▲9手 countdown

 私が知らないだけで、湊くんが将棋をしていることは、社内で広まりつつあったらしい。課内に将棋好きがいないので話題になっておらず、岩本さんもつい先日知ったということだった。


「だってこの前新聞に出てたからね。なんかの大会で優勝してなかった?」

「そうらしいですね」

「俺も詳しくは知らないけど、今井さん、まさかずっと知らなかったの? 新聞は?」

「ざっと読んでますけど、将棋の記事なんて読みませんから」

「びっくりしたけど、湊くんの話題は今井さんにはタブーかと思って」

「変な遠慮しないでくださいよ!」


 たまにタイトル戦の記事が目に入ることがあっても、目に入っただけで読んではいない。アマチュア棋戦なんて尚更読まない。


「うちの会社、部活は盛んじゃないからね。だけど、配送センターの時任さんなんか将棋ファンだから、詳しいと思うよ」

「配送センターとあまり接触ないですもん」


 アマチュア棋戦は土日に行われることも多いけど、平日に食い込むことも多々ある。さらにプロの棋戦はほとんどが平日だ。湊くんが契約社員になってまで休みを欲した理由も、そのためだったのだ。


「湊くん、今何してるんだろうねぇ」


 湊くんがアマチュア強豪だと知っていた岩本さんでさえ、プロを志望しているなんて思っていない。それが当たり前だ。プロ棋士という職業があることは知っていても、一般的に将棋とは趣味の域を出るものではないから。


「本当に、何してるんでしょうね」



 盛夏の太陽の下にある将棋会館は、無知な私を跳ね返すがごとくそびえ立っていた。ネットの写真で見たときは、とても目立つ建物だと思ったのに、奥まった閑静な住宅街の細い通り沿いにあって、立地は存外控え目だ。千駄ヶ谷駅から大きな通りを歩いてきた私は、何度も近くをぐるぐる回って、携帯で地図を確認しても迷って、ようやくたどり着いた。暑さに加えた疲労によって、気分はすでに熱中症。けれど、いざ目の前にすると、独特の赤レンガは威圧的に迫って見える。

 奨励会の対局もここで行われる。アマチュアの大会はホテルの会場で行われることが多いみたいだけど、プロとの対局のほとんどはここでするらしい。

 ここは湊くんが何度も何度も足を運んだはずの場所。そして、今なお目指している聖地。

 湊くんが退職してから、私は湊くんを探した。でも、携帯の番号は変更され、会社でどうにか聞き出した住所もすでに引っ越したあとだった。新しい住所は誰も知らなかった。手がかりなんて何もなくて、湊くんと繋がる唯一の場所が、この将棋会館だったのだ。

 そんな湊くんが、今日ここに偶然現れるはずもないのに、熱中症の危険に背中を押される形で、とりあえず一階にある売店に入ってみた。

 プロ棋士が書いた扇子やら、書籍やらを見るともなく見ながら、三周グルグル無意味に回っていると、


「ちょっとすみません」


 と、男の人が大量の雑誌を抱えてきた。発売されたばかりの将棋のテキストだった。ドサッとひと山置いて、置き切れなかった分をバックヤードに持ち帰る。その背中から雑誌に視線を戻して、表紙に釘付けになった。


『講座 折笠おりかさ則人のりとの中盤で粘る!』


 メガネをかけた生真面目そうな男の人が、笑顔で大きな駒を持っていた。その人に見覚えがある。デフォルメされているけれど、それでもよく特徴を捉えている。理知的なメガネの若い男性。

 戻ってきて「よいしょ」と別の雑誌を置いた男の人に、つい声を掛ける。


「あの!」

「はい、なんでしょうか?」

「この人!」


 表紙の男の人は、昔湊くんとふたりで蕎麦を食べたとき、湊くんに声を掛けてきた男性だった。あの人は棋士だったのだ。


『昔の知り合い』


 湊くんの経歴を知った今なら納得できる。


「はい?」

「この人に会えませんか?」


 店員さんは絶句して、それから申し訳なさそうに、また困った子どもをたしなめるような雰囲気で、曖昧な笑顔を見せた。


「棋士とのお取り次ぎはしていないんですよ。ここにもよく出入りはしているので、偶然会える可能性はありますが」

「あ、そうですよね……」


 自分が全然興味ないから実感ないけれど、雑誌の表紙になるくらいだから、この世界では有名人のはずなのだ。そんな人に軽々しく「会わせてください」なんて言ってはいけない。


