gift
木下瞳子
▲初手 dawn
世の中は、価値のないオンリーワンで溢れている。湊くんのことも、そんな中のひとつだと思っていた。
本当に大事なものや運命の出会いであっても、出会った瞬間わかるものではないらしい。いやむしろ、私たちの出会いは“運命”なんて高尚なものではなかったのだろう。
湊くんと私は一応同期であるけれど、年齢は彼の方が四つも上で、入社してきたときすでに二十六歳だった。同期と言っても四月に新卒で入社した私に対して、湊くんは八月のお盆休み明けという中途半端な時期に、タンポポの綿毛が紛れ込むみたいにふらっと入社してきた。普通ならそれだけで注目されてもおかしくないのに、ほとんど話題にもならず、「あれ? 私が気づかなかっただけで、実は四月からずっといた?」と確認したくなるほど、その存在感は薄かった。きちんとカットされているのに重苦しい前髪と、細いフレームながら存在感たっぷりのメガネで、猛暑だというのに表情もいつも変わらない。こんな容姿の人は、社内にもおそらく十二人は存在するから、湊くんがあと二~三人増えてもバレないのだろう。私も“同じ課に唯一配属になった同期”でなければ、思い出しもせずに毎日を送っていたと思う。
けれど毎日顔を合わせてみると、その変人ぶりは際立っていた。そもそも年上のはずなのに、“若々しい”とは違った意味で若く見える。ちょうど「大学受験で二浪してます」という雰囲気だった(ということは二十歳くらいに見えるのか?)。だから敬語も半日でやめたし、ついつい気安く接してしまうのは、もはや生理現象だ。
「あれ?」
紙を切ろうとしてカスッと刃が滑るものだから、湊くんは首をかしげ、すぐに斜め向かいにいる私を睨んだ。一瞬目が合ったにも関わらず、私は笑いをこらえた無表情で、仕事に集中しているフリをする。湊くんが左利きであることを知っていて、こっそりハサミを右利き用とすり替えておいたのだ。湊くんはムスッとした顔のままハサミを右手に持ち替えて紙を切り始めた。
「え! 右でも使えるの?」
素知らぬフリをかなぐり捨てて聞くと、不機嫌な顔のまま返事だけはしてくれた。
「一応両方使える。左の方が楽だけど、右も使えると便利だから」
「なーんだ、つまんない。はい、返す」
左利き用のハサミを差し出すと、サッと取って左で紙を切り始めた。自供通りさっきよりスピードが速い。
仕事にもどろうとして、パソコンのディスプレイと垂れ下がった電話線の隙間から、順調に動くハサミが見えた。それを操るヤツの指はすんなりと長く、顔に似合わず繊細だった。まるで、「ハサミより重いものは持ったことがございません」と言っているかのよう。不覚にも見とれていたせいで、後ろを通った先輩に、丸めたカタログで頭を叩かれてしまった。おのれ湊め、腹立たしい。
湊くんは存在そのものが謎だけど、その経歴にも謎が多い。二十六歳という年齢から、転職してきたと思っていたのに、聞いてみると就職するのは初めてだという。しかも三流四流でも大卒が多いうちの会社で、最終学歴は高卒。
「高校卒業してから、今まで何してたの?」
休憩スペースで一緒になったとき、おやつ代わりに聞いてみたことがある。
「別に。何も」
学歴は湊くんのコンプレックスだったのか、愛想のない顔から更に表情を消して、まずそうにコーヒーをすすった。メガネが一瞬、ふわりと曇る。
「もしかして大学中退?」
「いや、大学は受験もしてない」
「世界放浪?」
「日本から出たことない」
「あ、わかった! ずーーっと高校を留年してたんじゃない?」
ふんっと鼻息だけで否定されて、そのあとは呼びかけても頑なに聞こえないフリをされた。
仕方がないので、湊くんがトイレに寄るのを確認して、一足先に課に戻った私は、ヤツの引き出しに入っている蛍光ペンのキャップを全部バラバラに入れ換えてやった。
「このエネルギー、何か別のものに向けたら?」
