▲5手 lost

 パソコンディスプレイと電話の向こうに、湊くんの淡々とした顔が見える。すべての感情を電子化して処理し切ったようなその顔を眺めていると、時計を確認した湊くんが書類をまとめてクリアファイルを手に取る。そして、眉をひそめて私を睨んだ。今日も私は、湊くんが使っているクリアファイルを、全部かわいらしいキャラクターものにすり替えておいたのだ。

 しかし湊くんは、ウィンクしているピンク色のうさぎ(保険屋さんからもらった)をじっと見てから、


「これは別にきらいじゃない」


 と言った。


「え! じゃあ、こっちは?」


 セクシーなネコのクリアファイル(コンビニのキャンペーン景品)を示すと、


「それもいい」


 というので、つまんないな、と座り込んだ。私の体重を受け止めたイスがギャッと鳴く。ところが、いくつか確認した湊くんは、パンダのクリアファイル(雑誌のおまけ)だけ返してきた。


「これはダメ。本気っぽいから」

「本気っぽい?」

「他のはかわい過ぎるから、逆に『クリアファイルの柄になんて、いちいちこだわらない俺』って設定が通じるけど、パンダは本気で好きだと思われそうだからいや」


 ごく主観的な判断で、湊くんはピンクのうさぎと一緒に打ち合わせに行ってしまった。多分、ピンクのうさぎでも本気で好きなんだと誤解する人はいると思うけれど。

 というわけで、本人不在の隙に、机の上に置いてあったペットボトルに、パンダ柄の保冷カバー(お茶の景品でついてきた)をかけておいたことは言うまでもない。

 こんな風に、湊くんと私の毎日はまったく変わっていなかった。変わったことといえば……


「あ、湊くん!」


 私の声を聞くなり、湊くんは自動販売機を破壊する勢いでボタンを叩く。 


「危ないなぁ。今、本体がちょっと揺れたよ」

「あ、コーヒー濃いめにするの忘れた」

「ばっかだねぇ」

「誰のせいだよ」


 湊くんは、誰かに自動販売機のボタンを押されるのを恐れるようになった。変化といえばその程度。


 私と湊くんが所属する総務部事務課は、何でも屋みたいなところがあって、どの部にも属さない曖昧な仕事はたいてい回ってくる。それは構わないけれど、休日出勤を要するような場合、いやな顔をするくらい許してほしい。


「今井さん、残業代に休日出勤手当もつくんだから。ね?」


 今日も滝島課長は、雲間から差す光ような極上のキラースマイルで私をなだめる。


「いやだなんて言ってませんよ。快くお引き受け致します」

「その顔で言われてもな」


 苦笑するだけで書類が濡れそうなほどの色気が漂ってきて、入社初日ならばコロリと恋をしていたかもしれない。

 私に課せられたのは、日曜の午前中に手鍋合計五十個を、百貨店に搬入することだった。その百貨店でさまざまな調理器具を集めたイベントが催されるらしく、緊急で追加の注文が入った。通常なら工場から直接送られるのだけど在庫がなく、土曜日にギリギリ仕上がるとのこと。翌日曜日は配送センターが休みなので、私たち事務課の人間がバンで運ぶことになったらしい。ご注文ありがとうございまーす。


「荷物の搬入なら私ひとりじゃ無理ですよ」

「だから湊さんと一緒だよ。彼からは了承を得てるから」

「課長、快くお引き受け致します!」


 すっかりデート気分になった私は、うれしくなって三歩ほどスキップをした。


「今井さん……痛い」


 いや、でも湊くんのことだから、「帰りにデートしよう」と言っても、「ごめん、無理」と断りそうだ。


「ねえ、今井さん。足踏んでるよ……」


 ここは浮ついた気持ちは隠して、あくまで仕事に徹してるフリをし、その後さりげなく食事に誘うのが確実性が高い。そう考えて、目の前にいる人に質問してみる。


「岩本さん、社用車で仕事帰りにデートしたら業務上横領(ガソリン)になりますか?」

「大袈裟だな。ものすごく遠出したら怒られるかもしれないね。でも少し遠回りして食事するくらいなら、別に構わないでしょ」

「そうですよね。ありがとうございます!」


 私は飛び上がるように弾んで席へ戻った。


「あー! 今井さん、痛いって!」


 気象庁がどんなに認めなくても、私が梅雨明けを宣言する。 服を着るのさえ鬱陶しい暑さなので、生地は綿しか選択肢はないけれど、カットソーは女性らしいラインのピンク色を選んだ。それでも仕事の都合上、デニムと軍手は変えられない。湊くんも当然デニムにTシャツだった。ところが、


