▲3手 flower


 ショックだったのは、彼が浮気をしていたことでも、私でさえ本命でなかったことでもない。自分がこんなに打算的な人間だったのだと、思い知ったことだった。


「━━━━━それでバレないの?」

「あやめって深く考えないから『出張』って言えば疑わない。別にバレたっていいし」


 会社の喫煙ルームは、防煙の仕切はあっても防音効果はまるでない。そんな壁の向こうで、男の声は遠慮ない。


「今井さんと付き合って半年? その間によくそんなに何人も……。俺が女だったら軽蔑する」

「男だろ」

「うん。だからうらやましい」


 ふんっと笑った声は、ついさっきまで私の耳元に響いていたものと同じ。


「俺、結婚なんてする気ないし、だから誠実に付き合ったって無駄なだけ」


 なるほど、結婚することと誠実に付き合うことは、限りなくイコールに近いものなのだ。結婚するつもりがないなら、どんなに誠実に付き合っても、結局は「不誠実」の烙印を押されてしまう。それならたしかに誠実さは無駄だな、と妙に納得した。


「今井さんのことはどうするんだ?」


 話題が自分に向いたので、薄い壁面に一層近づき、健康増進ポスターに身をやつす。


「まあ適当に。次に誰か見つかるまでは維持するつもり」


 しずかに吐いたため息が、ポスターの上を滑って落ちた。

 私は拓真と付き合って、社内恋愛の春を謳歌していた。秋の終わりに付き合い出して、寒い冬を越え、この春は続いて行くと信じたまま無に放り出されてしまった。「これ本物だと思ったでしょう? 実はプロジェクトマッピングなんですよ~」とでも言われたかのよう。見ていた鮮やかな景色は、ただの汚れた壁だった。

 煙草で汚れた壁に張りつきながら、幻の春を思う。ほんの十分前だって、非常階段の踊り場でそれはそれは濃厚なキスを交わしたばかりだったのに。「会社じゃなかったら押し倒してた」そう囁かれて、身体がトロリと溶けた気がしたものだ。


「……もう! リップ直さないと」

「じゃあその前に」


 わざと唇を舐めるようにして、拓真は私に再びキスをした。すっかり取れてしまったリップをトイレで塗り直しながら、


「あ、今夜は課の飲み会になったって言い忘れちゃった!」


 と彼を追いかけたのが運の尽き。いや、そもそもこんな男と付き合ってたことが不運なのだから、開運の兆しだったのかもしれない。仕立てのいいスーツの背中を探していたとき、喫煙ルームから彼の声が聞こえてきて、ついイタズラ心で盗み聞きしてしまったのが先ほどの会話だった。

 約半年付き合った彼の浮気&それ以上の事実を知った今、胸に湧き上がるのは純粋なまでの怒り。自分で自分が情けなくなるほど、一片の恋心も残っていなかった。なかなか見た目がよくて、そこそこ仕事も優秀で、それなりにやさしくて、まずまずオシャレで、ケチでもなく、素敵なお店を知っていて、身体の相性も悪くない。でも、それだけだ。これほどの好条件を並べた上で「それだけ」だった。

 彼と付き合っていたのは、誰かに自慢したいからだったのだ。「根津さんってすっごい素敵! あんな人と付き合えてうらやましい!」この言葉を与えてくれることが、彼の一番の価値だった。

 どんなに素敵な彼氏でも、浮気男をうらやましいと思う人はいない。だからヤツにはもう何の価値もない。

 喫煙ルームのドアを開けると、むわっとした煙に包まれた。眉間に皺が寄る。たくさんキスした相手なのに、この煙がヤツから吐き出されたものだと思っただけで気持ち悪い。


「けほっ。ごめん、立ち聞きしちゃったんだけど」


 内容はともかく立ち聞きはよくないので、一応謝罪はしておく。「別にバレたっていい」と豪語した拓真にもそれなりの罪悪感はあったようで、煙草を口から離して気まずそうに顔を歪めた。


「別れる。じゃ、そういうことで!」


 なるべく呼吸をしたくないので、言うだけ言って強めにドアを閉めた。小走りで移動して、離れたところで深く息をついたら、ついさっき濃厚なキスを交わした非常階段が目に入った。途端に気持ちが悪くなる。