「折笠先生のファンなんですか?」


 店員さんが優しげに言う。この表紙の人は折笠さんというらしい。名前を聞いてもやっぱり知らない。


「いえ、すみません。本当はこの人に会いたいんじゃなくて、私の知り合いと連絡が取りたいだけなんです。この折笠さんなら、知ってるんじゃないかと思っただけで」

「そのお知り合いも棋士ですか?」

「いえ、アマチュアです。でも昔は奨励会にいたって」

「その人の名前を伺っても?」

「あ、はい。湊純志朗っていうんですけど」

「ああ、なんだ。湊か」


 店員さんは慣れた様子で名前を呼び捨てた。


「知ってるんですか?」

「うん。奨励会時代から親しかった」


 急にくだけた口調に、私も一気に親しみを覚える。


「会わせてください!!」


 店員さんの服にしがみつくと、「うわあああっ!」と彼がのけぞって、せっかく積んだばかりの雑誌が崩れた。


「ああああ、すみません! すみません!」


 慌てて雑誌を拾うと、「あ、大丈夫ですよ」と笑顔を返してくれた。


「湊と連絡は取れるけど、俺の一存で約束はできません。とりあえず名前を伺って、湊に意志を確認してみましょうか?」


 床に落ちた雑誌のほこりを払いながら、店員さんは元通りに積み直していく。


「湊くんはきっと『会わない』って言うと思います。電話番号も変えちゃったし」

「聞きにくいけど、痴情のもつれ?」

「言いにくいけど痴情のもつれです」

「湊が会いたくないなら、俺でも取り継げないですね」


 やっぱり申し訳なさそうな笑顔で店員さんは言う。やっと見つけたと思った手がかりは、それも湊くんの意志で切られてしまった。


「じゃあ、もうここで待ち伏せするしかないかな」


 キョロキョロ見回して長時間待機できそうな場所を探す。他に手はなさそうだし、棋戦があるときならきっと見つけられるはずだ。


「申し訳ありませんが、ストーカー行為なら警察に連絡させていただきますよ?」


 一転してピリッとした鋭い空気になって、私の目の前に立ち塞がる。さすがに危ない状況だった。私の立場は本当に犯罪スレスレ……、と考えて、それを利用することを思いついた。


「はい! よろしくお願いします! それで湊くんにそう伝えてください。『今井あやめを、ストーカー行為で警察に引き渡すぞ!』って」


 湊くんがバックヤードに飛び込んできたとき、私は前郷まえごうさん(販売部の店長さんだったようだ)に、湊くんの話をいろいろと聞いているところだった。前郷さんも奨励会に在籍していたらしく、しかも今度湊くんが編入試験を受ける際に師匠についてもらった奥沼おくぬま政重まさしげ七段のお弟子さんだそう。つまり、湊くんの兄弟子のような存在だった。


「今井さんっ!」

「湊くーん。不本意だけど久しぶりー!」


 前郷さんが出してくれたパンダサンド(いや、これはスーパーで売ってる方だな)をくわえたまま、わざとらしく満面の笑みで振り返って……口から落ちた。


「山籠もり?」


 いつもスッキリカットされていた髪はボサボサ、髭は無精ひげの域を越えつつあり、よれよれでくたくたのTシャツとパンツは、コンビニに行くにも躊躇われるようなファッションだ。どの辺りに住んでいるのか知らないけれど、オシャレなショップも多いこの辺りに、よく来られたものだと思う。


