▲11手 pray

 将棋会館の前は、特に混雑した様子もないのに、どこかザワついていた。棋士なのか記者なのか、あるいは道場の利用者、もしかしてあの女性は湊くんのファン? ……あ、ただの通行人だった。とにかく人が出入りが激しい。

 入るどころか、通りから見える位置に掲げられた「将棋会館」という看板に怖じ気づいて、少しずつ少しずつ後ずさり、とうとう駅近くのハンバーガーショップに入ってしまった。木を基調としたやわらかな店内はとても落ち着いていて、ファストフード店のゴミゴミした印象はまるでない。セルフサービスではなく席に案内されるのだから、ファストフードではないのかもしれない。ここはお酒も出しているようなので、いっそ記憶をなくすくらいに飲んで、いつの間にか終わっていればいいのに、と思う。

 隅のソファー席に案内されてメニューを眺めたけれど、今の私の胃には写真だけで十分だった。形ばかりブレンドコーヒーを注文する。

 湊くんの対局を見ようと思って、今日は朝から休みまで取ったのに、いざとなると緊張して吐きそうだ。このままこのソファーに何時間もくっついて、終局まで居座ってしまうかもしれない。こんなところにいるなら帰っても同じなのにそれもできず、中途半端に居座っていた。


「あれ?」


 客席に案内されて入ってきたのは、私が唯一知っている棋士だった。たった一度居合わせただけなのに、向こうも私を覚えていたようで、つかつかとこちらに向かってくる。


「湊の彼女ですよね? なんでこんなところにいるんですか?」


 私のポジションを勘違いした折笠さんは、返事も待たずに「ここいいですか?」と向かい側の席を指した。こんな状況で拒否なんてできるわけもなく「どうぞ」と答える。通りすがりの人に細かい説明はしたくないので、「彼女」については訂正しなかった。店員さんも彼が座ったのを確認して戻って行く。


「なんだか入りづらくて」

「でも気になるんでしょう?」

「気になりますけど、どうせ見てもわからないし、緊張感に耐えられないし」


 解説を聞いたところで、結局のところ湊くんが勝っているのか負けているのかわからない。わかったとしても長い対局の間、あの張りつめた空気に耐えられるほど私は強くない。あの只中で人生を賭けている湊くんって、本当にどんな神経してるのだろう。

 少しして店員さんは私にコーヒー、彼にコーヒーとハンバーガーのセットを運んできた。大きなハンバーガーは白いお皿に乗せられていて、ポテトが添えられている。見ただけで胸焼けがして手元のコーヒーに視線を移す。つるりとした逆三角形のコーヒーカップはシンプルながらおしゃれなのに、これすら飲みたい気持ちにはなれない。私は手をつけずに眺めるだけだけど、彼はスマホを観ながら、大きすぎて持つのも大変なハンバーガーにかぶりついた。咀嚼する間、宙を見つめながら何かを考えて、飲み込むと同時に私の存在を思い出したらしい。


「まだどっちに流れがいっている状況でもないですよ」


 唐突だけど、この場合話題は決まっている。スマホで湊くんの対局を確認したようだ。


「そうですか」


 手持ち無沙汰で機械的に砂糖とミルクを放り込みながら、その言葉をどう受け止めたらいいのか困っていた。

『勝てそうなんですか?』

『いつになったら状況がわかるんですか?』

『どうしたら勝てるんですか?』

 無茶苦茶だとわかる質問をぶつけたかったけれど、自重する分別くらいは残っている。


「心配ですよね?」


 飲みたくもないコーヒーを無理矢理口に含む私に、折笠さんはスマホに視線を落としたまま尋ねる。


「湊くんなら勝てる、って信じられるほど、将棋に詳しくありませんから」


 本来好きな人のことなら、絶対大丈夫だよ! って信じてあげるべきなのだろう。だけど私はそんな楽観的になれない。今日負けたら、前回の敗戦以上の傷を湊くんは負うのだから。もちろん、勝とうが負けようが私の気持ちは変わらない。だからって、湊くんが傷つくのを平気で見られるほど、割り切れてなんかいない。


