△10手 his left

 日本中クリスマスムード一色で、葉を落とした木にも、枝に添うようにイルミネーションが取りつけられている。これまで一緒にクリスマスを過ごしたことはなかったけれど、「イブの予定は?」と聞いて、「俺にクリスマスはない」と返されると、「よしよし、女の影はないな」と安心したものだった。

 そんな和の要素の入る隙さえなさそうな十二月半ばに、湊くんは編入試験の第三局に臨んでいる。試験は、東京の将棋会館と関西将棋会館の二カ所で行われる。湊くんの場合、第一局と第二局が関西将棋会館、第三局から五局までが東京の将棋会館と決まった。

 試験はひと月に一回。棋士番号の大きい順、つまり直近で四段に昇段した若手の順に五人が試験官となり、持ち時間一人三時間で対局する。

 第一局 新田 秀幸(25)

 第二局 松 輝馬(21)

 第三局 浅井 健吾(18)

 第四局 佐倉 和志(24)

 第五局 西牟田 周(20)

 以上が、ど素人である私にわかったこと。将棋連盟からも正式に発表があって、小さいけれど新聞にも記事が載ったから、さすがに社内でもちょっとした騒ぎになった。


「あやめさん、知ってました?」


 将棋にも湊くんにも興味がない夏歩ちゃんは、チョコレートの包み紙を剥くついでに言った。


「一応」

「湊さん、プロ棋士になるんですか?」

「受かればそうなるね」

「それって職業なんですか?」


 少し前まで同じような認識しかなかったから笑えない。将棋のプロ棋士は職業です。対局料や賞金をもらって生計を立てています。

 ネットでどんなに調べたところで、見つかる情報には限界があって、すべてを知っているに違いない人物に、思い切って声をかけた。


「社長、おはようございます」

「はい、おはよー」


 社長は馴染んだモップとくるくる踊るように、エントランス清掃をしている。その意外に早い動きを追った。


「あの社長、湊くんのことなんですけど」

「湊くん?」


 クルリとモップを回転させ、社長が手を止める。


「社長はご存じなんですよね?」

「編入試験のことだよね?」

「私将棋に詳しくなくて。その、湊くんは合格できるんでしょうか?」


 僕も詳しくないよ、と言いながらも、社長は私のレベルに合わせて簡単に説明してくれた。どうも第三局と第五局が厄介らしい。


「第五局までもつれるとプレッシャーかかるだろうから、第四局までで決めたいな。だけど第三局の浅井四段は厳しいね」

「強いんですか?」

「三段リーグを一期抜けしてる。将来タイトルを獲るのは間違いない」

「でもまだ四段ですよね?」

「プロ入りしたばかりだから四段ってだけで、すぐに七段くらいにはなると思うよ」


 これまでプロ相手に勝ってきたのだから、湊くんはとても強いのだと思っていた。だけど考えてみると、プロになったら、プロばかり相手にして勝たなければならないのだ。

 今四段になったばかりの新人だから比較的簡単なのかと思っていたけれど、むしろ三段リーグを抜けてきたばかりで勢いがあるらしい。場合によっては、数年以内にタイトルを獲るような人が混ざっていることもあるから、棋力が落ちてきた元タイトルホルダーより、よほど厄介ということだった。

 この編入試験はネットで中継されるとともに、大盤解説会と言って、将棋会館の別室でプロ棋士による解説が行われる。パプリックビューイングのようなもので、誰でも予約なし、参加費二千円で見られるのだけど、日程が平日だし、関西だし、第一局と第二局は行けなかった。別に交通費をケチっているわけじゃなくて、例え東京でも行けなかったと思う。湊くんはここまで二連勝で、プロ入りに王手をかけているけれど、第一局目に駒を並べるとき、手が震えて駒を落としたと聞いた。そんなの見ていられない。結局ネットで「湊アマ、完勝!」「プロ入りに王手!」と結果が出るまで、何もわからずに過ごした。

 湊くんの試験の日は、一日中身体が震えている。手元がおぼつかなくて、パソコンのキーボードを打つスピードも遅いし、コーヒーはこぼしそうでハラハラする。胃が痛い。食欲もない。ゼリーなら食べられるかと思って一口含んで、吐きそうになった。