 あいつとのキス、何で平気だったんだろう。

 胃の奥からせり上がってきそうな何かを、ハンカチで必死に押し戻して自動販売機に走る。普段は飲まないブラックコーヒーを買って、その場で口に含み、口の中をゆすぐようにしてから飲み下した。キスの味なんてもう思い出せないけれど、あのヌルヌル感だけはしつこく残っている。

 半年もの間キス以上のこともさんざんしていたのに、気持ちが離れた途端に耐え難い嫌悪感に襲われた。身体中のいろんなところをナメクジが這っているような、ぞわぞわとした悪寒がする。

 同時に自分の心変わりの早さにも呆れる。拓真のことは腹立たしいし気持ち悪いけれど、私も結構最低だった。あいつの言う通り、「仕事が忙しい」と言う言葉を疑いもしなかった。会えなくても全然寂しくなかったからだ。社内で恋愛ごっこを楽しむのは好きでも、休日まで会うのは面倒臭いとさえ思っていた。私もたいがいひどい。

 けれど、それでも私は半年の間、まがい物ながらも彼だけに愛を注いできたつもりだ。それなのに知らないところで何度も何度も浮気されていて、その口で手で触れられていたのだと思うとおぞましくて仕方ない。ハンカチでこすり過ぎたせいで、唇はカサカサに乾いていた。どんなに手を洗っても「血が落ちない!」って騒いでいたのは、マクベスだっけ? ハムレットだっけ?


「……唇燃やしたい」


 今ガスバーナーがあったら、こんがりキャラメリゼしているところだ。ビールを飲み干したあと、紙ナプキンで必要以上に唇を拭く。


「あやめさ~ん、大丈夫ですか~?」


 目がつぶれるほどのつけまつげをバシバシと羽ばたかせて、夏歩かほちゃんは私にまでトロンとした声で話し掛けてきた。

 風紀に関してはゆるい会社だが、夫婦揃って同じ課には配属しない方針なので、岩本さんと入籍した美里さんは事業所に異動となってしまった。その人員補充として配属されたのが、新入社員の斉藤夏歩ちゃん。なんと、「会社には結婚相手を探しに来ています!」と公言している猛者だ。当然「男に媚びを売ってる」と陰口を叩かれているが、「騙される男の方が悪いと思いませ~ん?」と本人は気にしていない。だけど「仕事ができない女は軽く扱われるので~」と、仕事は猛烈にこなしてくれるので、私としてはただただ頼もしい後輩だった。


「大丈夫じゃなくなりたい! 酔ってすべてを、いやここ半年を忘れたい! ……次、青森県産アップルアペタイザー」

「は~い!」


 口の中に残るヤツの感触が消えることはなく、炭酸やアルコールで洗い流そうと次々飲んだ。今差し出されたら、殺鼠剤ですら口にしてしまいそうだ。


「あやめさん、気にすることないですよ、失恋くらい。また次見つければいいんですから~」

「失恋じゃないんだよ、私がこんなになってるのは。だけど絶対『今井は失恋で荒れてた』って思われる。ああああ、早く次の恋がしたい!」


 かすんだ目で見回して見ても、これといった目ぼしい物件はない。ハゲ、デブ(既婚)……あれ? 変人が見当たらない。


「そういえば、なんで夏歩ちゃん、こんな飲み会に参加してるの? 恋のチャンスなんて皆無だよ?」


 出会いとときめきと好条件を求めて日々アグレッシブに活動している夏歩ちゃんには、無意味な飲み会だ。


「間接的な出会いがどこに転がってるかわからないじゃないですか~。『うちの息子の嫁に』って、どこかの社長から声が掛かるのを待ってます~」


 1%もない可能性すら捨てない意気込みは尊敬に値する。私はせめて1%くらいの可能性は欲しいし、面倒臭いのは嫌だから既婚者は排除する。


「もう、課長にしちゃおうかな」

「え、課長……? あやめさん、それはチャレンジャーですね」


 素に戻った声で夏歩ちゃんが見遣る先には、我が社のナンバーワンイケメンが座っている。今夜は壁を背にしているので、女性店員さんの視線も熱を帯びているような気がする。他の人のものと比べ、課長のジントニックだけ表面張力の限界を競うように量が多いのは、気のせいではないだろう。それもお見送りまでの短い時間の命でしょうけれど。


