロポーズをくり返しているようだけど、夏歩ちゃんは「今朝パンが焦げたから縁起が悪い」「今日は向かい風だったから気が乗らない」などという理由で、のらりくらりとかわしている。


「夏歩ちゃんは結婚したくないの?」


 結婚相手を探しに入社したはずなのに、夢目前で足踏みするなんて夏歩ちゃんらしくない。


「そんなこともないんですけど、やっぱり遺伝問題は深刻というか」


 キスをするのは正面だけ、と思っていた私は、夏歩ちゃんに言わせると甘いらしい。


「気持ちが高まって頭を引き寄せたりすると、指先に地肌が当たるんです。一瞬トーンダウンしますから!」


 とのことだった。確かに湊くんとキスをしたとき、サラサラの髪の毛が指を滑るのはすごく気持ちよかった、と一度きりの思い出を、スルメを噛む要領でしつこく思い出す。

 私にはわからないけれど、夏歩ちゃんに言わせると、課長のアレは着実に進行しているらしい。


「でもだいぶゆっくり進んでるから、孫の代までにはかなり有力な対抗策が開発されてるよ、きっと」


 他人事なのでいつも以上に楽観的な私の言葉に、惑わされる夏歩ちゃんではない。


「そんな楽観視できません。息子に遺伝しないとも限らないんですよ。そうしたら、そもそも孫の顔は見られないかもしれません!」

「ハゲでも愛してくれる人は現れるよ。実際夏歩ちゃんは、なんだかんだ言っても課長と付き合ってるじゃない」


 不満そうに口をとがらせながらも、その頬はピンク色だ。ハゲさえ気にしなければ、課長に愛される女の子は幸せに違いないのだ。


「あやめさんは、湊さんが将来ハゲても愛せますか?」

「今すぐまだらにハゲても愛せるね!」


 あのサラサラがなくなってしまうのはもったいないけれど、いっそハゲてくれればいいと思う。そうしたら誰も近寄らなくなって、諦めて私と付き合ってくれるかもしれないもの。岩本さんにしても課長にしても、結局外見的欠点なんて、恋の前では小さな問題なのだ。


 湊くんが転勤したときに思ったはずだった。むしろ神様はいるって。神様は座っているイスを突然カマボコに変えるような、本当に思いがけないイタズラを仕掛けてくるものなのだ。私が湊くんにした数々のイタズラなんて、お遊びにもならないくらいの。だからあんなこと、予想できるはずがない。

 昼休みには少し早いけれど、私は仕事をサボるついでに、コンビニにお昼ご飯とデザートを買いに行っていた。生チョコクレープにするべきか、スイートポテトタルトにするべきか、五分以上迷っていると、


「あやめって、まだクレープなんだな」


 背後から聞き覚えのある声がした。振り返ると、あの喫煙ルーム以来の拓真がいて、隣に並んでシュークリームに手を伸ばす。


「拓真だって、まだシュークリームじゃない」

「かなり久しぶりだよ。二週間くらい食べてない」

「私なんて半年は食べてないよ。趣味趣向って変わらないね」


 吐き気がするほどいやだった感情も、湊くんのおかげですっかり過去のことと割り切れていた。が、そう思った矢先、拓真は思いの外未練を示してきた。


「変わらないなら、もう一回付き合う? 今度はちゃんと結婚も考えるから」


 一年の間に、拓真の心境にもいろいろと変化はあったのだろう。結婚する気がなかった彼が、どういう経緯でそう思ったのかは知らないし、どうでもいい。


「付き合わない。私別に結婚焦ってないし。何より好きな人がいるからね」


 スイートポテトタルトに決めて、手に持っていたクレープを棚に戻す。間髪入れずに断ったのに、拓真はそれを予想していたようで、特別傷ついた風でもなかった。


「そうらしいな。事業所の契約社員の男を追いかけてるって聞いた」

「わー、すごい。人の噂は侮れないね。大正解」

「あやめってそんなタイプだっけ? 俺のときだってすぐ切り替えたくせに」


 イミテーションだと思っていたけど、それでも私と拓真の間には、普通以上に積み上げた時間が確かにあったのだ。私がこの人の性格を知っているように、この人も私のことをそれなりに知っていた。


「そうなんだよね。それ、私も不思議に思ってる」


 中学生でもあるまいし、一年もの間応えてもらえない相手を追いかけるなんて。夏歩ちゃんにも、「いい加減決着つければいいのに」と呆れられている。だけど私は気にしていなかった。本当に結婚は焦っていないし、もし湊くんより好きな人ができたら、あんな人はすぐに捨ててやろうと思っている。そんな人がたまたま現れていないだけだ。

 湊くんは私を拒否しない。でもこれ以上踏み込もうとすると、やんわりだけど距離を取る。もし答えを迫ったなら、きっときっぱり振られるだろう。だからまだ結論を急ぐつもりはない。


「その男、さっき社内で見かけたよ」

「え!」


 思いがけない言葉に、場所をわきまえずに大きな声が出た。


「事務課の方に歩いて行った。会いに来たのかもしれないから、早く帰れば?」


 タイミングよく携帯がメッセージの着信を知らせる。夏歩ちゃんだった。


『課に湊さんが来てます!』


 文字を見るなりドキッとしてバランスを崩し、後ろを通った人にぶつかる。


「わー! すみません! あ、痛っ!」


 相手から離れた反動で、今度は棚にぶつかってしまった。


「何やってんだよ」


 げんなりした拓真の声も耳に入らない。慌ててコンビニを出ようとして万引きを指摘され、持っていたスイートポテトタルトを拓真に押しつける。そしてまたドアにぶつかりながら飛び出した。