「今井さん、休んだら?」


 課長の美ボイスが耳に到達しても、脳の方が理解できない。


「へ? コーヒー買って来いってことですか?」

「いや、もう帰っていいよ。というより、将棋会館行って来なさい」


 第三局は、この対局に勝てばプロ入りが決まる。だからこそ、とても身体が保たないので、行くつもりはなかった。湊くんの試験のことはともかく、課長というのは、部下の恋愛事情まで把握してるものなのだろうか。


「今井さんと湊くんが未だ中途半端な関係でいることは、夏歩から聞いて知ってる。これ、会議室予約のトリプルブッキング! こっち、健康診断再検査の通知間違い! 仕事が増えるし、情報漏洩が怖くて頼めない。もう帰って」


 私の心の声に、デキる課長はさらりと答えた。課長ならば読心術を会得していても不思議はない。

 ミスを重ねていたことに関しては、いつもならひどく落ち込んだと思うけれど、気持ちがおかしくなっていてあまり気にならない。今の私は、上司の叱責さえ跳ね返す無敵状態らしい。


「それすら心ここにあらずで反省してないみたいだね」


 課長は、やっぱり読心術の使い手だった。


「課長、今まで心の中でたくさん『ハゲ』って言ってすみませんでした」


 対局は十時開始だけど、大盤解説会は十四時から始まる。それでも脚が重くて、将棋会館に着く頃には十五時を過ぎていた。会場である二階会議室には、予想外にたくさんの人が詰めかけていて、用意されたパイプイスは空いておらず、後ろに立って会場を眺める。大盤の駒を取ったり動かしたりしつつ、男性棋士一人と聞き手の女流棋士が解説をしていた。男性棋士の隣にはモニターがあって、そこに実際の盤面の映像が映し出されている。

 聞いてもわからない解説は聞き流して、モニター画面を凝視していると、画面の上から伸びてきた手が駒台(取った駒を置いておく小さな台)の上の歩を掴んだ。駒台は対局者の右側にある。それは左利きの棋士であっても同じらしい。その手は、左側から自分の身体を横切るようにして駒台に伸びた。あの手は、湊くんのものだ。

 ピッと伸ばした中指と人差し指が、パチッと駒を置く。王様の正面を守る金の前に、歩が打ち込まれたのだ。何もわからない私にも、湊くんが攻め込んでいるのだとわかる。駒を掴む指も、指した後の手の形も、とてもうつくしい。同時に、紙を切ったりキーボードを叩いたりしているときより自然体だった。

 滑らかにスイスイ動く手は、湊くんにとって、呼吸するのと同じくらい馴染んだ仕草なのだ。つるつるで白くて、ほんのりピンク色の手。私が知っているどんな手よりも「生きている」手。あの手は駒を持つための手だった。


「今、どうなっているんですか?」


 解説は具体的な駒の動きを示すばかりで、現状勝っているのか負けているのか全然わからない。だから、隣に座っているおじさんに聞いた。


「完全に浅井四段のペースだね」


 おじさんは大盤から目を離さず答えた。序盤からわずかにリードされ、そのまま差を広げられているという。画面の中の湊くんはいつものように無表情に見えるけれど、どこか苦しそうに背中を丸めて、右手で扇子をパチパチ開いたり閉じたりくり返す。しばらくするとそれを投げ出すように放して、一度お茶を飲み、今度は前のめりに盤を睨んで、前後にゆらゆら身体を揺らしてリズムをとっていた。

 今話しかけてもきっと聞こえない。今まで見たことがないほど圧倒的に集中している。それでも湊くんには、王様を追いつめる道筋が見えていないのだ。

 ほとんど動きはないのに、湊くんのもがいている気持ちが伝わってくる。一人三時間の持ち時間はあまりに長いと思ったけれど、こうしてみると全然足りない。しかも何時間考えても、もう打開できる手はないのかもしれない。

 部屋に充満する人の体温すら窮屈に感じてしまう。空っぽのはずの胃から何かせり上がってきそうで、慌てて会場を出た。

 部屋の外は涼しく感じ、気持ちも少し落ち着いた。だからと言って会場に戻る気にも、さっさと帰る気持ちにもなれない。

 道場は平日だからか空席もみられたが、そのうちに小学生もちらほら現れ、手つきだけは一人前に将棋を指している。その姿に、見たことないはずの幼い湊くんの姿を重ねた。この前聞いた社長の言葉が蘇る。