「ちなみにチャレンジャーっていうスペースシャトルは、打ち上げ失敗してますからね、あやめさん」


 余計な豆知識で釘を刺されても、今の私に滝島課長は本当の意味で後光が差して見える。


「ハゲってそんなに悪いことかな? キスするときは正面しか見えないんだから問題なくない?」

「自暴自棄にならずに未来を見つめてください。隔世遺伝した孫に恨まれるんですよ? 事はあやめさんひとりの問題ではなく、今井一族の行く末を左右するんです!」


 先輩たちの話によると、滝島課長のアレは入社直後から始まっていたらしい。せめてもう少し発症が遅ければ、と全世界が悔やんでいる。


「でも今はいろいろ技術が発達しているのに、堂々とイケメンの裏面にアレを張りつけておくなんて、むしろ潔くない?」

「まさかと思いますけど、気づいてないって可能性はありませんか?」

「ないと思うけど、確認する勇気はないよ」

「あやめさんが本当に課長を好きなら止めませんけどね」


 正面だけならさっき別れたアホ彼よりも好条件なのだ。課長なら浮気もしなそう。恋人になれたら大切にしてもらえると思う。


「でもやっぱり、なんか違うよね」


 条件で人を選んで失敗したくせに、私はまた条件で課長を選ぼうとしていた(そもそも課長が私を選ばないだろうという話は、一旦置いておく)。本当に課長を好きなのか、マイナスとプラスを計算した上で「ややプラス」と判断したのか、と考えると、明らかに後者だ。何より、あんなに素敵なお顔で後頭部だって見えないのに、キスをしたいと思えない。軽く目を閉じて想像してみるものの、唇がくっつく寸前でぱっちり目を開けてしまった。


「夏歩ちゃんは、打算に打算を重ねて選んだ相手が、もし見込み違いだってわかったらどうする?」


「打算計算何でもあり。恋は熾烈な泥仕合を勝ち抜いた者だけが手にできる、至高の花です!」と息まく夏歩ちゃんだ。ピンク色でかわいいけれどかなり強めのカクテルを、コクコクッと飲み干してタンッとテーブルに戻す。


「賭けに負けた責任は、自らの人生をもってあがないます~」

「夏歩ちゃん、格好いい! よーし! 日本酒いこう!」

「かわいくないから嫌です~」


 夏歩ちゃんは、結局なんだかわからないかわいいカクテルで、私はオススメと書いてある日本酒を右から順番に頼む。


「恋ってどうやってするんだっけー? あー! 一刻も早く新しい恋がしたーい!」


 課員全員からの呆れた視線をビシバシ受けながら、佐賀県のお酒を傾ける。


「別に錯覚でもいいと思うんです。今回は最悪でしたけど、もし一生気づかずに幸せな結婚したんだったら、打算でも何でも構わないと思いませんか~?」

「今回の件を踏まえて、いずれどっかで崩壊したんじゃないかと思うんだけど」

「じゃあドラマみたいに事故に遭ったり、病気になったり、試練を乗り越えないとダメですか? “真実の愛”とか“無償の愛”なんて気色悪いもの求めないでくださいよ」


 まったく同感なので、愛の幻ごと三重県のお酒を飲み下した。


「試練はいいや。ガラじゃないもん。手っ取り早く幸せな恋がしたい」


 突っ伏してテーブルに額を付けと、ひんやりして気持ちいい。福井県のお酒は黙したまま、気持ちは置いてきぼりで体温だけを上昇させた。冷めきった胸を熱くするには、何をどれくらい飲んだらいいのだろう。

 私は恐らくお酒には強い。今夜も、一般的な女子なら泥酔してお持ち帰りされるくらいには飲んだけど、記憶もあるし、ふらつかずに歩ける。


「あ、会社に携帯忘れた」


 そういうことにきちんと気づけるくらい、意識もしっかりしていた。


「大丈夫ですか~? 私会社の前通るので、タクシー相乗りして行きます~?」

「ありがとう! いいの? 助かる~」


 今夜の夏歩ちゃんの成果が、大学生アルバイト(実家は普通のサラリーマン家庭)からの連絡先入り箸袋だけだったことを笑いながら帰り、タクシー代を渡して会社の前で降りると、路上には明かりが降っていた。

 営業時間が終了して電気が消えているエントランスに対して、フロアはまだあちこち電気がついている。事務課のある二階フロアもほとんどの電気は消えているのに、奥の方に一部分だけ明かりが見えた。