「詳しくたって、どうなるかなんてわからないですよ」

「そうなんですか?」

「わからないから面白いんじゃないですか」


 当然のようにカラカラと笑う折笠さんは本当に楽しそうで、胃を痛めている私を笑われているような気がした。


「他人事だと楽しめるんでしょうけど」


 嫌味を言ったつもりなのに、まったく響いた気がしない。事実、響いていなかった。


「自分のことでもそうですよ。ギャンブルが嫌いな棋士の方が少ないんじゃないかな?」

「人生かけたギャンブルでも?」

「リスクは高い方が面白いでしょう?」


 ミルクだけを落としたコーヒーをおいしそうに飲む姿は大真面目で、嘘や冗談を言っている気配は感じられない。


「じゃあ、湊くんにとって、会社でちまちま働いてた生活は不本意だったんですね」


 堂々とミスをして怒られていた湊くんも、どんどんスキルを上げて頼もしくなっていった湊くんも、共有していた時間すべて、私にとっては大切なものだ。湊くんにとって、望む場所ではなかったとしても。


「ただ一途に将棋だけを求めた方がいいのか、他の経験も積んだ方がいいのか。そこは棋士でも意見の別れるところです」

「私にはもっとわかりません」


 コーヒーシュガーの袋を小さく折り畳みながら言うと、ははっと笑って説明してくれた。


「奨励会退会もサラリーマン生活も、湊の望むものではなかったでしょうけど、今は楽しそうに将棋指してるからいいんじゃないですか。三段リーグは苦しいだけだったから」

「プロになれたら楽しめるんですか?」

「俺たち自身は楽しくなくても、見ている人が楽しめる将棋を指すのがプロですから」


 勝つことと、そのために身を削ることを求められるのがプロ。楽しむだけでは、プロにはなれないのかもしれない。

 でも、楽しいならそこにいればいいのに、どうしてわざわざ楽しくないところに向かおうとするのだろう。


「そんなにプロになりたいものですか? アマチュアでも将棋は指せるのに」

「業みたいなものでしょうか」

「業?」

「単純に強い人と指したいんです。単純にもっと強くなりたい。目指せるなら頂点を目指すのは、自然なことでしょう?」


 楽に勝てる方が楽しいんじゃないかと思うのは、私が何の能力も持っていないからかもしれない。スポーツでも何でも、トップにいる人は凡人にはとてもできないような努力をしているけれど、それは高みに指がかかっているからできるのだと思う。頂上なんて霞んで見えないような下から同じ努力はできないし、そこを目指そうという人の気持ちは理解できない。


「やっぱり、私にできることは何もないんでしょうか」

「まあ、ないですね」


 お世辞や気遣いを求めているつもりはないけれど、こうも一刀両断されると少し驚いた。


「別にあなただけじゃない。応援というものを否定する言い方になりますけど、盤の前に座ってしまえば頼れるのは自分だけです。すべてを背負いながら、同時にそのすべてを放り出して目の前の一手に集中できるか。試されているのは棋力だけじゃない」


 食べますか? と皿ごとポテトを差し出されたけど、首を振って断った。

 湊くんは湊くんの全部で戦っている。ということは、湊くんの全部を試されているのだ。

 またスマホを確認して、ぼんやりしたようにハンバーガーを噛む。そんなに考えながら食べて、味なんてわかるのかな。


「どっちを応援してるんですか?」


 湊くんと知り合いでも、プロ棋士だって仲間だろうし。ここまでの会話で、彼がどちらの味方なのか判断できない。


「湊を応援してますよ」


 私を安心させるように少しだけ微笑んだ。けれどその微笑みのまま、全く反対のことも彼は告げた。


「でもプロが勝てばいいとも思ってます。仕事の合間に指しているアマチュアに、負けて欲しくはないですね」


 ああ、奨励会を抜けてきた人の言葉だな、と思った。プロでなければ人ではない。将棋のプロになれなければ、時計屋でもバイオリニストでも総理大臣でも何でも一緒。彼らにとってアマチュアは、どんなに強くても負けた者の流れる先なのだ。湊くんの友人である気持ちと、プロとしてのプライド。矛盾するようでいて、それが自然に同居している。湊くんを応援していても、もし彼が試験官ならきっちりねじ伏せるに違いない。人間関係と対局を、まったく別物として捉える気構えがなくては、プロ棋士は務まらないんだろうな。