『奨励会に入るような子はね、幼い頃に将棋と出会って、寝ても覚めても将棋浸けの毎日を過ごすんだよ。朝起きて将棋、学校でも将棋、帰ったら道場に通って、家でも寝るまで将棋。まるで血にすり込むみたいにね。湊くんもそうだったよ』


 道場を出てまたフラフラしていると、自動販売機の前に見慣れた背中を発見した。ペットボトルのお茶を買って、戻ろうとして一度立ち止まり、それをほっぺたに当てている。そうして少しの間、じっと目を閉じていた。

 対局室に戻っていく、少し疲れた、けれど凛とした背中を見送ってわかった。湊くんはプロの世界に「入ろうとしている」のだと思っていたけれど違った。湊くんは、将棋の世界に「戻ろうとしている」のだ。

 プロ棋士の中には、運転中つい将棋のことを考えてしまって事故を起こす人がいるという。だから運転を控える棋士も多いのだそう。あの休日出勤のとき、湊くんが観ていたテレビも将棋番組だったのだ。湊くんは浪人生ではないし、会社員でもなかった。湊くんはずっとずっと棋士だった。

 その日、湊くんは負けた。あのまま差をどんどん広げられて、いいところもなく短手数で投了に追い込まれたらしい。まだ二勝一敗とリードしているのに、背中に当たる風がひやりと冷たかった。


 湊くんのことは課内で周知の事実となり、「ケツが痒いから早退します」と言っても、何も言われなくなった。

 気づけば年も改まり、いい加減新しい年にも慣れた一月下旬。湊くんは第四局に臨んでいる。

 今回もこれに勝てばプロ入り、だけどもし負ければ追い込まれてしまう。ここまで社長の予想は当たっていて、それだけに今回勝たなければ、第五局では勝てないような気がしていた。

 気持ちを強く持って臨んだ解説会は、棋士と女流棋士が初手から順番に説明してくれたけれど、こんなに真剣に聞いているのに、結局どっちが勝っているのかわからなかった。早退の挨拶をしたとき、課長は言っていたのに。


『湊さん、今回は良さそうだよ』

『課長、何で知ってるんですか?』

『……さっき、トイレで中継見たから』

『上司のくせに大暴露しましたね』

『それくらいいいでしょ』


 あれは何を根拠に「良さそう」だと思ったのだろう?

 ずっと盤面が映されていた画面が切り替わって、ようやく見られた姿は見慣れた無表情。前髪とメガネに隠されていても、落ち着いて集中できているのがわかる。その様子を見て、私もなんだかホッとした。課長が言っていたように、湊くんに勝利が迫っているように感じたから。湊くんの左手が馬を掴み、スーッと相手陣に入った。相手玉を近くに睨むそれは、あと一歩で首を落とせそうに思える。


「囲いを崩しに行きましたね。これを受け間違うと一気に詰みそうです」

「では、ここで次の一手を予想しましょうか」


 会場では次に佐倉四段が指す手を予想して、四択問題形式で出題された。回答がひと通り出揃うと、モニターに視線が集まる。そして、佐倉四段が湊くんの馬の近くに金を寄せた瞬間、空気が一変した。


「ビックリする手が出ましたね! なるほどー」

「会場では予想になかったということで、正解は『④その他』です」


 会場のボルテージは上がるけど、私の中はどんどん冷えていった。メガネにかかる前髪を払う湊くんの様子が、さっきまでと全然違うから。湊くんは顎や唇に触れつつ悩んで、すーっと馬を引き返して歩を取った。


「んーーーー? その歩を取るなら数手前に取っていればよかったと思うんですけどね」


 途端に棋士が顔を曇らせて考え込む。


「一手遅れた感じでしょうか?」

「これは緩手じゃないかな? ここは攻めを繋いでいかないといけないですよね」


“かんしゅ”という言葉の意味はわからないけど、雰囲気から湊くんがミスをしたのだとわかった。湊くんは盤を見つめながら小さく首をかしげ、額に手を当てて悩んでいる。


「完全に逆転しましたね。後手がいいです」


 先手、後手と言わず名前で言って欲しい。素人には素早く変換できない。


「すみません、後手ってどっちのことでしたっけ?」


 隣に座るおじさんにそっと声を掛けると、驚いたような顔をされた。


「佐倉四段だよ。あの盤の下から攻めてるのが先手で湊アマ、上から攻めてるのが後手の佐倉四段。▲が先手、△が後手ね。さっきまでずっと湊アマが優勢だったんだけど、一手間違ったところ」

