△2手 omurice

 ちょっとしたパソコンの不具合なら直してしまうくせに、コーヒーメーカーの使い方がわからないなんて、人としてのバランスが悪すぎる。湊くんは、


「コーヒー淹れます」


 と、颯爽とキッチンに入ったくせに、


「なんか溶けないんだけど」


 と私に助けを求めてきた。キッチンに行くと、カップの中では、お湯とコーヒー豆がくるくる踊っていた。


「インスタントコーヒーじゃないんだから、コーヒーメーカー使わないと」


 とアドバイスしたところ、今度はポットの中に豆を投入しようとしたので、直前で奪い取った。


「湊くんって不器用なの? ただのアホなの?」


 無事にはいったコーヒーをカップに注ぎつつ、嬉々としてけなしてやった。均等に淹れたつもりなのに、なぜか不平等に分配されたコーヒーを一瞥して、湊くんは呆れた視線を私に向けたものの、世話になった手前文句は飲み込んだようだ。


「ただの経験不足だよ。器用でないことは認める」


 湊くんがふたつカップを持ったので、私も残りのふたつを持ってリビングに移動した。

 冬物のダウンが重苦しく感じるようになってきた三月半ば。私たちは、同じ課の先輩ってある岩本さんの新居にお邪魔していた。

 岩本さんがマンションを買った! その情報を美里さんから聞いた私たちは「岩本さん、ついに結婚か!? 相手なんかいたっけ?」と慌てたのだけど、


「ひとりで買ったんだって。2LDK。まあ、一人暮らしでも物は増えるからね」


 と美里さんは哀れみと、なぜか怒りをたたえた声で言った。


「ついにひとりで生きていくことを決めたのね。頑張れ、岩本さん!」という励ましが20%、「どんなボロ家なんだろう?」という興味が50%、「特にすることないし」という暇つぶし(拓真は今週末も出張らしい)30%で訪問を決めた私と美里さんは、「どうせ暇でしょ?」と湊くんも引きずり込んだ。


「だったら湊くんより仕事が遅い私は、すごーく不器用ってこと?」

「仕事はともかく、器用ではないでしょ?」


 リビングにはガタついている折り畳み式の小さなテーブルがあり、その上にきれいに包まれたオムライスふたつと、ボロ布(原材料=卵)が添えられたケチャップライスがふたつ並んでいる。お手本みたいなオムライスは美里さんの作。つまり、残りふたつが私の作だ。

 手土産に私はケーキ、美里さんは地元の聖水(大丈夫! きっと単なる水だ)、湊くんはなぜか魚肉ソーセージを持ってきたのに、誰もお昼ご飯のことは考えていなかった。冷蔵庫もほとんど空っぽで、卵とご飯だけはあったから、湊くん持参の魚肉ソーセージを具材にみんなでオムライスを作ってみよう! ……と、こんな結果になった。


「見た目は悪いけど、味は一緒でしょ?」

「見た目は味に影響するんだよ」


 言い争う私たちの間を割って、家主である岩本さんが私のボロ布ケチャップライスを自分の方に引き寄せた。


「俺は気にしないよ、見た目なんて。味さえおいしければ」


 岩本さんはとっっってもいい人なので、今は誰も気づいてないけど、いつかきっとモテると思う! 感動に涙を浮かべる私の隣で、湊くんは岩本さんのボロ布ケチャップライスをきれいなオムライスとすり替えた。同時に「私のオムライスが食べられないっていうの?」と怖い声で美里さんが岩本さんにお皿を押しつける。