「お疲れさまでーす。あれ?」


 挨拶しながらドアを開けると、フロアには湊くんひとりだけ。そういえば、飲み会にはいなかった。

 残業していたらしい湊くんは一瞬振り返り、


「え?」


 と腕時計で時間を確認した。


「まさか、飲み会忘れてた?」

「いや、行くつもりだったんだけど……」

「もう終わったよ」

「そうみたいだね」


 そう言うとさっさと気持ちを切り替えたようで、再びパソコンに向かう。

 私も湊くんの斜め向かいにある自分のデスクに行き、引き出しを開けるとちゃんとそこに携帯は残されていた。


「あー、よかった」


 ここにあるはずだと思っても、手にするまでは落ち着かなかった。この個人情報の塊が万が一なくなっていて、落としたのか盗まれたのかわからなかったら、おちおち寝てもいられない。

 ホッとしてイスに座り、エントランスの自動販売機で買ったペットボトルのお茶を飲む。偶然ながらその角度は、湊くんが真正面に見えた。前髪とメガネに阻まれて、彼の表情は今日もよくわからない。


「仕事忙しかったの?」


 ゆっくりお茶を一口飲んでも返事は返ってこない。


「ねえ」


 こんなに近い距離で呼んでいて、イヤホンをしているわけでもないのに、湊くんの耳には届いていないらしい。


「ねえ! 湊くん!」


 ほとんど叫ぶように呼びかけると、少しだけ目を見開いて私を視界に入れた。


「……俺?」

「他に誰がいるのよ」


 いつもならもっと残業している人はいるけれど、今日は飲み会があったからみんな帰ってしまっている。


「飲み会忘れるくらい仕事忙しかったの?」


 湊くんは、私と手元の中間あたりに視線をさ迷わせながら少し考えた。


「これ、やってたら楽しくなっちゃって、つい」


 重い身体でのそのそと湊くんのデスクに行くと、パソコンにはたくさんのグラフが並んでいた。


「……これ、自分で作ったの?」

「やり出したら深みにハマって。趣味みたいなものだから残業は申請してない」

「それはどっちでもいいけど、うわー、細かい。ここまでやらなくていいのに」


 過去の健康診断受診状況は、ざっと人数やパーセンテージを表にする程度でいいのに、人間ドッグの受診件数や予防摂取助成申請なども含め、年齢や性別ごとに細かいグラフまで作成されていた。


「それはそうだけど、数字見てるだけで楽しいっていうか」

「えー、数字とか面倒臭いよ」

「感覚主体で生きてるよね、今井さんは」

「それ、褒めてないよね?」


 否定も肯定もせず私を放置して、彼はまたパソコンに数字を入力している。飲み会すっぽかすほどのめり込むようなものだろうか。まったく、変わった人だ。

 放置された私は、湊くんの量の多い髪の毛(滝島課長に分けてあげればいいのに)の、切りそろえられたラインを視線でなぞった。男のくせに色が白くて、天使の輪を載せた真っ黒な髪との対比で、うなじが妙に艶めかしい。同じように白い耳も、指でラインをなぞりたくなるようなとてもいい形をしている。姿勢のいい湊くんは、安物ながらスーツのサイズがきっちりと合っていて、後ろ姿なら格好よく見えなくもない。滝島課長の裏面印刷は湊くんにしたらいいと思う。

 左斜め後ろから見る姿は、メガネのフレームが見えるだけで表情はわからない。繊細な印象の左手は長い指が軽やかに動いてとてもきれいだ。その左手が止まり、口元に添えられる。微動だにしなくなったのは、何か深く考えているからだ。湊くんは思考に集中すると、じっと動きを止めて考えに耽る傾向がある。きっと今も焦点が定まらない目で、頭の中を見ているのだろう。