ひとつずつキャップを入れ直す姿を見たら、手間を惜しまず嫌がらせしてよかった、と満足感に顔が緩む。
経歴に関しては、本人が語らないので真実はわからないながら、「病気で長い間入院していたのだろう」という見方が社内では浸透していた。たしかに色の白さや生活感のない妙にきれいな手に、普通の社会生活を送ってきた気配は感じられない。よく食べるし、毎日出勤して咳ひとつしないけれど、いつかバッタリ倒れたりするのだろうか。
そんな湊くんの入社の経緯には、どうも社長が深く関わっていたらしい。それで納得。だって、うちの社長は湊くんより変わっているのだから。
「おはようございます、社長」
「あ、おはよー」
「社長、おはようございます」
「はいはい、おはよー」
毎朝エントランスで、用務員のおじさんにしか見えない作業着姿の社長に、出社してきた社員たちが深々と頭を下げて挨拶する。「会社の玄関とトイレはいつも清潔でピカピカに!」というモットーには賛成だけど、何も社長自ら作業着にならなくても、とみんな思っている。エントランスはともかく、トイレ掃除をさせるのには抵抗があるので、たくさんの社員が代わりを申し出ても、
「これは僕のポリシーだから! 僕はトイレ掃除で会社をここまで大きくしたんだ! 初心忘れるべからず!」
と、トイレブラシを抱き締めて駄々をこねるらしい。本気で汚れたトイレを社長に掃除させるわけにはいかないので、清掃会社の人には社長の目を盗んで掃除していただいている。
そんな毎朝の光景の中で、社長は時折湊くんにだけ、個人的に声を掛けることがあるのだ。
「おはようございます」
軽い会釈程度で通過しようとする湊くんの行く手を、モップと社長が遮る。
「湊くん、おはよう! そろそろ今日あたりどうかな?」
「━━━━━はい。わかりました」
社長相手でも愛想の欠片もない湊くんは、社長の隠し子なんじゃないかとか、社長の弱みを握っているんじゃないかとか、「まさか……恋人……!」なんて私の貧相な想像力をかきたてた。
「ねえねえ、社長と何があるの?」
野次馬根性に勝てず、お昼ご飯から帰ってきた湊くんに、食後のデザートがてら聞いてみたこともある。しかし、
「別に。ちょっとした頼まれ事」
と、やっぱり嫌そうに答えて、日本刀のごとき「話しかけるな」オーラを振りかざす。湊くんの秘密主義が面白くなくて、ヤツのホチキスの針をこっそり抜いてしまうなんて、誰だって当たり前にすることだ。
カスカスという腑抜けた音がして、斜め向かいのに目をやると、湊くんはホチキスを開けて中を確認しているところだった。私の視線に気づき、そして犯人にも気づいた湊くんは、わずかにムッと目を細めたものの、無言で針を入れ直した。それを見て私は声を殺し、身をよじって爆笑する。
「またあやめちゃんは、湊くんにイタズラしたの?」
たしなめる言葉を、しかし笑いながら言うのは、私と湊くんの先輩で指導係の
「“イタズラ”なんて、そんな。ほんのご挨拶です」
「あんまりいじめちゃダメよ。せっかく育ったのに辞められたら困るから」
「美里さんだって、岩本さんをいじめてるじゃないですか」
大きなお腹を、たふんたふんと揺らして歩く男性(三十代独身)を、目で追いながら反論する。
「あれはコミュニケーションの一環よ」
「じゃあ私のもコミュニケーションの一環です」
「そっか。それなら仕方ないね」
特別人数が多いわけでもない課内で、こうしてコミュニケーションの輪は広がっていく。
だって、湊くんは突っ込みどころが多すぎるのだ。社長と親しいくせに、湊くんは入社当初、自社のことなんか何も知らなかった。
私が勤めているミサワ金属工業は、フライパンや鍋などの調理器具を製造・販売している。戦前に炊飯鍋や
……ということも、湊くんは何も知らなくて、
「あ、鍋屋なんだ、ここ」