「先輩に無理させるわけにいきません。同期なので俺が処理します」


 湊くんはきっぱりと言い切り、「いただきます」と手を合わせてから、さっさと処理に入ってしまう。


「あやめちゃんはこっち食べる?」


 美里さんがきれいなオムライスを差し出してくれる。


「お気遣いありがとうございます。余計に悲しくなるので、自分のを処理させてください」


 がっかりしたせいなのか、具が魚肉ソーセージだけだからなのか、包み方が悪かったからなのか、おいしいオムライスではなかった。


「でも食べられなくはないね」


 最大限のプラス思考に、湊くんも一応うなずいてくれた。


「ケチャップの味だからね」

「オムライスなんてケチャップの味でしょ!」

「できないなら挑戦しなきゃよかったのに」


 文句しか言わないくせに、湊くんは一粒のご飯も卵片も残さずきれいに食べてくれた。


「失敗したのは結果論でしょ? 最初からできるってわかってるなら、それは“挑戦”とは言わないじゃない!」


 その挑戦をなぜこのタイミングでしたのか、という反省点は残るのだけど、私は堂々と言い切った。本当は湊くんの空っぽのお皿に気持ちを救われていても、素直に感謝するのは悔しい。

 どうせまた憎まれ口を叩いてくるだろうと思いながらケチャップライスを口に運んでいると、湊くんは、


「ああ、本当だ! 本当にそうだね」


 と、聞いたこともないような明るい声で笑って言った。私は口においしくないケチャップライスを含んだまま、その希少な笑顔に見入ってしまう。


「湊くんが笑うの初めて見たかも」


 美里さんも笑顔で湊くんを見つめている。


「今の会話のどこに笑いのツボが?」


 岩本さんは怪訝な表情をしていた。話題の中心になってしまったことが恥ずかしかったのか、湊くんはせっかくの笑顔を引っ込めて、コーヒーカップで顔を隠してしまう。

 あのころから、湊くんはよく笑うようになった。元々表情豊かなタイプではないから他の人に比べると少ないけれど。私は、湊くんの心境に大きな変化があったことなど当然知るはずもなく、


「笑顔くらい減るものじゃないんだから、出し惜しみするな!」


 と、またきつい調子で言ってしまったのだった。


「それにしてもよく思い切りましたね」


 満腹になってもケーキを諦めるつもりはなく、箱を空けながら改めて十五畳もあるリビングを見回す。「豚に真珠」とはよく言ったもので、安い折りたたみテーブルと、安いカラーボックスと、小さなテレビと、ゴミ箱くらいしかないくせに、この広さは贅沢過ぎる。その向こうには、岩本さんにはもったいない広めのシステムキッチンがあって、そこもベコベコした手鍋と、焦げ付いたフライパン、あとはコーヒーメーカーくらいしか置いていない。片づいているというよりもスッカスカだ。他にウォークインクローゼット付きの八畳間が二つ。贅沢過ぎるので、岩本さんなんてクローゼットで寝るのがちょうどいいくらいだ。中古物件とは言っても十年は経っていないらしく、目利きでもない私の目には新築に見える。


「破格の値段で出てたから迷ってる間に売れちゃうと思って」

「いいなぁ」

「じゃあ、あやめちゃんが一緒に住んだら?」


 美里さんが不自然なくらい完璧な笑顔で言う。


「今井さんなら大歓迎! いつでも待ってるよ」

「ありがとうございます。気が向いたら(向かないけど)連絡しますね」


 岩本さんのこの程度の軽口はしょっちゅうなので、私も呼吸のついでにあしらった。が、大きな音をさせて、美里さんがテーブルを叩いた。折り畳む部分の金具がキイイイイッて言ったから、もう畳めなくなったかもしれない。


「なんなの!? 勝手にマンションなんか買って、あやめちゃんと住むの!?」


 私にその気はまったくないのだが、とても口を挟める雰囲気ではない。怒りの形相で、大きな目から涙をこぼす美里さんに、私と湊くんは呼吸さえ遠慮したほどだ。


「そんなつもりないよ。ただ、本当に破格の値段だったから……」

「じゃあ、ずーーーーーーっと一人で住むのね?」

「いや、俺だっていずれは……」

「『いずれ』っていつ?」

「えーっと……」

「いつ!」


 岩本さんがテーブルから少しだけ下がり、フローリングにキスするみたいに、ペタッと美里さんに向かって土下座した。


「結婚してください」

(ええええええええええーーーーーーっ!!!!!)