「ありがとうございます」


 こんな基本情報も知らずに来たことを、恥ずかしいと思う余裕もなかった。だって湊くんは負けそうなのだ。悩んだままの湊くんに記録係が声を掛ける。


『湊アマ、持ち時間を使い切りました。これより一手一分以内にお願いします』


 盤から少し離れ、背筋を伸ばして眺める佐倉四段に対して、湊くんは膝に両手をついて、うなだれるように盤面を睨んでいる。


『30秒ー』


 湊くんは動かない。


『40秒ー』


 ようやく身体を起こして、それでも手は膝に置いたまま考え続けている。


『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』


 あと3秒というところで駒台の上の銀を掴んで、急いでパチッと相手陣に打った。しかし佐倉四段はその銀を無視して、一呼吸おいてゆったりと飛車を走らせる。


『30秒ー』


 湊くんは盤を見たまま、目の前に投げ出してある扇子を指先で弄んでいる。


『40秒ー』


 盤は見ているものの、さっきまでと違って深く思考に沈んでいるようには見えない。ただひたすらに苦しそうだ。


『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』


 さっきまでのうつくしい動きではなく、投げ出すような乱暴さで角を成り込ませる。けれどそれも無視されて、逆に湊くんの陣地に桂馬が成り込まれた。


「後手(佐倉四段)は、自玉の詰みはないと思ってるんでしょうね」

「ここで寄せ切れば(王を直接攻めて詰ましに行くこと)決まりそうですね」


 どんなに湊くんが攻め込んでも、その刃は届かないらしい。解説の人たちも言外に投了を匂わせるし、湊くん自身もそれをわかっている。

 それでも湊くんは投了できずにいる。静かに顔をさすり、メガネを直し、そっとため息を吐く。ため息にはたくさんの感情が含まれているように見えた。それを吐き出して尚、自分に対して向けられた強い怒りが、湊くんの内側を食い荒らしている。


『30秒ー』


 俯いていて、もう盤は見ていない。


『40秒ー』


 湊くんは動かない。


『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、8、』


 うなだれながら自玉をひとつ隣に逃がした。佐倉四段が間髪入れずに成桂で王手をかける。


『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』


 玉で成桂を取る。けれど佐倉四段は、すぐに銀で再び王手をかけてきた。


『50秒ー、1、2、3、4、5、6、』


 投了できない。悔しくて。負けたくなくて。会場全体の空気も、痛々しいものを見つめる苦しさで重くなっていた。『いっそ惨敗の方がいい』と言われるように、勝っていた将棋を一手間違えて落とした傷は深い。しかもそれは夢がすり抜けて行ったことと同じ。

 子どもがやるような将棋でなければ、玉を取られるまで指したりしない。特にプロは、うつくしい形の投了図をよしとするらしい。だから、自玉が詰んでしまったとわかったら、どこかで頭を下げなければならない。自分で負けを認めなければいけないのだ。

 もう負けは決まっているのに、湊くんは投了できず、暗い顔のまますっと横に玉をずらして逃がした。やぶれかぶれで走らせた飛車もあっさり取られ、その様子を見つめながら、湊くんはペットボトルの蓋を空けコップに注いだ。優雅なくらいゆっくりとお茶を飲む。そして、また一手横に玉を逃がした。その逃げ道を塞ぐように銀が打たれる。


『30秒ー』


 コップには注がず、直接ペットボトルをあおる。


『40秒ー』


 少し乱暴にペットボトルを置いて、自分の手を見ている。平凡だ、と言った左手を。


『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』

『負けました』


 と、言ったと思う。それはわずかに口を動かしただけで、音にはなっていなかった。けれど、盤に軽く手を触れるようにして一瞬深く頭を下げ、続いて佐倉四段もお辞儀をしたので、湊くんが投了したのだとわかった。その様子を見ていた女流棋士が、労るように遠慮がちな声で言った。