 走って走って、階段手前の廊下で湊くんを発見した。帰るところだったなんて危なかった。


「湊くーーーーーん!」


 逃げられると困るから、近づくまで声をかけずに飛びついた。


「うわああ! なんだ、今井さんか」


 湊くんの腰にしがみついているので、頭の頂点に声が降りた。


「湊くんが来てるって聞いて、コンビニから走って戻ってきた。私がいない隙を狙ったな!」

「今井さんがどのタイミングでコンビニに行ってるかなんて知らないよ。たまたまだって」


 無事に捕獲できたのだから、もう何でもいい。どさくさ紛れに抱きついた腕は離さずに見上げた。


「今日は何の用事?」

「ちょっと本社に用があったから、ついでに寄った」

「私に会いに?」

「……いるとは思ってた」

「そこは『会いたかった』って言ってよ。ちょうどよかった。お昼ご飯食べに行こうよ。お腹すいちゃった」


 相変わらずしがみついている私の頭に、湊くんの左手がやさしく乗った。


「あの、今井さん」

「何?」


 下から見上げる湊くんの顔は、前髪に邪魔されずによく見える。その目に、戸惑うような揺らぎが見えた。


「どうしたの?」

「あのさ」

「うん」


 何度も口を開いては閉じて、何かとても言いにくいことを言おうとしているのだと容易に想像がついた。緊張で私の表情も固くなる。そうだ、この左手はいつも私を拒む手だった。


「ごめん。今日はすぐ帰るんだ」

「えーーーーっ! ご飯買わないで帰ってきたのに!」

「本当にごめん」


 湊くんは譲らないところは絶対に譲らない。私は湊くんが許してくれる範囲内で、甘えているに過ぎないのだ。いくらしつこい私でも、そのラインは越えさせてもらえない。

 落ち込む気持ちに連動して腕の力が緩む。がっかりした表情を隠さずに湊くんを見上げると、湊くんも悲しげな顔をしていた。いつも淡々としている彼には、それ自体とても珍しいことだったのに、私はお昼ご飯のことだと思い込んでいた。


「今井さん、元気でね」


 一瞬だけ、湊くんの両腕がぎゅっと私の頭を抱えた。びっくりしているうちに、湊くんは階段を降りて行ってしまって、腕の中を味わうことさえできなかった。


「来月研修でそっちに行くから!」


 慌てて駆け寄って階段の上から叫んだけど、湊くんは何も答えず、少しだけ私を見上げて帰って行った。

 お昼なんて食べる気持ちはなくなってしまって、八つ当たりする気で全体重をイスにぶつける。そこに狭い課内を、夏歩ちゃんが全力で走ってきた。


「あやめさん、湊さんには会えました?」

「うん。そこの廊下で捕まえた。逃がしちゃったけど」

「よかったー。あやめさんいない時に挨拶に来たから、避けてるのかと思っちゃいました」

「挨拶?」


 怪訝な顔をする私を見て、夏歩ちゃんが色を失う。


「湊さん、何も言ってなかったんですか?」

「今日はもう帰るって言ってた」

「追いかけてください!早く!」


 夏歩ちゃんに腕を取られて無理矢理立たされ、入り口の方に押される。


「え? え? なんで?」

「湊さん、辞めちゃうんですよ! 人事課の帰りに、退職の挨拶に来てたんです!」


 それを聞いて、夏歩ちゃんを振り払う勢いで走った。ついさっき湊くんが降りて行ったばかりの階段を駆け降りて、お昼を食べに出る人を避けながらエントランスを出る。通りを眺めてもすでに湊くんの背中は見えなくて、とりあえず駅の方向に走った。運動不足の私の足は気持ちに関係なく動かなくなって、何もないところでつまずき靴が脱げた。一度止まると膝がガクガクして走れない。それでも急ぎ足に切り替えて、這うような気持ちで駅に向かった。呼吸が苦しくて、喉が痛くなって、心臓がバクバクして、でもそれは走ったせいだけではない。

 そんなに大きくもない駅構内で、湊くんの姿は見あたらなかった。そもそも駅には向かわなかったのかもしれない。

 思い出して携帯に連絡した。

 プルルルルル、プルルルルル、……

 どれだけ待っても出ない。何回かけても出ない。それは、きっと湊くんの意志だ。

 十二月の駅前は、しばらく前からクリスマスに向けて浮かれていて、その楽しげなメロディーが空っぽの身体を空しく通過して行った。汗は一瞬で冷えて、コートも着ていない私は寒さに震えたけれど、どうしてもその場を動けなくて、とうとう昼休みの時間内には戻れなかった。

 遅刻を謝罪してデスクに戻ると、田淵さんからメールが届いていた。


『ごめん! 最近忙しくて情報掴むの遅れたんだけど、湊くん退職してたみたい。有給消化のために昨日から休んでるらしいよ』

『本人に会ったよ。忙しいのにわざわざありがとう。今度ランチに行こうね!』


 メールは便利だ。なんの感情もなくても、それっぽい返事だけはできるから。

 社会人だから仕事はしなければいけない。慣れてもいるから、手を動かせば一応進めることはできる。夏歩ちゃんの心配そうな視線は感じていたけれど、笑顔を返してあげる余裕すらなく、黙々と仕事をこなしつづけた。

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