「警察沙汰だなんて言うから、準備できなかったんだよ。……何やってるの?」

「湊くんおびきだし作戦」

「前郷くんも!」

「なんか楽しそうだったから、つい」


 前郷さんはもうひとつイスを用意してくれたけれど、私は入り口に突っ立ったままの湊くんの前に立ち塞がった。


「手紙読んだよ」

「そう」

「だいたいのことはわかったと思う」

「うん」

「だけど肝心なことが全然書かれてないから、聞きにきたの」


 髭面の湊くんににじり寄る。これまでは私の聞き方がよくなかったのだ。「付き合ってください」なら「無理」。「デートしよう」なら「しない」。だけど逃げ場のないくらい核心を突いたら、きっと反応は違う。


「湊くんは私のことどう思ってるの?」

「……どう、って」

「『好き』?」


 かんたんには答えないと思ったけど、案の定噛みしめるように口を堅く結ばれてしまう。


「じゃあ『大好き』?」

「は?」

「それとも『愛してる』?」

「ちょっと、選択肢が……」

「それ以外何があるっていうのよ!」


 前郷さんの時よりずっと遠慮なく、湊くんのよれよれした胸ぐらを締め上げる……身長が全然足りないから、締め下げる、が正解。


「私のこと好きでしょう? 絶対そうだよね? わかるもん! それなのになんで? なんで付き合ってくれないの? なんでいなくなっちゃうの? なんで電話番号変えたの? ねえ、なんで?」


 ずっと「いつか話す」という言葉を信じるともなく信じていた。のんびり過ぎる関係でも構わなかった。だけど、離れて行くなら話は別。白黒はっきりさせなければ、私は前に進めない。

 湊くんは何も言わない。貝の方がパクパク反応するからマシなくらいに、何も言わない。本当に拒絶したいなら、いやって言えばいいのに。そうしたらいくら私だって、好きな人にいやって言われたらひるむし引き下がるのに。


「私のこと……『きらい』?」


 言葉にするだけで涙が出る。いざとなると怖くて、うなずけないように首を絞める力を強めた。

 湊くんはうなずかなかった。けれど、私の手を優しく引き離す。そしてやっぱり、


「ごめん」


 と絞り出すように言った。


「『ごめん』じゃわからない! 何がごめんなの? ねえ!」


 きっともう私が何を言っても、湊くんの意志は変わらない。それが手を通してよく伝わってきた。だけど私も引けなかった。


「今井さん、ちょっと落ち着いて座って」


 すっかり忘れていたけど、前郷さんが私の肩を強めに掴んで湊くんから引き離し、イスに押しつけた。


「とりあえず今井さんは俺に預けて、湊は帰って」

「やだ! 帰っちゃダメ!」


 ここで離れたらもう二度と会えなくなる。前郷さんの手をふりほどいて湊くんにしがみつくけど、男の人の強い力で再びイスに戻された。


「大丈夫だから。湊、今井さんには俺から連絡先教えるよ。だから電話があったら、ちゃんと出てあげて。悪いことにならないように俺が話すから」


 湊くんはくったりとうなずくような謝るような、中途半端に頭を下げてドアに向かった。


「あ、そうだ! 湊、これ」


 その背中に前郷さんが小さなメモを差し出す。振り返った湊くんは惰性でそれを受け取った。


「有坂の連絡先。『そろそろ俺に会いたいんじゃないですか?』って」

「でも、忙しいでしょ」

「『借りは返したい』って。遠慮しなくていいと思うよ。VS(1対1の研究会)付き合ってくれる機会は逃さない方がいい」

「古いことを。律儀すぎる」


 そう言ってクシャッと紙を丸めたけれど、それをちゃんとポケットにしまってバックヤードを出ていった。

 湊くんを帰したのは正解かもしれない。彼の姿が見えなくなって、私はようやく冷静さを取り戻した。大人しく座って、熱くなった額に手を当てる。


「すみません。取り乱しました」

「うん。見ててわかった」


 前郷さんは急須にお湯を注いで、冷めたお茶を淹れ直してくれた。出涸らしの煎茶は薄く色づいただけのお湯だったけれど、その湯気だけで、冷房で冷えた身体と落ち込んだ気持ちがぬくもった。