「今日は二浪生に見えないね」


 Tシャツは白地で、前みごろは大きいチェック柄。照りつける太陽の下で、想像していたよりずっとさわやかだった。


「二浪生じゃないから」

「だってサラリーマンには見えないよ。大学生にも見えないし。浪人生が一番しっくりする」

「……今井さんって脳使わないで話すくせに、ときどきものすごく的を射る━━━━━うわっ!」


 失礼な発言には、緩衝材を投げつけるに限る。

 前日のうちに、バンには工場の方で鍋を乗せておいてくれたので、私たちは百貨店に運び込むだけでいい。休日に出勤すること以外は楽なものだ。


「お願いがあるんだけど、運転は今井さんがしてもらえないかな?」


 男手があれば付き添い程度でいい、と思っていた私の目論見を見越したように、湊くんはそんなお願いをしてきた。


「なんで? 湊くんってまさか運転免許も持ってないの?」


 うちの課は社用車の管理も担当しているので、運転免許は必須だ。


「免許は持ってるけど」

「ペーパードライバー?」

「それに近いかな。なるべく車は運転しないようにしてる」

「えー! 私だってバンの運転なんて慣れてないよ。できるなら湊くんが運転して」

「俺の運転は事故を起こす確率が高い」


 湊くんは、データ分析の結果報告みたいに言い切った。


「そんなに下手なの?」

「技術的な話じゃない。運転中って、どうしても考え事してぼんやりしちゃうんだ。昔、赤信号を全部無視してたらしくって、それ指摘されてから運転やめた」


 いったい何をどれだけ考えたら、赤信号全部無視なんてことになるのだろう。だけど悲しいことに、表情を変えずに赤信号を突っ切る湊くんが、ありありと思い描けた。


「わかった。私が運転する。その代わりナビはよろしくね」


 鍋五十個がガタガタ騒ぐバンを発進させて、とりあえず高速を目指す。


「高速に乗るところまでは行けるけど、その後わからないからナビ設定してくれる?」


 実家は田舎で車の運転は必須。だからそれなりに慣れているつもりだけど、都内でしかもバンの運転ともなると、のんきな会話をしかける余裕もない。キョロキョロと落ち着きなく辺りを確認しながら、どうにか高速に乗って、ようやく肩の力を抜いた。そしてすっかり忘れていた助手席の存在を思い出す。


「あれ? ちょっとちょっと! 何してるの?」


 湊くんはナビの設定もすることなく、のんきにテレビなんか観ていた。余程集中しているのか返事もしない。


「おーい、湊くーん。おーい。おーい! おい! 湊っ!!」


 バシバシ叩くと、魚が跳ねるみたいにビクッと反応した。やっと事態に気づいたらしい。


「何してるの。ナビ設定してよ」

「あ、ごめん」


 湊くんは慌ててテレビ(しかも、そんな番組観る人いるの? ってくらい地味なやつ)からナビ画面に切り替えて、電話番号検索をしている。


「本当に車だとぼーっとしてるんだね。湊くんこの仕事不向きじゃない?」

「うん。トラックとかタクシーの運転手はできないと思う」

「じゃあ何でこんな仕事引き受けたのよ。罰としてお昼おごって!」

「……何がいい?」


 気づけば、デートの約束を取り付けることに成功していた。無欲の勝利!


「おいしいもの!」

「またそういう面倒な……」


 心底面倒臭そうに、湊くんは窓の外を向いてしまう。車の間を縫って走るバイク便を、死んだ魚のような目で見送っていた。

 私は図々しい性格だと自覚しているけど、それなりに空気は読むし、拒絶されればちゃんと傷つく。だけどどうして湊くんだと、うるさいなぁ、という沈黙さえ、うれしくなってしまうのだろう。

 好きな人を乗せた運転は、鍋の音さえ弾んで感じられる。


「湊くんって、デートでも蕎麦屋に来るの?」


 ちょうど昼時。満席の蕎麦屋で、苦手なひじきの煮物をこっそり湊くんのお盆に移しつつ詰め寄った。湊くんは、ここしか知らない、と小さな蕎麦屋さんに連れて来てくれたのだ。ここの定食は、ミニ蕎麦にミニサイズのご飯ものがつくらしく、私は唐揚げと白ご飯、湊くんは海鮮丼を頼んだ。蕎麦はお互いに冷やし蕎麦。