と、出勤初日につぶやいたという伝説がある。いったい何屋だと思って、社長が毎日毎日磨きをかけているエントランスをくぐって来たのだ、この男。
就活戦争をくぐり抜けてきたなら、当然身に付いているはずの常識は何もわかっていなくて、
「おい、こら、湊! 企業名の後は『様』じゃなくて『御中』だよ!」
と、美里さんがカバーしきれない基礎の基礎の基礎なんかは、同期のよしみで私が尻を叩いてやった。湊くんは黙々と「様」に修正テープを引っ張って、私に「書き直せ!」と新しい封筒を突きつけられたりしていたっけ。
私はずっと、湊くんが変人だから常識がないのだと思っていた。実際、変人だし、ダメなところもたくさんあるのだけど、どうしてそこまで社会性に欠けていたのか、考えることすらせず毎日を過ごしていた。理由を知った今となっては、考えたところで思いつくはずもなかったと思う。
湊くんは“無害”という言葉が一番しっくりするくらい、意外にも不快感を与える人ではなかった。打てば響く……わけではないけれど、仕事の覚えはよく、一度教えられたことは忘れない。変化にもすぐに対応できる。返事や反応は曖昧でも仕事はきっちりこなすし、処理能力は高いから、上司からも当然重宝される。最初は私がフォローしてあげていたのに、半年後くらいには私より仕事をこなすようになっていた。それを鼻にかけるでもなく、黙々淡々と仕事を進める態度が面白くなくて、イスの高さ調節のネジを緩めてしまうのは仕方のないことだ。
「うわっ!」
座ったはずの湊くんが視界から消えて、私は立ててあるファイルに顔を隠し、声も抑えて爆笑した。さすがに怒ったのか、個包装されたいちごチョコレートが、「太れ!」という呪いの言葉とともに、頭に飛んでくる。
「痛っ! あれ? ありがとう! いただきまーす。湊くん、チョコレートなんて食べるの?」
コーヒーはブラックしか飲みません、という顔をしているから(実際は知らないけど)、甘いものを食べていることが意外だった。
「脳を使うと糖分が欲しくなるから」
「へー、それで記憶力いいのかな。私もチョコレートを常備しよう」
「今井さんは脳使ってない━━━━━うわっ!」
失礼なヤツはチョコレートの包み紙を投げつけられるもの、と古来から決まっている。コントロール機能が搭載されていない私の腕では、湊くんに命中させられなかったけれど、床に落ちた包み紙を拾ってゴミ箱に入れてくれたから、それで許してあげることとした。
そう、湊くんは記憶力がいい。湊くんが入社して数ヶ月経った頃、ISO14001の更新審査があった。ISO14001っていうのは環境マネジメントシステムのことで、会社として環境に配慮した活動やシステムを構築している、と国際基準で認められることらしい(多分)。
更新審査なんて担当者がするものだと思っていたら、なんだかギリギリになって「何を聞かれても対応できるようにしておけ!」と、急な部長命令が下った。どうも部署ごとのヒアリングや、現場視察もあるらしいのだ。
更新審査までの数日、事務課の人間はみんな半泣きで、ぶ厚いファイルと向き合った。書類に齧りついたところで、何しろ担当ではないから、読んでも理解できない。理解できていないのだから、何か聞かれたとしても答えようがない。東南アジアの入国審査みたいに、何を聞かれても「サイトシーング!」って言っていればいいっていう裏技(嘘)でもないか、と脳が現実逃避を始める。
「大丈夫、大丈夫。課長が対応するし、何も聞かれないって」
と、岩本さんがファイルを閉じたので、私も無駄な抵抗はやめた。真面目な人でも、軽く目を通しただけだと思う。その中で、湊くんは淡々とページをめくっていた。ペラリ、ペラリ、と速いペースでめくる姿は、ただの作業のように見える。
「そんな読み方してわかるの?」
話しかけると、眼鏡をはずして、目元をマッサージする。
「なんとなく」
「え……あのペースで読める? 見てるだけじゃない?」