「この銀を見て、湊アマ投了となりました。では先生、投了図以下の解説をお願いします」


 胃の奥からやり場のない怒りのようなものが湧いてきた。肺が押し潰されて小さくなったように、呼吸が苦しい。本当に湊くんは負けてしまったのだろうか。これは本当に現実なのだろうか。ほんの少しでも時間を巻き戻すことはできないのだろうか。悔しくて悔しくて、静かに盤面を見つめる佐倉四段が憎らしい。今日初めて見た人で、彼のことは何も知らないのに、一瞬で大きらいになった。でも同時に、そして不謹慎かもしれないけれど、自分の無力さを受け入れて負けを認める湊くんの姿に心を打たれた。

 将棋は、人間同士の戦いは、本当に恐ろしい。そして将棋も、湊くんも、本当に格好よかった。

 悲しみや悔しさだけではない涙がこぼれて、バッグからハンカチを出そうとする間にも床に数滴落ちた。目に手を当てて押さえても、涙は滑り落ちて膝やパイプイスや床を濡らす。それを見ていた隣のおじさんが、使いかけでシワシワのポケットティッシュを渡してくれた。


「すみません。ありがとうございます」


 涙を吸い取って鼻もかむ。


「将棋って、なんかすごいですね」


 私の漠然とした言葉に、おじさんはうれしそうにうなずいた。


「中身を知ればもっと楽しいよ。棋士の性格なんかも指し手に出るから」

「じゃあ、湊くんはどんな感じですか?」

「湊アマは研究熱心で、思い切りよく勝負に出るよね。気持ちがいいから好きなんだ」


 このおじさんは湊くんの知り合いではなさそうなのに、将棋だけでファンになれるものらしい。


「私も好きです」


 二度と立ち上がれないのではないかと心配になるほど固まっていた湊くんが、気を取り直したように背を伸ばす。佐倉四段がぼそぼそと何か話しかけて、湊くんは首を振ったり腕組みして深く考えたりしながら答え、盤上の駒をパチパチ動かしている。


「あれ何してるんですか?」


 おじさんにもう一度話し掛けると、今度ははっきり驚かれた。


「あんた、感想戦も知らないでここに来たの?」

「将棋をまともに観るのは初めてです」


 おじさんは呆れながらも丁寧に説明してくれた。


「将棋の対局は終わったあと、必ず感想戦っていう反省会をするんだよ。一局を振り返って、別の手があったんじゃないかとか、こう指していたらどう指したかとか、お互いに話し合う」


 あんなにボロボロの湊くんにそれをさせるのか、と少し腹が立った。受け答えする湊くんは苦しみに耐えていて、私は胃が痛くて仕方ないのに。


「勝った方はいいかもしれないけど、負けた方は辛いじゃないですか。なんで泣きたいのを我慢してまでそんなことするんですか?」

「強くなりたいからだよ。相手としっかり振り返ることで、指した将棋への理解が深まる。何より勝負だから勝ち負けは存在するけど、それでもお互いに将棋っていう深い世界を追求する同士だから。だからどんなに辛くてもちゃんと感想戦をするのが、将棋を志す者の義務だと思うよ」


 私がトランプをやっているのと、わけが違うのだと痛感した。勝ったか負けたか、それがすべてだと思っていたけれど、終わった対局だからと捨てずに、大事に身につけて行くものらしい。


「そうなんですね。ありがとうございました」


 負けた、って泣くばかりでは強くなれない。棋士は負けた瞬間から、次に向かって進む生き物なのだ。

 だったら湊くんはいつ泣くのだろう。立ち止まって悔しさを噛みしめたいときだってあるはずなのに。怒りを吐き出したい時だってあるはずなのに。

 身体の中を渦巻くやるせない感情は収まらず、その夜私はなかなか寝付けなかった。寝返りをくり返すベッドの中で湊くんを想う。眠れない長い夜をどうやって過ごしているのだろう。この内側を焼き尽くすような悔しさや悲しみを、耐え抜く術まで身につけていると言うのだろうか。


 うちの会社の正面玄関は、住宅街を向いている。真向かいは十五階建てのマンションで、両隣は戸建て住宅。路線バスも通っているようなそこそこ広い通りにも関わらず閑静で、あまり人通りも多くない。