「今井さんの気持ちはよくわかった。もどかしくて辛いと思う。だけど俺は湊の気持ちもわかるから、待ってあげて欲しいと思う」

「いつまで?」


 前郷さんはカレンダーを見る。


「早くて……あと半年、かな」


 日付を数えるように目線が動く。


「半年……」

「今井さんは『プロ編入試験』って聞いたことある?」

「湊くんが受けるやつですよね? かんたんにネットで調べた程度しか知りませんけど。そんなに大変なことなんですか?」


 前郷さんは笑いながらうなずいて、ここまでくる方がもっと大変だけどね、と言った。プロに勝つということは確かに大変なことだけど、プロと対戦できるところまで行くことが難しいのだという。アマチュア棋戦はトーナメント戦だから、一度でも負ければ終わり。そこで優勝するかそれに準じるような成績を残さなければ、そもそもプロと対戦することすらできない。アマチュアの中には、湊くんと同じように、かつて奨励会に在籍していた人も多くいて、どんどん棋力が上がっている。強豪と呼ばれる人の中には、プロと一緒に研究会をしている人もいる。そんな彼らの中を勝ち上がり、初めてスタートラインに立てるのだ。

 湊くんは先日その難関の規定を、ものすごいスピードでクリアした。奨励会員の有段者は、退会後一年間、アマチュア棋戦に出られないという規定がある(級位者は含まれない)。湊くんは一年が経過してすぐに棋戦に復帰して、あっという間にアマチュアトップクラスに入り、プロにも次々勝っていった。それでも二年近くかかったという。

 規定をクリアしてから編入試験の申請までは一ヶ月以内。そして申請が受理されてから、試験開始までは二ヶ月。将棋の研究をするには、十分とは言えない時間なのだそう。


『あと三~四年はずっと忙しいと思う』


 あれは、それでも小さく見積もった時間だったのだ。


「すべてを捨てなければプロになれない、とは言わない。でも何かを犠牲にしなければならないことも確かなんだよ」

「私がその犠牲?」

「『犠牲にしないため』かな」

「どう違うんですか?」

「デートしてるのに頭の中は将棋のことばっかり考えてる、電話やメールをする時間すら惜しい。そういう男と付き合って、傷つかない人はいないでしょう?」


 平気だ、とは言えない。いつも自分より優先するものを抱えた人と付き合うことは、心が擦り減る。それには相応の覚悟が必要になるから。やっぱりあの左手は、私を拒むものなのだ。

 黙ってしまった私に、前郷さんはさみしそうに笑った。


「俺も奥さんをたくさん傷つけた人間だから、おすすめしない」

「じゃあ、付き合わないのは私のためだって言うんですか?」


 冗談じゃないって気持ちがこもって、口調がきつくなる。


「今井さんのためってわけじゃなくて、単に時期が悪いとしか言えないな」

「時期?」

「誰だって人生を決める一大事に、恋愛を優先できないでしょう?」


 お茶を一口飲んだ前郷さんは、おわ、これ出涸らし、と慌てて茶葉を捨てる。


「就活中は忙しい、ってことと同じですか?」

「うーん、俺就活ってしたことないから、そっちはわからないけど、単純に時間がないんだ。プロなら一日中だって将棋の研究をしていられるけど、湊は仕事もしていたからどうしたって遅れてる。今ある時間のすべてを将棋につぎこんでも足りない。今の湊には、今井さんと向き合う時間はないんだ」

「私って、そんなに足手まといでしょうか?」


 納得しない私に苛立ったように、新しく淹れてくれた煎茶がゴトッと強めに置かれた。


「じゃあ今井さん、会社を辞めた後の湊が、どんな生活してるか知ってる?」


 連絡さえ取れないのだから知るはずもなく、不満を隠さず首を振った。


「朝起きるのは多分八時とか九時くらいかな? 十時にはネットで対局してるよ。深夜までぶっ通しで十五時間以上。倒れて寝る」

「……それ以外の日は?」

「月に二回はプロ棋士の研究会に出てるし、AIを使って研究している日もある。だけど基本的には実戦重視。ネットって言っても、アマの強豪だけじゃなくて奨励会員やプロ棋士なんかもいるサイトで、一日に二十局とか三十局とか指してるんだ。寝る間も食べる時間も惜しんで限界まで」