「うーん……文字を追うっていうより、ページごと頭に入れる感じ。だからぼんやりだよ」
「ぼんやりでもわかるんだ!」
「まあ、一応」
そういう速読術があると聞いたことはある。だけど、実際目の前で見せられても、にわかには信じられない。
「なんでもいいや。がんばりたまえ。私の分も!」
湊くんはふたたびページをめくっていて、返事もしなかった。
当日の現場視察は、もちろんISO取得の担当者が対応していて、私たちは平然と通常業務に邁進しているフリをしていた。その実、いつ何を言われるのか、内心ではみんなビクビクして過ごしていた。岩本さんなんて体調不良でトイレを往復していたけど、あれはきっと仮病だ。私たちの不安をよそに、現場視察は何事もなく終わるかに思えた。ところが、タイミング悪くプリンターに書類を取りに行った湊くんが、審査員に捕まったのだ。
自分じゃなくてよかったと思う反面、どう切り抜けるのか一同が固唾を飲んで見守る中、湊くんは聞かれたことにあっさりと答え、ナポレオンもかくやという堂々とした無表情で自分の席へ帰還したのだ。みんな視線で彼に拍手喝采を送る。湊くんの犠牲のおかげで他に累が及ぶことはなく、現場視察は終わった。
審査員が帰った後、私は打ち上げ花火の代わりに湊くんの背中をバンバン叩いて賞賛した。
「ちょっと湊くん、おかげで助かった! ありがとう!」
「別に、仕事だし」
背中の痛みに顔をしかめつつ、本当になんでもないことのように湊くんは言う。
「仕事だってできることとできないことがあるじゃない。私だったら答えられなかった。よくわかったね」
「かんたんな質問だったし、事前に渡されたファイル見ればわかることだから」
「そうだけど、それが覚えられないんじゃない。多すぎて」
「そうかな?」
「そうだよ」
「ふーん」
興味ない、とはっきり顔に浮かべて、また黙々と仕事に戻ってしまう。
何がどうってはっきり言えないのだけど、湊くんはやっぱりどこかテンポが人と違う。意外とスペックは高いのに、とにかく覇気がない。
「おい湊! 今日の立役者なんだからもっと自慢気にしたら? 謙遜し過ぎは嫌味だよ」
湊くんはうんざりした様子で仕事の手を休めず、私の方も見ないまま、それでも返事だけは律儀に返した。
「だから別に大したことしてないって。面倒臭いからもう忘れて」
「欲がないな。あんたの人生は、生まれた瞬間から余生なの?」
手近にあるファイルを重ねて、簡易的な凱旋門を建設することに集中していた私は、脳を使わずにそう言った。
「余生……」
湊くんは手を止めて、ディスプレイとキーボードの隙間辺りに視線を落としながら、私の言葉を反芻した。
「うん。俺の人生は余生だよ」
湊くんの言葉に、隣の席の岩本さんがふっくらとした身体を揺らす。
「それはよくない! きっと肉が不足してるんだよ。よし、湊くんを労って今夜はみんなで焼き肉だ!」
「岩本さーん、体調不良はどうしたんですか?」
目を細めて睨んだのに、岩本さんは視線を跳ね返すように力強くうなずく。
「大丈夫! トイレに持って行かれた分補給しないとね!」
「持って行かれっぱなしにしたらいいのに」
岩本さんの二の腕と背中の境目にある肉溜まりをむぎゅうっと握ると、身をよじって振り払われた。
「今井さん、まるで俺が太ってるみたいに聞こえる言い方しないで。それに肉では太らないんだよ? 太る最大の要因は糖質なんだから」
「じゃあご飯は食べないんですね?」
「ご飯食べない焼き肉なんてある? ない!!」
クソ真面目に言い切った岩本さんのお腹に、美里さんがクリップボードの角を押し込む。
「いいじゃなーい。みんなで行こう! 岩本さんのおごりで」
グリグリめりこむクリップボードをそっと押し返して、ひきつった顔で後ずさる。
「課長! 課長も引っ張ってくるから!」