「さて、行きましょうか」


 いつの間にかポテトもコーヒーもすべて平らげていた折笠さんは、席を立って私を促した。スマホや財布をバッグの中にしまって肩にかける。それをぼんやり見上げるだけの私をするどく見下ろした。


「あなたは何もできないし、しなくていい。ただ存在していればいいんです。勝った時、『勝った』と言える相手として」


 それでも動かない私に、折笠さんはやさしい声色のまま言い放った。


「湊と一緒にいるなら、こんなことは今後もあると思います。いちいち逃げていられないでしょう」


 プロ棋士は、隣に立つ人間にも容赦がない。



「あれ? 折笠さん、こんなところでデートですか?」


 将棋会館に入ってすぐ、くたっとしたシャツにパンツというカジュアルなスタイルで現れた男性は、からかうような笑顔で近づいてきた。大学生にも見えるから、奨励会員なのかもしれない。


「俺の相手じゃない。湊の彼女」

「湊さんの? ……ああ、はいはい。あなたが」


 男性は何かを納得したように深くうなずいて、興味深そうに私を見る。居心地の悪さにとりあえず会釈したら、「あ、どうも」と軽く会釈を返された。


「だったら大盤解説会場ですよね。面白そうだから俺も行きます」

「なんで?」

「いいじゃないですか。『折笠六段が彼女連れで来た!』ってSNSに書かれても面倒でしょ?」


 会場は今日もたくさんの人が詰めかけていて、私たちが入った途端に視線が集まった。私はビックリして立ち止まってしまったけれど、男性二人は気にした様子もなく部屋の隅を目指して進んでいく。その姿をほとんどの人が目で追っていた。やはり、将棋の世界では有名な人らしい。


「どう思う?」


 折笠さんが大盤を見ながら唐突に話を振った。私はポカンとしてしまったのに、男性は腕組みをして当然のように返した。


「後手(湊)を持ちたいです」

「だよな」


 それぞれ別のところを見ながら(いや、二人ともどこも見ていないのかもしれない)、頭の中にある駒を動かしているのだろう。手をフラフラと空中で動かす。知らなければ、魔法でもかけているのかと思うような仕草だ。


「あの歩は」

「研究手だと思います」

「寄って、取って、取って、ばらして……」

「打って、で桂合かな」

「ふーん」


 交わされる会話は、老夫婦のやり取りのように主要な単語さえ省略されて、ほとんど以心伝心の域だった。


「湊が読んでる筋だと思うか?」

「さあ、どうでしょう」


 湊くんの人生がかかっているというのに、どこまでも楽しそうだ。

 モニター画面はずっと盤を映しているから、湊くんの様子はわからない。じっと見ていると、西牟田四段が手首のスナップを利かせて、バシッと少し乱暴に角を打つ。


「飛車取りか。引いて守るか、寄って逃げるか」


 折笠さんがつぶやいた時、解説の男性棋士からマイクを通して声がかかった。


「ここで次の一手を出題したいと思います。みなさんお気づきのように、後ろに折笠六段と有坂七段が来ていますので、せっかくだから候補手を聞いてみましょうか」


 隣の男性も奨励会員ではなくプロだったらしい。一斉に注目が集まる中、折笠さんが大きな声で言った。


「△7二飛車」


 そして、有坂さんが続ける。


「俺は飛車取りを手抜いて(放置して)、△7七桂成にしまーす」


 二人の予想に、解説者の予想と「④その他」も加えて四択で問題が出題された。会場で時折出されるこの問題にすべて正解すると、記念品がもらえるらしい。会場全体がじっとモニターを見つめる中、湊くんの左手が桂馬を掴んでクルリとひっくり返した。

