△12手 gift

 夢の中で何かが鳴っていた。最初はクイズに正解したのだと思い、少し目覚めてスマホのアラームかと思う。


「うーーーーー、今何時……?」


 手探りでスマホを探し当てると、時刻は深夜三時三十六分。興奮でなかなか寝つけなくて、やっと深い眠りに入ったところだったから、頭がまだぼんやりしている。

 夢だったかと思って、ふただび眠りに落ちようとしたら、玄関チャイムがはっきりと聞こえた。これほど無視しても鳴りやまない、しつこいチャイムの音に戦慄して、一気に覚醒した。こんな時間の来訪なんて、まともな相手ではない。

 スマホに「110」を表示させたまま恐る恐るインターホンに近づく。パジャマ一枚で寒いけれど、そんなことより恐怖が上回っていた

 諦めないチャイムに急かされて、カメラのボタンを押して━━━━━すぐさま走ってドアを開ける。


「湊くん!」


 凍りつくような冷気とともに、湊くんが入ってきて、そのまま腕にすっぽりとくるまれた。固くて冷たいコートの生地からは、お酒と冬の深夜の匂いがする。


「あ、パジャマだ」


 頭の上からする声は、とても楽しそうに狭い玄関で響いた。

 対局が終わると、対局者二人が大盤解説会場に現れることがよくあって、湊くんも毎回そうしていたらしい。泣き顔を見られたくなくて、私はすぐさま将棋会館を飛び出した。それなのに、まさかすっぴんとパジャマでご対面することになるなんて。


「当たり前だよ、今何時だと思ってるの?」

「時計見てないから知らない」

「非常識な時間だよ」

「迷惑だった?」


 湊くんは拒否されるなんて全然思っていない、自信たっぷりの声で言った。口では文句を言いながら、冷たいコートをぎゅうっと握る。


「おめでとう」


 湊くんの心臓に、直接届けるような気持ちでつぶやいた。


「泣いてくれたんだって?」

「……折笠さんと有坂さん?」

「パンダみたいな目になったところ見たかったのに」

「そんな風にはなってません!」


 ひとしきり笑った湊くんは、少し離れて私と向き合った。


「ありがとう」


 夢を叶えた人の笑顔は、感動するほど輝いていた。少し背伸びして手を伸ばし、珍しく弧を描いている唇をそっと指でなぞった。


「感謝の気持ち、言葉だけならいらないよ」


 催促しても湊くんは渋い表情で横を向いてしまった。この期に及んで往生際の悪いやつ。


「秒読みしようか? 50秒ー」

「え! いきなり50秒?」

「1、2、3、4、5、6、7、8、きゅーーーーーーーーう!」


 湊くんがふっと俯く。普段は前髪とメガネで顔が見えなくなるところだけど、距離が0の今ならむしろよく見える。あの繊細に動く左手が、少し乱暴に私の頭を引き寄せた。衝突するように重なった唇は、あの夜から続いていたように深かった。乾いていた唇が溶けるように潤っていく。髪の手触りを味わう余裕なんてない。湊くんの中に残るアルコールだけで、酔ってしまいそうだったから。


「━━━━━最初のキスのこと、覚えてる?」


 湊くんは思い出すように天を仰ぐ。


「忘れようとしても忘れられなかった」

「二回目まで長かったなぁ」


 湊くんを追いかけた、この数年間が走馬燈のように駆け巡る。


「俺、これからもずっと、必死に将棋に食らいついて生きていく。だけど、それでもナンバーワンにはなれないかもしれない。悪くすれば十年後には無職。そういうの全部、覚悟してくれる?」


 覚悟なんて大層なことはできない。湊くんなら昇級できるって信じているわけでもない。ただ、この手を離さない自信だけはある。


「湊くんひとりくらいなら何とかなるって。その代わり家事はやってね」

「それ、この前も言ってたけど、ほとんどプロポーズだってわかってる?」

「何でもいいよ。湊くんが一緒にいてくれるなら」

「人生の一大事なんだから、もう少し頭使った方がいいよ」

「頭使ってる人間なら、こんなに何年も待ってないよ!」


 終盤に入ったとき、盤の上を見つめる湊くんの眼球がクルクルとすごいスピードで動いていた。あの早さで駒の動きを考えて、詰みの手順を読んでいるのだとしたら、棋士の脳は消耗して、少しずつ減っていっているに違いない。

 キスで忘れていた寒さを感じて、ぎゅっと湊くんにしがみつく。あの手紙を貰ってから、湊くんの気持ちはわかっていた。『将棋を選びます』と言われたからって、私への想いが弱いとも思ってなかった。それでも思う。


「いっそ将棋になりたかった。将棋になれたら湊くんに愛されて、しかも湊くんが欲しがってるgiftを与えてあげられたのに」


 湊くんの顔からすっと熱が引いて、盤を前にした時のように真剣な顔になる。私の背中をしっかり抱いて顔を見つめたまま、それでもどこも見ていない目で考えに沈む。それからやっぱり真剣なまま、焦点が私に戻ってきた。


「あやめがいなくても生きていけるけど、将棋がない俺は生きてるとは言えない」

「そうなんだろうね。折笠さんは『業』って言ってた」


 湊くんは深く頷く。


「ただ、将棋は好ききらい関係なく離れられないものだけど、あやめは好きだから一緒にいたいと思う」


 考え考え正直に渡される言葉は、これ以上ないくらい真摯だった。


「それじゃダメかな?」


 にやけた顔を手で覆ったから返事ができなかった。「離れられない」よりも「いたいから一緒にいる」方がうれしい。「必要」じゃなくて、湊くんの想いで選ばれたい。

 将棋にしか与えられないものがあるように、私にしか与えられないものがあるはず。湊くんの選んだ道がとても狭くて、ひとり分の道幅しかないのなら、私を背負って歩いてもらおう。きっといつかのように「今井さん、重い……」って言いながらも、離さずにいてくれると思うから。

 ごめんね。重荷になりたくない、なんて身を引くしおらしさは、数世代前からDNAに入っていないの。


「それにあやめはそのままで━━━━━」


 聞こえてきた言葉に耳を疑う。びっくりして顔を見たら、真っ赤な顔を逸らされた。


「ごめん、忘れて」

「忘れない!」

「いや、ダメ。恥ずかし過ぎる。酔っ払いの戯れ言だと思って忘れて」


 距離を取られるから、また前髪とメガネで顔が隠されてしまった。酔っ払っても、戯れ言でも、思ってもいないことを言う人ではないと知っている。再び距離を0にして、のぞき込むように見上げる。


「嘘なの?」


 真剣な顔と声で問いただしたら、動揺して目を泳がせた後、下からでも見えないように今度は顔を手で覆ってしまう。


「……………本心です」

「うわーーーーっ!恥ずかしーーーーい! どの面下げてそんなこと言ったの!? ちょっと、ちゃんと顔見せてよ!」

「ああ、もう! 忘れてって!」

「絶対忘れないって!」














『あやめはそのままで、十分神様からの贈り物だから』



 今度は本当にend



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gift 木下瞳子 @kinoshita-to

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