岩本さんが課長(の財布)に声をかけ、課長の号令で正式に、課の飲み会が焼き肉店で開かれることになった。
結局、湊くんが肉を食べていたかどうかは覚えていない。焼き加減にこだわる岩本さんが、ベストのタイミングで箸を伸ばす直前で、その肉をかっさらうことに心血を注いでいたからだ。
「ああああああ! また、今井さーん」
「ほらほら、岩本さんにはこっちのタマネギあげますから」
「タマネギきらーい」
「ピーマンは?」
「もっときらーい」
「じゃあキャベツ」
「……キャベツなら、なんとか」
キャベツをおかずに、岩本さんがご飯(大)を三杯おかわりしたことはよーく覚えている。
「竹林さんも今井さんも、自分で焼けばいいのに」
「他人の肉は蜜の味なんですよ。はい、美里さん」
「ありがとう~! うん、蜜の味! ほら、あやめちゃんも食べて」
「すみません、いただきまーす」
「ああ、また! 俺の肉!」
先輩の肉を遠慮なく頬張りながら改めて見回すと、平日だからか周りはおじさんばっかりだった。私たちの課も、私と美里さん以外の女性はお子さんがいるため参加していないし、店全体が濁ったグレーがかって見える。
「はあー、ロマンスの欠片もないですね」
「あやめちゃんには必要ないでしょ」
「えへへ、そうなんですけどね」
営業部の
「結婚しない人生もあるはずなのに、うちの課はほとんど既婚よね」
美里さんの言葉を受けて、うちの課の独身を確認してみると五人だけだった。私、美里さん、湊くん、岩本さん、そして我が社を代表できるほどの麗しいお顔の
ピカピカにハゲている(あ、ハゲって言っちゃった)わけではなくて、「こんな堅いアスファルトにもタンポポは力強く咲いているのね……」という感じで、粘っている毛髪たちは存在する。けれど、毛根と毛根との距離は、山奥の民家のように遠い。課長が独身なのは、ひとえにアレのせいだと全員が確信していた。
「デブ、ハゲ、変人。なんかの見本市みたいですね」
「ハゲのハイスペックイケメンと、見た目は普通の変人だったら、あやめちゃんはどっちを選ぶ?」
「そこにデブの善人は入らないんですか?」
「二択で」
「うーーーん、課長と湊くんか……。美里さんは?」
鉄板にキャベツ(岩本さん用)を放り込んで生レモンサワーを堪能していると、美里さんは間髪入れずに断言した。
「課長」
「あ、やっぱり! 正面だけ見たら文句ないですもんね」
「そうじゃないの」
美里さんは至極真面目な顔で、岩本さんの肉をかっさらった。
「湊くんが今後ハゲないとは言えないでしょ?」
「あ、本当だ」
今はつやつやサラサラで天使の輪まであるけど、将来あれが全部抜けて、ツルツルピカピカの天使の輪に変わる危険性はある。
「だけど太りそうには見えないよね」
「美里さん、やっぱりデブ嫌いですか?」
返事をすることなく、華麗に肉をひっくり返す岩本さんのプクプクした手をじっと見ている。
「あやめちゃんと根津さん。見た目にはいいカップルよね。見た目には」
含んだ言い方はともかく、どうやら褒められたらしい。焼けたばかりの岩本さんの肉を二枚、美里さんのお皿に入れる。
「えへへ~、ありがとうございます」
美里さんは何かもやもやを吐き出すように、岩本さんのお皿にキャベツ(生焼け)を大量投入した。
「いいんだけどね、根津さん。文句ないんだけどね。なんだかなぁ」
美里さんのつぶやきは気になったものの、
「ああ! 岩本さん!」
「ついに、ついにハラミを手に入れた……うんうん、蜜の味!」
岩本さんとの攻防に負けたことで、聞きそびれてしまった。
お開きとなり、順番に座敷から出ていく流れの中で、本来主役のはずの湊くんを久しぶりに見かけた。肉の脂も、摂取したはずのアルコールも亜空間に飛ばしたんじゃないかっていうくらい、表情はいつもと変わらない。
「湊~! ちゃんと肉食べてパワーつけたか~?」