 △ 7七桂成


「お、当たった」


 無邪気に喜ぶ有坂さんに、会場から拍手が送られる。しかし本人は、すでに違うことに意識を向けているようだった。


「湊さん、踏み込みが良くなりましたよね。寄せ切るつもりで大駒切っただけあります」


 有坂さんはそう言って、意味ありげに私を見た。それを受けて、折笠さんの方は不満そうだ。


「俺だったら両取りするけどな。棋士はもろもろ背負って将棋を指す職業だから、彼女や世間の期待くらいでつぶれるようなら、諦めた方がいい」


 厳しいことをサラッという彼は、事実それを背負っているのだろう。有坂さんの方はヘラヘラと笑っている。


「みんながみんな折笠さんみたいにはできないですよ。いやだな、天才は」

「王座挑戦者がよく言う」

「負けましたけどね!」


 有坂さんはタイトルに挑戦するほどのトップ棋士らしい。ピラミッドの頂点。湊くんはそのピラミッドに入ることすらできずにいるのに。

 ハンドクリームを塗ったくらいでは乾燥を防げない二月にあって、二人の手は湊くんと同じようにつるりときれいだった。これが「神様に選ばれた手」なのだろうか。私の目には、特別なものには見えないのに。

 ようやく画面に現れた湊くんは、黒いスーツ姿で白地に細い青のストライプが入ったシャツを着ていた。スーツ姿なんて毎日のように見ていたはずなのに、会社で見るよりずっと凛々しく見える。左側に置かれた脇息の位置をわずかに調整して、少し盤面を見つめてから、繊細な指が飛車を隣のマスにずらす。


「冷静ー。昔の湊さんなら熱くなって突っ込んだのに」


『昔の湊さん』ということは、湊くんの奨励会時代を知っているのだろう、と考えて、前郷さんと湊くんとのやりとりを思い出した。


「あの、有坂さんって、湊くんに『借り』があるって方ですか?」

「もしかして前郷さんですか? あの人、口軽いな」

「すみません。私が聞いてしまっただけなんです。言いづらいことなら結構です」


 口では不満そうなことを言ったのに、特にこだわった様子もなく有坂さんは話し出した。


「俺と湊さんって、三段リーグで一緒だったんです。俺が十六歳でリーグ入りしたとき、湊さんは二十三か二十四歳だったかな? 昇段争いが明確になってくる頃に湊さんと当たって、それで一分将棋になったんです。一分将棋はわかります?」


 最近見るようになって知ったのでうなずく。持ち時間がなくなると、そこからは一手一分以内に指さなければならない。それを過ぎてしまえば負け。だから棋士はギリギリのギリギリまで考えて先を読んで、最後の二~三秒で指すような将棋を終局まで続ける。


「一分将棋って持ち時間一分だからトイレにも行けないんだけど、そこは人間だからどうしようもないときってあるでしょう? 俺は我慢して我慢して、我慢できなくなって、指してから走ってトイレに行ったんです。もちろん一分で帰ってくるつもりで。だけど結果的に一分では帰って来られなかった」


 湊くんがすぐに指して、有坂さんに手番が移ったとしても、一分以内に帰ってくればギリギリ間に合う。けれど、一分以上かかってしまえば、時間切れで負けてしまう危険性もある。


「湊さん、待っててくれたんです。俺が戻るのを確認してから指しました。だから俺は間に合って対局には勝ちましたけど、あの時、俺が席を立ってすぐに、何でもいいから湊さんが指していれば、俺は間に合わなくて負けていた」


 三段リーグにおける一勝は重い。もしかしたら、プロのどの将棋よりも。一局一局が、人生を左右するものなのだ。


「恐らく、奨励会員の少なくとも半分はすぐに指します。それなのに俺を待ったんです。手を考えて時間を使ったんじゃなくて、待った。湊さんの残り時間だって多くなかったのに」

「湊くんらしいです」


 声に知らず愛しさがこもった。時間切れを狙うことは反則ではないけれど、それも作戦のうちと割り切れる人ではない。割り切れないのならやるべきではない。もしそれでプロになっても、そのことをずっと気に病む人だと思う。