『仕事のために恋愛を我慢しなきゃいけないような仕事なんてあるのかな?』

『そんなもん、あるわけないじゃないですか!』


 いつか夏歩ちゃんとそんなやりとりをしたけど、あるのだ、そんなことが本当に。


「今井さんはフリークラスがどんなところか知ってる?」

「十年で引退、ですか?」


 将棋の棋士は、名人を頂点としてA級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組というピラミッド状のクラスに分けられている。通常三段リーグを抜けて四段に昇段した棋士はC級2組で、トップのA級棋士は170人いる棋士のうち10人しか在籍できない。そしてそのA級の中で一年間リーグ戦をして、トップだった一人が、名人に挑戦できるシステムになっている。

 しかしフリークラスというのは、そのC級2組より下位にあって、順位戦への参戦が認められていないそうだ(順位戦以外の棋戦には参加可能)。C級2組にいる成績下位の棋士には降級点が与えられ、それを三回取るとフリークラスに落とされる。また、人によっては自ら宣言してフリークラスに転出する場合もある。ただそれは年齢的に対局が厳しくなってきたような人がほとんどで、引退までの猶予のようなもの。宣言して転出した棋士は別として、フリークラスの棋士は、十年以内にC級2組に上がれなければ引退となってしまうのだ。つまり、フリークラスというのは、棋士であって棋士の枠外にいるような存在らしい。湊くんが目指しているのは、そういう場所だ。


「そう。それに対局料も安い。具体的にはわからないけど、もし全敗した場合、年収は200万には届かないんじゃないかな。100万程度かも。それに加えて十年以内に上がれなければ無職」


 今の会社は大手ではないし、大層なお給料を貰っているわけでもない。だけどさすがに年収200万よりは多い。湊くんはそれを捨てて夢を追っていた。

 フリークラスからC級2組に上がるための規定にはいくつかある。

 ①年度の通算成績が六割以上

 ②直近三十局以上の成績が六割五分以上

 ③年間対局数が三十局程度

 ④全棋士参加棋戦で優勝もしくはタイトル戦挑戦

 これらはつまるところ、プロの棋戦で毎回二勝一敗の成績を収めれば一年でクリアできる計算らしいのだけど、トッププロならまだしも、フリークラスの棋士がそれを達成することは非常に難しいのだとか。


「湊はあなたとのことを真剣に考えたんだと思います。あなたを抱えて将棋は選べないし、巻き込むと不幸にしかねない」


 湊くんが好きだから側にいたいと思う。だけど湊くんも同じ気持ちだったから、拒絶されたらしい。


「今でも思う。もし俺が奥さんと付き合ってなかったら、プロ棋士になれていたんじゃないかって。単に俺の実力不足なんだけど、ときどきはどうしてもそう思ってしまうんだ。そういう厄介な感情を、湊とあなたの間には残して欲しくない」


 無意識に薬指の指輪に触れる前郷さんは、とても奥様を愛しているのだと思う。それでもそんな複雑な感情を抱えている。私たちの世界ではごく当たり前の「好きだから一緒にいたい」が、この人たちには通用しない。