座って靴を履いている湊くんの背中に、ドスッと乗り上げると、私の下でうっ、と苦しげな声がした。
「今井さん、重いから降りて」
「私ひとりくらい運べるパワーはつけてないと。これは審査の一環でーす」
湊くんは私の靴を手に持つと、よいしょ、と強めに言いながらそのまま私を背負った。
「おおおお、すごい! 意外と力持ち! さすが、やればできる男、湊純史朗!」
「出口まで。あとはタクシーで帰って」
思った以上に安心できる背中にうれしくなって、心のままにぎゅううううっと抱きついた。
「い、今井、さん……くるし……」
「あ、ごめん。ついつい愛があふれちゃって」
「酔ってるね」
「お酒飲んで楽しくならないなんて、もったいないじゃない」
「飲んでないときも、いつも楽しそうだけどね」
平日とはいえ、店内の席はほとんど埋まっていた。その狭い通路を、私を背負って歩くのは恥ずかしいだろうに、仕事をこなすのと変わらない態度で進んでいく。酔っていても本当は少し恥ずかしかったけど、頬に当たる髪のサラサラという感触と、汗っぽくても不快じゃない首筋の匂いと、心地よい体温を手放す気持ちにはなれなかった。それでも店を出ると道端にあっさり降ろそうとする。
「いやー! このまま家まで運んでよー」
ストッキングの脚をバタバタ振り回すと、よろめきながらもその衝撃に耐える。
「相手が俺だったとしても、男に送られたりしたら、今井さんの彼は嫌がるでしょう?」
何事にも興味を示さない湊くんが、私の彼の存在を知っていたなんて意外だった。むしろ指摘されるまで、私の方が忘れていたくらいだった。けれど、言われてみれば正論なので、しぶしぶ背中を降りる。十二月のアスファルトはとても冷たくて、「つけてる感じがしない素足感覚ストッキング!」の足裏を苛む。
さっきまでポカポカしていたのに、どこもかしこもひんやりしてしまった。そんな私の前に湊くんが靴を並べてくれるから、仕方ないので肩を借りて、軽く足の裏を払ってからそれを履いた。
「意外と常識的なこと言うんだね。湊くんが私の彼に配慮するなんて思わなかった」
湊くんをけなすような軽口はしょっちゅうで、本人もたいていは受け流すか言い返してきていた。だからこのときも、いつもと同じように流されると思っていた。
「俺だって……普通の人間なんだよ」
行き交う車のライトの流れを見つめながら、湊くんはポツリとそう言った。顔を背けていたけれど、キュッと唇を噛んで。
からかい過ぎたのだろうか。これまでもずいぶん失礼なことを言ってきたけど、知らず傷つけていたのだろうか。
酔った頭では正しい答えにたどり着けなくて、私はなすすべなく湊くんの横顔を見つめていた。
サッと手を上げて止めてくれたタクシーに乗り込むとき、湊くんの顔を正面から見上げたけれど、
「明日、遅刻するなよ」
と、いつもの呆れ顔で言うから、私はホッとして、さっきの不安な気持ちはすっかり忘れて手を振った。
あの頃の私は、湊くんがどんな気持ちでいるのかなんて考えていなくて、いつも変わらない無表情で許してくれることを、当たり前に思っていた。きっと「ありがとう」も「ごめんなさい」も、ほとんど言ったことがない。高尚ではないありふれたあの日々が、どれほど儚く貴重であるかなんて気づきもしなかった。あの言葉の意味に、「普通の人間」という言葉に、湊くんがどんな気持ちを込めていたのかを知るのは、まだまだずっと先の話。
「明けない夜はない」というけれど、誰しもが夜明けを望むものだろうか。少なくとも私は、毎朝カーテンの隙間から差し込む明かりを、忌々しく思っている。あたたかくやさしい夜は、居心地がよく離れがたい。
私は毎日楽しかったけれど、湊くんにとってあの日々は、瞼を閉じても突き刺さってくる光のように、つらいものだったのかもしれない。
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