 私の気持ちを感じ取ったのか、少し笑って有坂さんもうなずいた。けれどすぐに表情を引き締める。


「正攻法で勝つのは格好いいですよね。でも正攻法を貫けるのは強い者だけです。まずは結果。勝たなければ意味はありません」

「俺なら指した」


 折笠さんが断言する。有坂さんも、


「俺は時間攻めはしないけど、少なくとも待つことはしません。終盤の一分は、千金以上に価値がありますから」


 と答えた。折笠さんが苦々しく顔を歪める。


「奨励会員は幼くても大人と対等に扱われますから、かつては酒やタバコ、悪い遊びなんかに溺れて身を滅ぼす人もいました。心を病む人も多い。だけど湊がプロになれなかったのはそんなことじゃない。湊にもう少し才能があったら、そうでないならもう少し図太く生きられる神経を持っていたら、プロになれたんだ」


 湊くんが生きたいように生きるには、giftが足りなかった。例え人として賞賛されるようなことであっても、賞賛で生活はしていけない。実際、湊くんの選択は、勝ちを逃した愚かなものだと思われている。


「でも、私はそこで待っちゃう湊くんがいいです」


 湊くんは湊くんのままで夢を叶えてほしい。そうじゃなきゃ、私には意味がない。


「結果が悪かったから批判されるんでしょう? だったら、どんな形でも実力を示してプロになればいいんですよね? 大事なのは、結果なんだから」


 私の挑戦的な物言いに対して、有坂さんは笑顔を見せた。


「もちろんその通りです」


 有坂さんの声はやさしくも鋭くもあった。同じ棋士であっても勝負の世界にいる限り、ただの仲間にはなり得ないのかもしれない。

 画面の中で湊くんの手が伸びた。


「あ、そっち?」


 解説の人が驚いた声を出す。湊くんがミスをしたのかと、胸を押さえて有坂さんを見るとニヤニヤ笑っている。折笠さんも納得したようにうなずいて説明してくれた。


「桂取りです。相手の攻め筋を潰しつつ、自分の攻め駒を増やしたんです。妙手だな」

「桂馬は駒台の上が一番利いてるって言いますからね。相手にしてみれば、持たれるといやだと思いますよ」


 どうやら解説の人と意見は違ったものの、いい手だったらしい。


「あー、なるほど! 私は全然違う手を考えてました」


 解説の人が冗談っぽく笑って、会場にも笑い声が響く。


「今日の湊さん、いいですね」


 有坂さんの言葉を聞いて私はしゃがみ込む。将棋がこんなにハラハラするなんて思わなかった。


「もういや……。心臓に悪い……」


 うずくまったまま動こうとしない私の腕を折笠さんが掴み、しっかりしてください、と引っ張って立たせる。


「勝負はまだまだこれからです。フリークラスを抜けるのは編入試験より楽じゃない」


 ホッとしていた気持ちに水を差すように、折笠さんは厳しい言葉を発したけれど、裏腹に口元をゆるめる。有坂さんが笑った顔のまま私に説明してくれた。


「湊さん、優勢ですよ」

「え! そうなんですか?」


 私の目には、湊くんは攻められてばかりに見える。


「はい。湊さんの玉に詰みはありません。正確に受けて反撃したらほぼ決まりです。ただし、正確に受けたら、ですけど」


 画面の中の湊くんが、ポケットからハンカチを取り出した。それはあまりにも目立つエメラルドグリーン。小さ過ぎて確認できないけれど、あの水玉はすべてパンダのはずだ。


『ここぞ、というときのために大切にしまっておく』


 湊くんはハンカチでゆっくりと手のひらの汗をぬぐって、扇子の隣に置いた。


「コンピューターなら詰みを見つけたら間違わないけど、人間は違います。何度も何度も手順を確認して指したはずなのに、間違うことはよくあるんです。そしてその一手で形勢が逆転することもよくある。今とても大事な局面ですよ」