 だから自動ドアを抜ける前に、ガードレールに腰掛けている人が湊くんだって、すぐにわかった。日が落ちてすっかり暗くなった道で、エントランスから漏れる明かりの中にいる。

 二月の夕方は、室内にいてさえ底冷えする。湊くんもコートのポケットに手を入れて、寒さで全身を固く縮めていた。私がそこに行くってわかっているみたいに、動かず私を待っている。そんな態度は悔しいけれど、湊くんを無視できるわけがない。


「来るのは全部終わってからじゃなかったの?」


 嫌味とともに吐き出された白い息が、湊くんのコートの上で消える。


「それとも、負けたからそこで凍死するつもりなの?」

「したいくらいの気分ではある」

「やめなよ。湊くんが死んでも、悲しむのなんて私くらいだよ」

「相変わらず、今井さんは遠慮ないな」


 湊くんはふっと笑ったけど、その笑みは吐息と同じくらいに弱々しく、口角が少し上がっただけのものだった。


「だけどよかった。むしろそれを聞きに来たから」


 暗くて寒い中では髪のツヤさえ消えたように見えて、血の気の薄い顔を一層引き立てた。

 かける言葉がない。

『大丈夫だよ』

『まだ終わってないよ』

 湊くんの覚悟を知って、そんな薄っぺらい慰めは言いたくなかった。

『人生に無駄なことはない』

『これを糧に前へ』

 長い人生にとっては有効な言葉かもしれないけれど、今の試験はそういう類いのものではない。勝つことのみを求めるものだから。

 ただ観ていた私でさえ、胃の奥に冷たい塊を抱えている。通常の日常生活で表面を塗装しても、気を抜くとその塊が染み出して全感情を支配する。湊くんが受けた衝撃は、どれほどのものか想像もできない。

 駅まで一緒に行こうか、と湊くんは一歩先を歩く。私は少し前を歩く湊くんを眺めながら後をついていく。湊くんが何も言わないから、私も何も言えなかった。会社や住宅の明かりと街灯の薄暗い世界で、その輪郭はぼんやりとにじんで見える。信号待ちで立ち止まると、次々走り抜けていく車のライトが表情のない横顔を照らした。


「解説会、来てくれたでしょ?」

「何で知ってるの?」

「知らなかったけど、そうじゃないかと思って」


 湊くんは口角を上げて自嘲気味に笑う。


「格好悪いとこ見せちゃった」


 信号が青になって、湊くんが先に歩き出す。


「……格好良かったよ」

「ありがとう」


 本心で言ったのに、湊くんが信じていないのは明らかだった。本当に見惚れたし、悩んで苦しんでそれでも自分で負けを認める姿は格好良かった。悔しくて悲しい気持ちの中でさえ、この人が好きだと思った。だけど、本心からの言葉でさえ、伝わらないことがある。

 何も言えずに俯いて、横断歩道の白いラインだけを見ながら歩いたら、渡り切った先で待っていた湊くんが、そっと私の右手を握った。私を拒み続けた左手が、初めて私に伸ばされた瞬間だった。


「次の対局、来てほしい」

「応援はしないよ」

「ケチ」

「だって私は、今のままの湊くんで十分満足してるんだもん」

「無職だよ?」

「家事全部やってくれるなら養ってあげてもいい」

「給料知ってるけど、生活ギリギリじゃない?」

「だからお小遣いは月千円でいいよね」

「中学生でももっと貰ってるよ」


 行き交う電車やたくさんの店で明るい駅が見えて、その明かりが届かない位置で湊くんが足を止めた。


「次、勝てたら━━━━━」

「やだ!」


 言葉を遮って腕を引き、正面から湊くんを見上げる。

 私は湊くんと違って勝負師ではない。対局なんて曖昧なものに、人生は賭けない。


「『勝っても負けても』!」


 人生を賭けるなら、将棋ではなく湊くんに賭ける。それならどんな結果になっても負けはない。

 湊くんは何も言わず、握る手の力を強めた。

 私の右手と湊くんの左手。利き手同士を繋ぐってなんだかいいな、と思った。大事なものを預け合っているみたいで。長いこと外にいたせいか、年中冷え性の私よりも冷たい手だった。神様に選ばれなくても、平凡だとしても、私には唯一無二の大切な手。

 勝っても負けても、湊くんの左側はもうすぐ私の場所になる。






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