「これはデートじゃない」


 湊くんはひじきの小鉢と私を交互に見たあと、自分の小鉢に中身を移して、空っぽの小鉢を返して寄越す。


「じゃあ湊くんがデートした場所ってどこ?」


 自分の蕎麦に一味を振ってから、それを湊くんに渡す。


「教えない」

「もしかして、デートしたことない?」

「教えない」


 身を乗り出す私を軽くいなして、一味を元の位置に戻し、軽く手を合わせてから早速蕎麦をすすり始めた。


「休みの日は何してるの?」

「別に何も」

「趣味とかないの?」

「ない」

「学生時代に部活してなかった?」


 ずずーっと勢いよくお蕎麦をすすり上げて、とうとう返事もしなくなった。


「つまんなーい。あっっっつ!!」


 ふてくされて勢いよくかじりついた唐揚げが、思いの外熱くて、きっと今歯を火傷した。しかし、テーブルの上には夏だというのに熱いそば茶しかない。涙目で視線をうろつかせていたら、湊くんが給水機から冷たいお水を持ってきてくれた。私の方にコップを滑らせると、また黙々と海鮮丼を口に運ぶ。


「……ありがと」


 お水で多少落ち着いたけど、口の中はヒリヒリしたまま。強制的に黙らされた私は、しばらくの間黙ってご飯をいただくことになってしまった。

 飲み会なんかで何度も一緒に食事したのに、こうやってふたりきりは初めてだった。いつも俯き気味なくせに不思議と姿勢は良く、キリッと伸びた正座で、きれいな手がスイスイ蕎麦を運ぶ。


「今井さん」

「ん?」

「さっきから何見てるの?」

「湊くん」

「……見なくていいから食べれば?」


 顔を背けられ、仕方なく蕎麦に箸を入れる。


「ねえ、湊くん」

「なに?」

「私、湊くんに振られたよね?」


 蕎麦つゆでも鼻の奥に入ってしまったのか、湊くんが苦しそうに咳込んだ。私は紙ナプキンを渡して背中を叩く。少しして落ち着いた湊くんが、感謝する素振りをみせたので、自分の席に戻る。湊くんの方は呼吸を整えつつ、ぬるくなった蕎麦茶を飲んでいた。


「今井さんって遠慮ないよね」

「なかったことにするつもりだった?」

「いや、あれは現実だから」


 残念。やっぱり現実だったらしい。口を尖らせて蕎麦を咀嚼する。蕎麦に不満はない。おいしい。


「湊くんに言われたことはもちろんちゃんとわかってるのに、なんか失恋したこと忘れちゃう」


 湊くんは少しだけ私の方を見ていたけれど、再び蕎麦をすすり始めた。


「うー、もう無理」


 いくらミニサイズとは言え、蕎麦に唐揚げ、白ご飯、サラダ(あとひじきの煮物とお漬物)は多すぎる。蕎麦だけなんて腹持ち悪い、という男性向けの商品だったに違いない。お得だからって流された私が悪かった。

 お盆の上にため息を落としていると、目の前からすっと手が差し出される。


「よかったら、残り食べる」

「いいの?」

「最初からどうせ無理だと思ってた」


 歯型のついた唐揚げはさすがに自分で食べて、私のお盆と、空になった湊くんのお盆を丸ごと交換する。他人の残したものなんて、普通は嫌だと思うのに、当たり前みたいな顔で平らげていく。


「ねえ、湊くん」

「なに?」

「私たちって、キスしたよね?」


 ばちん、と音をさせて湊くんは口を手で押さえた。反対の手で、待て、と私を制する。


「……今井さん、本っ当に遠慮ないね」

「夢じゃなくてよかった」

「夢だよ、あれは」

「感慨深いな。ついに湊くんとデートなんてさ」

「デートじゃない」

「だってこれ仕事じゃないし、デートでしょ」

「デートじゃないから」

「あれ、湊? 久しぶり。デート中?」

「だからデートじゃないって」


 返事をしてから、湊くんはびっくりしてご飯から顔を上げた。ちょうどお会計を終えた男性グループのひとり、メガネをかけた理知的な雰囲気の若い男性が、隣に立っている。


「……………え?」


 表情に乏しい湊くんの、こんなに驚いた顔は珍しい。それに反して、男性は懐かしげに穏やかな笑顔を向けている。


「就職したって聞いたけど本当?」

「え、ああ、うん」

「仕事はどう? 慣れた?」

「まあ」

「この前の見たよ。調子いいみたいだな」

「普通だよ」


 部外者なのに聞くのはよくないかな、と思ってお茶を飲みつつ視線を外す。


「謙遜するなって」

「別にしてない」


 私の質問に答えるとき同様に、湊くんの返事は簡素だった。だけど面倒臭いとか適当にあしらっているわけではなくて、親しさゆえの素っ気なさのようだった。男性も気軽な調子でポンッと肩を叩く。