「ねえ、湊くん」


 何事か考えているときの湊くんはら、だいたいいつも反応しない。


「湊くん」


 私を残して時間が止まったのかと思うほど、ピクリとも動かない。


「湊ぉぉっ!」


 再び大声を出したのに、それでも一拍遅れて振り返った。


「……俺?」

「だから他に誰がいるのよ」


 振り返った顔はやっぱりイケメンでも何でもなく、いつもの見慣れた湊くんだった。


「今まで確認したことなかったけど、湊くん、彼女いる?」

「いない」

「だろうね」

「失礼だな」

「じゃあキスしても問題ないよね」


 やっぱり私ひとりを残して時間が止まってしまったらしい。湊くんは生理現象であるはずのまばたきすらしていないのだから。


「…………………………………酔ってる?」


 時間はしっかり流れていた。


「飲み会帰りだからね」

「なんでそうなるの?」

「いろいろあって、過去を消し去りたい気分って言うか」

「ああ、『振られた』って騒いでたっけ」

「『振った』の!」

「誰でもいいなら他を当たって欲しいんだけど」

「誰でもいいわけないじゃない。湊くんがいい」


 脳を介さず脊髄反射で会話していたら、私自身も思いがけない事態に発展していた。あいつとのキスを上書きしたいのは本心だけど、まさか本気で相手を探していたわけではない。それなのに、湊くんを見て、何かのスイッチが入ってしまった。アルコールが自制心まで泥酔させている。


「キスだけだから。すぐ済むから。入社したとき手伝ってあげた恩を返すと思って! お願い!」


 拝むように手を合わせ、どこの色情魔かというセリフを、酔いに任せて同期に吐く。


「俺よりもっと適任がいると思うけど」

「湊くんがいいんだってば! 他のひとじゃヤダ」


 さすがの湊くんも動揺しているらしく、しばらく固まっていたけれど、何も言わずにイスをクルリと回転させて私と向き合った。そしてそのままじっと座っている。呆れているのか、驚いているのか、恐らく両方だろう。だけどこの態度を、私は都合よく了承と受け取った。膝の上に乗り、吐息がかかる距離で一応確認する。


「セクハラで訴えたりしない?」

「そんな面倒なことしない」


 合意は得たので、気持ちが変わらないうちに、と動かない彼の唇に口づけた。湊くんの唇はカサついて、少し堅くて、置物のように何の反応も示さなかった。キスを深めようとすると、拒絶するようにメガネが邪魔をするので、一旦離れてそのメガネをはずした。


「重ね重ね申し訳ないんだけど、もう少し反応してくれる? これじゃあ衝突と変わらないもん」


 湊くんはやっぱり答えず、ゆっくり一度まばたきをした。そのタイミングでもう一度口づける。今度は私を受け入れるように少しだけ口が開いた。それでも物足りなくて、薄く開いていた湊くんの目と目を合わせる。


(もっと本気出してよ)


 下唇を噛みながら目でそう訴えると、視線を外すようにして湊くんは顔の角度を変えた。その途端、ただの衝突は突然キスに変わった。

 絶叫マシーンで落ちる時みたいなぞわっとしたものが背中を通った。びっくりして、つい離れてしまう。


「……あ、ごめん」


 ここでやめられたら困るので、あわててもう一度唇をつける。それはもう乾いて冷たいものではなく、とろりと馴染むあたたかみを持っていた。キスを深めると、熱を分け合うように受け入れてくれる。私から一方的に始めたキスなのに、湊くんの手は私の背中と後頭部に回っていて、求められているような錯覚に陥る。私もシャツの襟を掴んでいた右手をはずし、髪の中に差し入れると、サラサラと心地よい感触が指の間を抜けていった。もっと、もっと、と思っても、キスにできることなんてたかが知れていて、指先まで湊くんで満たすには全然足りない。心の中の渇望は、むしろどんどん大きくなっていくようだった。こんなボランティアではなく、湊くんの本気のキスはどんな風なのだろうと思ったとき、唐突に唇は離れた。

 余韻に染まる目で見上げ、もう一度近づこうとしたのに、湊くんは逃れるように顔を逸らして、デスクに放り投げてあったメガネをかけた。突然元の同僚に戻ってしまった湊くんを前に、私はなすすべがない。名残を惜しむ身体を引き剥がし、そろりとその膝を降りた。


「えっと、ありがとうございました」


 湊くんはパソコンの方を向いたまま、左手の中指でカチャッとメガネを直した。


「こちらこそ、ごちそうさまでした」


 少しだけ待ってみたけれど、それ以上何か言いそうもなかったので、私は挨拶もせずにフラフラと会社を出た。

 居酒屋を出た後でもしっかりしていた足取りは覚束なく、何百回と通っているはずの通りさえ違うもののように見える。ずいぶん深まった春の夜は、私の体温を下げるほどの冷気を持っていなかった。

