10.十年前(2)
暗がりに少女は目を覚ます。白い円卓から頬を浮かせ、周囲を窺う。肩からブランケットが滑り落ちた。
ガラスの温室に、月光が満ちている。円卓の向こう側、石畳の床に、白い布の固まりが落ちていた。少女は床へ足を下ろす。薄桃色のサンダルに足裏が触れ、冷たい感触がした。瞼をこすりながら歩き、ガラス戸を押し開ける。
気配を感じた。芝生に、人影がある。誰かが背中を向けて立っている。子供なのか、大人なのか。月光は淡く、薄暗い人影は判別できない。ただ立ち尽くしている。
風が頬を撫でた。潮の香りがする。温室の中では気づかなかった、波の音がしている。半袖のワンピースから伸びた腕を、無意識にかきあわせた。
少女は温室をふりかえった。円卓の足元に、白い布が落ちている。あれは、フリルのワンピースではないか。昼間、波打ち際にいた母は、あのワンピースを着ていなかったか。
歩く。サンダル越しに芝が足裏をくすぐる。どうやら、あの背中は少年らしい。十代半ば、高校生だろうか。気配を悟ったのか、人影がふりかえる。
月の光を反射して、頬が光った。少年は泣いていた。すぐに少女から顔を背け、手の甲で目元を拭う。
波が、絶え間なく夜の大気を震わせている。少女は、少年の隣に並んだ。石段が砂浜へ続いている。海は光を吸いとったように暗い。静かに月が照っている。遠い岬の松林は暗く、水平線と見分けがつかない。
「大人って、バカだよね」
独り言のように、少年がつぶやく。しかし、少女はすでに石段を下り始めていた。だから、その後に続く少年の言葉を耳にすることはなかった。
「ナイフで刺されて、笑うわけないのに」
握り拳を見下ろす。少年の手は、プラスチック製のケースに包まれたフィルムを握りしめている。
遠く波打ち際、女が倒れている。白いブラウスに黒のロングスカート。波が肩まで押し寄せている。その傍ら、誰もいない籐椅子が、波にさらわれそうになっている。
少女は砂浜を歩いていく。月の光に、それは淡く青い幻のようにみえる。砂浜をみつめていた少年は、やがて踵を返すと立ち去った。
アブラクサスの狭間 小田牧央 @longfish801
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