「元気そうでよかった」


 所在なげにぼーっとしていた私にも、男性は紳士的に頭を下げた。


「湊のこと、よろしくお願いします」

「あ、はい」


 ポカンとしたままこちらも頭を下げると、男性は満足そうに笑って帰っていった。その背中が引き戸の向こうに消えてから、ようやく湊くんは冷めた白ご飯を食べ始める。


「えーっと、誰? って聞いてもいい?」


 いつもみたいにズケズケ質問できる雰囲気ではなくて、控えめにそう聞いてみた。


「昔の知り合い」

「『調子いい』って何のこと?」

「さあ」


 私の質問に、湊くんはいつも面倒臭そうな顔をする。それすら面白くて好きだけど、今はあまりに真剣な顔をするから踏み込めない。湊くんは次々ご飯や唐揚げを口に詰め込んで、言葉を発しなかった。


「それでね、母からの誕生日プレゼントが、手作りの茶碗だったの! もう最悪!」

「何がダメなの?」

「あの不器用な母親が、繊細なものなんか作れるわけないんだよ!中途半端なサイズでね、まさに帯に短し襷に長し。茶碗には大きく丼には小さいの」

「今井さんはお母さん似なんだね」

「はい、-1ポイント! 運転終わったら仕返し考える」


 私の残りを食べ終えた湊くんに、ご馳走さまでした、と頭を下げたら、目の前に手のひらが差し出された。


「えー! やっぱり払えってこと?」

「違う。車の鍵貸して。帰りは俺が運転するから」


 なんだそうか、とバッグに入れていた鍵を差し出しかけて、


「……事故、大丈夫?」

「大丈夫だと思う。だけど一応絶えず話しかけて。……それは、頼まなくてもいつもそうか」


 失礼なやつは鍵を投げつけられても……と思ったけど、さすがに鋭利なものはそっと手のひらに乗せ、命を預けたのだった。

 もちろん言われなくても湊くんには話しかけるけど、こんなに長い時間ふたりきりなんてなかったので、思いの外話題に困った。仕方ないので、とにかく私の近況をベラベラと、落ちもとりとめもなく話つづけている。


「しかも重いし、よく見たらあちこちに指型までついてるの。お茶碗ってちゃんと手で持って使うものなのに、あんなのすぐに疲れて、食べるのがいやになるよ。きっちり電話で文句言ったのに『世界でたったひとつだけのオンリー碗だよ』だって! あ、このダジャレは身内の恥だから極秘ね」

「やっぱり今井さんはお母さん似だ」

「-2ポイント!」


 話を聞いた時は不安だったけれど、湊くんの運転はとても安心できるものだった。別にぼーっとしているような様子もないし、急ブレーキ急ハンドルもない、むしろやさしい運転。私は危険だったことも忘れて、すぐに会話に夢中になっていた。


「使わないからしまってるんだけど、変に大きいから場所も取るんだよね」

「『オンリー碗』……」

「それは忘れて! -3ポイント!」


 本っっっ当に邪魔なだけの茶碗なのだけど、湊くんが笑ってくれたから初めて茶碗が役立った。


「あんなもの誰も欲しがらないじゃない? やっぱりオンリーワンになんて価値ないんだよ。ナンバーワンの方がいいに決まってる。そう思いながらしみじみ眺めていたらね、『母が作った重くて誰も欲しがらないオンリーワンって、まるで私のことみたい』って思えてきて、なんか憐れで。誰か引き取ってくれないかな。あれ? ここどこ?」


 流れていく景色は、今朝私が運転してきた道とは全然違う。どこだかわからない裏道を、ぐるぐる回っている気がする。


「どこだろうね」

「え? 迷ったの?」

「うん」

「ちょっと早く言って! ナビ設定するから」

「いや、いい」


 ナビ画面に手を伸ばしかけた私を、湊くんが声で制する。


「だいたいの位置はわかるから、そのうち着く」

「そのうちって悠長な」

「急ぎの用事でもあるの?」

「ないけど」

「じゃあ、すぐに帰りたい?」


 その質問は、意地悪だ。


「……帰りたくない」


 湊くんと一緒なら、永遠に迷っていたい。あとで課長に叱られたって構わない。


「ごめん。迷ったから-4ポイント? お詫びにオンリー碗は引き取るよ」

「あんなのいる?」

「聞いてたらむしろ欲しくなった」

「やっぱり変わってるね。明日会社に持って行くから、飽きたら捨てて」


 仕事とくくるにはあまりに幸せな時間だった。遠回りも迷うことさえも、湊くんとなら楽しい。

 迷って遠回りして、それでもいつか願う場所にたどり着けるなら、それでいいと思っていた。






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