 何気なく手をやった髪の毛が後頭部だけ乱れている。その理由に思い至って、残っているはずのない熱と指の感触を探す。けれど、感じるのは少し傷んだ髪の乾いた手触りだけ。

 自宅マンションのドアをくぐってしまうと、玄関マットの上に膝から崩れ落ちて動けなくなった。飲み過ぎたならウコンを飲むけど、身体の中で渦巻く得体の知れない何かを、消化する方法がわからない。

 取りに戻ったはずの携帯電話を忘れたことには、寝る前に気づいた。けれど、元彼のことをすっかり忘れていたことには、気づきもしなかった。上書きどころか、きれいさっぱり洗い流されていた。

 これが湊くんとのたった一度のキスの思い出。

 その夜私はあんなに酔っていたにも関わらず全然眠れなくて、何度も指で唇を触った。目を閉じれば湊くんの顔が浮かぶから眠れない。

 見慣れたはずのちょっと不機嫌そうな無表情が、私の呼吸を浅くする。あくまで戯れだったはずのキスは、これまでの経験を全部忘れるくらいに気持ちよかった。こんな気持ちで次に湊くんに会うときは、いったいどいういう顔をしたらいいのだろう。出勤すれば顔を合わせる存在だから、会いたいなんて思ったことはない。そもそもそんなことを考える相手ではなかった。今は、会いたいのか会いたくないのか、どっちなのかわからない。

 翌日の土曜日は、二日酔いと睡眠不足で一日グダグダだった。ところが胃の奥に溜まったもやもやは日曜日になっても月曜日になっても収まらない。

 ……これは、二日酔いではないのか。

 胃に重みを感じながら出勤すると、今朝も社長が元気にエントランスの清掃に精を出していた。社員全員が頭を下げて通過していく。


「社長、おはようございます」

「はい、おはよー」


 その中に、先日じっくり観察したばかりの背中を発見した。課に着く前なので油断していたのに、いきなり遭遇してしまい、その数m後方で重い足が完全に止まった。


「おはようございます」

「あ、湊くん。最近どう?」


 社長に呼び止められ、湊くんは相変わらず愛想のない顔と声で向き合っている。


「だんだん調子が戻ってきました」

「そう。それはよかったね」

「ありがとうございます」


 せっせと掃除に戻る社長の横を通り過ぎた湊くんが、受付前で再び足を止めて、落ちていた何かを拾い上げた。その隙に、と私は湊くんの横を通り過ぎようと足早に歩き出す。ところが、湊くんが何かを探してキョロキョロしたせいで、目が合ってしまった。


「あ、おはよう」


 さすがに無視するわけにいかず、気まずい空気を放ちながら挨拶をした。湊くんは私のそんな態度に気づいているのかいないのか、いつもと同じ無表情でつかつかと近づいてくる。


「おはよう。はい、これ今井さんに」


 うつくしい左手で、私に小さなピンク色の花を一輪差し出した。湊くんの目を見たまま条件反射で受け取ると、その目がわずかに弧を描く。


「これ、ゴミじゃない!」


 受付にある装花から落ちたのだろう。花の付け根からポッキリ折れているから花瓶には戻せない。だから湊くんもゴミ箱を探していて、見つけたのが私。それが事実である証拠に、渡した途端逃げるようにして先を歩く背中が、笑いを堪えて揺れている。私は眉間の深い皺と共にそれを見送った。

 湊くんは知らないみたいだったけど、私は受付の内側にゴミ箱があることを知っている。そこに捨てようと一歩踏み出して、結局そのまま課に向かった。手に持ったままのピンクの花は弱々しく、きっとほどなくしぼんでしまうだろう。そう思うのに、飲み終わったコーヒーの紙コップをすすいで水を入れ、その花を浮かべた。


「何やってるんだろうね」


 捨てられなかった。私にくれたものではなく、ただゴミが邪魔だっただけだとわかっていても。

 情緒の欠片もない紙コップから顔を上げると、今日も重苦しい前髪とメガネで顔が隠れた湊くんが見える。


「嘘みたい。湊くんだよ?」


 うれしいような、悲しいような、私の意志をすべて無視して全身を支配してしまう、この気持ち。

 ━━━━━私、湊くんが好きになってしまった。






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