 第四局の湊くんがそうだった。たった一手。きっとその一手を永遠に後悔し続ける棋士もいるのだろう。湊くんはその恐ろしさをよく知っている。だから『ここぞ』のときだ。


「ほら、行った」


 有坂さんの声と同時に、湊くんが掴んだ歩をクルリと裏返して敵陣に成り込んだ。「金」という駒は相手玉を詰ますときには最強らしい。局面によっては、銀が十枚あっても詰まない玉を、金一枚で詰ますことができるほど。と金は歩だけど、金と同じ動きができる上に、取られてもさほど痛くない。『と金は金以上』という言葉もあるほどの強力な駒だ。いつの間にか迫っていた歩が、急に牙を剥いたように見える。


『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』


 西牟田四段は、ラスト三秒で湊くんの作ったと金を取った。すると、また別の歩を湊くんは成り込ませる。平凡な手で、自分が信じた一手を。


「歩だけで詰めろ(このまま相手が対策を講じなければ、詰ますことができる手)かけた」

「あはは! 湊さん格好いい」


 私はじっとモニターだけを見ていた。折笠さんと有坂さんの会話は理解できないし、もう耳に入ってこない。西牟田四段は湊くんのと金をまた取った。二人は湊くんが勝つというけれど、


「なんか湊くんの駒、どんどん取られているだけに見えます」


 湊くんの駒台の上には、金が一枚と歩が二枚しかないのに、相手の方はたくさん並んでいる。それだけ湊くんの駒が取られているのだ。さらに湊くんは、相手玉の近くに残り少ない歩を打ち込む。けれどやっぱりあっさり取られる。


「そうですね。だけどほら、西牟田くんの王様は丸裸でしょう? ただで取られたわけじゃなくて、守りの駒を引きはがしていたんですよ」


 駒台の端にそっと触れた湊くんの左手が、わずかに震えたように見えた。それでもしっかり金を掴み、背中と腕をまっすぐに伸ばす。湊くんから一番遠い位置まで伸び上がるように。

 今度こそ届く。湊くんがすべてを賭けて目指したものに。

 いつのまにか、祈るように両手を握りしめていた。だけど私が想いを届けたいのは神様ではなく、あの左手。

 打ったのは無防備な相手玉の真下。映像が盤を映したものから対局者を映すものに切り替わる。


『50秒ー、1、2、3、4、』


 西牟田四段が駒台に手を置いて、何か指すのかと思ったら、


『……負けました』


 そのままペコッと頭を下げた。湊くんは相手よりゆっくりとそして深々と頭を下げ、そのままうなだれている。膝の上に置かれた両手がぎゅうっと握られ、全身に力が込められたまま動かない。会場からは拍手が上がっていた。

 対局室にはぞろぞろと記者が入って、シャッター音が響く。


『おめでとうございます。見事プロ入りが決まりましたが、今はどんなお気持ちですか?』


 画面の中の湊くんは、やはり重苦しい前髪とメガネでいつもと変わらないように見える。だけど、固く結ばれていた口を開いて記者に向けた目は真っ赤だった。


『……ホッとしています』


 絞り出すようなか細い声だった。対局中黙っていたから枯れたのとも違うと思う。

 ハラハラと涙が落ちてきた。今日はハンカチを探してバッグを探る余裕もなく、袖口を目の下に当てる。化繊のニットはまったく涙を吸わず、顔中がベチャベチャになってしまった。声も出さずに泣き続ける私を、棋士の二人は気にした様子もなくモニターを見ている。

 将棋内容に関する質問が続いて、答えるうちに落ち着いたらしく、声が通るようになってきた。


『本局にはどういう気持ちで臨まれましたか?』

『自分らしい将棋を指すことに集中しようと思っていました』

『プレッシャーのかかる状況だったと思いますが?』

『それはもう仕方ないので』

『この勝利を誰に伝えたいですか?』


 湊くんは困ったように視線をさ迷わせた。


『………………えっと、応援してくださった方たちに』


 折笠さんは呆れたように言う。


「『彼女に』って言えばいいのに」

「あの、私彼女じゃありません」

「え!?」


 折笠さんと有坂さんが声を揃えて言った。


「じゃあ、どういう関係なんですか?」

「どういう関係……どういう関係なのかなぁ?」

「なんかいいなぁ。楽しそう。湊さんの見ている世界は、きっと俺より彩り豊かなんでしょうね」


 有坂さんの声は、ずっと高いところから降ってきたように思えた。








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