 無音で絶叫して美里さんに視線を向けると、涙の量を増やして何度もうなずいていた。

 湊くんもさすがに驚いていて、居心地悪そうにお尻をもぞもぞさせている。チャンスがあったら帰るつもりなのだろうけど、そんなチャンスはない。

 私たちの存在なんてすっかり忘れているふたりは、正座のまま向き合って、涙に濡れる美里さんのほっそりした手を、岩本さんの肉まんじゅう(原材料=手)が包み込んで、やさしい笑顔で見守っている。鼻をすすってそっと顔を上げた美里さんも、濡れた瞳を細めて幸せそうに笑った。とても美しい光景ではあるが、このままだと見てはいけないシーンに突入してしまいそう。


(なんとかして)


 湊くんが視線で訴えてくるので、私はわざとらしいほどの大きな拍手で存在をアピールした。


「み、美里さーん、岩本さーん、ご婚約おめでとうございまーす! あ、そういえば湊くんって明日誕生日じゃなかった? この前健康診断の申込書で見たんだ。ついでにおめでとう! みんなにかんぱーーーい!」


 高く掲げたのはフルーツタルトにのっていたメロン。ようやく現状に気づいたふたりは、少し赤い顔で「ありがとう」とコーヒーカップを持ち上げた。掲げてみたもののメロンはきらいなので、「はい、誕生日プレゼント」と湊くんのショートケーキの上にのせる。


「湊くんもおめでとう! ♪ハッピーバースデ~ トゥ~ ユ~♪」


 岩本さんが歌い出したので、私と美里さんも一緒に歌った。


「♪ハッピーバースデー トゥ~ ユ~♪湊くんおめでとう!」


 美里さんからモンブランの上の栗が、岩本さんからモカショコラに付いているコーヒービーンズが、それぞれ湊くんのお皿に移される。


「あ、ありがとうございます。おふたりこそ、おめでとうございます」


 恥ずかしそうに俯きながら、モジモジとした声でそう答えた。

 幸せいっぱいでケーキを頬張る美里さんと岩本さんを尻目に、私はカスタードクリームの陰に隠れていたメロンもほじくり出してそっと湊君のお皿に移した。


「誕生祝いって久しぶりだな」


 感慨深げな湊くんのつぶやきには「男なんてそんなものか。私ならいくつになっても盛大に祝ってもらうのにな」と深く考えもせず、湊くんのイチゴをこっそり奪って口に放り込んだ。


「ということは、美里さんもこのマンションに住むんですね」


 さっきまでとは違う視点で、美里さんは再び部屋を見回した。


「ふたりだとちょうどいいけど、これから子どもが増えると狭いかな」

「でも本当に破格の値段だったから」


 岩本さんがしつこくくり返すのだから、相当安かったのだろう。うちの会社でも年度末の決算に入っているから、不動産会社も売るのに必死だったのかもしれない。


「破格の値段って、何か理由があるんですか?」

「十年経ってないとは言っても、ちょっとガタがきててね。建て付け悪いのか勝手にドアが開いたり、接触悪くて急に停電したりするんだよ。家鳴りもひどいし。そんなに気にならないけど、それだけが欠点かな」


 照れながら答えた岩本さんの発言は、一同を凍りつかせた。


「それって……本当に建て付けとか接触の問題なんですか……?」


 私は急にただならぬ気配を感じて身震いした。湊くんは黙って固まったままだけど、少しだけ顔色が悪い。それでも美里さんは力強い笑顔を浮かべた。


「望むところよ。何人との同居になるか知らないけど、スリリングで楽しい家じゃない!」


 私が返事をする前に、岩本さんの後ろの壁がミシリと音を立てた。少し振り返ったものの、岩本さんは何事もなかったかのようにケーキの最後のひと口を頬張った。


「隣の人、帰ってきたみたい」


 ここ、角部屋でしたよね……。

 美里さんと湊くんが、ぎこちなくうなずいた。




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