「待っててあげられないかな?」


 懇願するような口調で言われた。


「好きになって欲しい自分がいるんだよ。湊は今、必死でそれになろうとしている。だから待ってあげて」

「今のままで十分好きなのに」

「好きな相手には格好つけたいものでしょう?」


 将棋なんてできても、格好いい、なんて思わないのに。戦う姿だって見せようとしないくせに。


「今ある生活をすべて捨てるくらい、将棋って魅力的なんですか?」


 これまでにないくらい、前郷さんは困った顔をした。


「俺たちにとってはそうかな。“魅力的”っていうだけではないけど」


 頭では理解できても感覚的にわからない。湊くんにとって大事なことが、私には大事ではないから。


「最初から言ってくれればよかったのに」

「『将棋したいから付き合えない』って言われたら納得してた?」

「しませんね」

「あはははは! 湊も大変だな」


 前郷さんは身をよじって笑った。


「『プロになりたい』なんて夢物語だからね。簡単に口にはできないよ」


 小学生、いや中学生までならば誰も笑わないけれど、三十男が夢を語るのは笑い話か軽蔑の対象。現実味を帯びた今だからみんな応援するけれど、二年前なら状況は全然違っていたはずだ。


「『チャンスに備えて準備を怠るな』って言うけど、将棋のプロになるためのチャンスなんてないんだよ。チャンスの女神を引っ捕まえて、産毛もむしる気持ちで切り開くしかない。元奨励会員だって簡単にできることじゃないんだ。それがようやく現実的に口に出せるようになった。絶対叶えてほしい」


 帰り際、今の君にはピッタリ、と半強制的に扇子を売りつけられた。パリッとした真新しい白い扇子には見事な筆致で『直進』と書かれてある。肌に張りつく暑さにはちょうどいいと思って、早速扇いでみたけれど、ぬるい空気が顔を打つだけだった。もはや酢飯を作る時ぐらいしか使わない(作らないけど)だろうそれを右手で弄びつつ、左手で教えてもらった番号に電話をかける。


『━━━━━もしもし』

「もしもし、出たね」

『前郷くんと約束したから』

「『今井さんと約束したから』って言って」


 沈黙の中にある湊くんの気配を味わいたい気持ちもあるけれど、彼には時間がないらしい。


「将棋のプロになるの?」

『わからない。頑張るけど』

「望みがうすくても、挑戦するんだね」

『できるかどうかわからないことをするのが“挑戦”なんでしょう?』


 一片の迷いもない声だった。わからないことに本気で手を伸ばしてる人は、こんなに強い声をしているのだ。そんな人を相手に私が言えることなどないのかもしれない。おざなりに「頑張って」と言うか、「さようなら」と言ってあげることが、一番いいのだろう。


「湊くん」

『ん?』

「好きだよ」


 息を呑む音が聞こえた気がした。


「湊くんが後生大事に抱えてる将棋だとか奨励会だとか、私そんなのどうでもいい。勝ったって負けたって私には関係ない」


 棋士がよく参詣するという鳩森神社前で言うにははばかられるけれど、本心だった。


「私は湊くんが将棋のプロ棋士だろうが、社長の恋人だろうが、実はカツラだろうが、湊くんが好き」

『カツラじゃないよ』


 そこだけハッキリ反論された。どうやら今のところすべて地毛らしい。


「もう邪魔したりしないから、一言だけ『待ってて』って言って」

『……そんなこと言えない』

「じゃあ、はっきり『きらいだ』って言って」

『…………』

「将棋に集中したいんでしょう? ほらほらさっさと言ってしまえ。5秒前、4、3、2、いーーーーち」

『言えない』


 心臓がヒヤリとして一瞬暑さも忘れた。だけど続く言葉ですぐに全身が熱くなる。


『棋士になれるかわからないし、『待ってて』とは言えない。他に好きな人ができたら、そっちに行っても仕方ないと思ってる。でも、これが終わったら、会いに行く』


 本当は少し時間切れだったし、要求した返事とは違ったけど、悪くないからオマケしてあげることにした。


「わかった。じゃあね」


 電話を切ると持つ手が少しだけ震えていた。膝の力が抜けて歩けなくなったので、抱えるようにしゃがみ込む。


「はあああ、よかった。『きらい』なんて言われなくて」


 境内の木々から、こだまし合うように蝉の鳴き声がする。膝も腕も汗でベタベタで、そこにこめかみを伝った汗が落ちた。

 勝手に待ってる。だから早く会いに来て。







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