9.現在(3)

 ソファから立ちあがると、英は本棚へ歩いていった。背の高さにある棚から、ブロンズ像を手にとる。

「ですが、実際はそのとき、溝口は殺されてなどいませんでした。母は純粋に、篠入さんの夢を面白がって自動書記をしてみただけでした。二階へ母が去り、ここに篠入さんは残りました。そこへ、戻ってきた溝口に、篠入さんは」

 無言で英はブロンズ像をふりあげ、ふりおろした。

「台座の平たい面で殴ったので、岩にぶつかってできた傷と見分けがつかなかったようですね」

 すぐそこにいるはずの英は、薄暗さに表情がぼんやり鈍っている。

「父には、動機がありません」

 闇に向かって話しかけているような気がした

「母が、溝口を殺していないとわかったからです」

 薄闇の向こうから、英がブロンズ像を本棚に戻す音がした。

「別荘にいたのは三人だけです。母が殺していないのなら、残りは自分しかいない。篠入さんはそう気づいた。だから、です」

「それ、溝口さんが殺されることを前提にしてませんか」

「篠入さんがみた夢はふたつありました。ひとつはさきほど説明した夢、もうひとつが」

 本棚の前に立ったまま、英がローテーブルの写真を指差す。

「その光景です」

 ローテーブルの上にある写真。パナマ帽を深く被った男。

「母を殺した後で、寝椅子に横たわってほしいと溝口に頼んでも断られるでしょう。勘違いしないでください。母と違って、篠入さんはオカルティックな解釈などしていません。篠入さんはただ、その光景を構成したかったコンストラクティッドんです。母をナイフで刺し殺し、溝口にパナマ帽を被せ、砂浜に運び、カメラと寝椅子を運び、ファインダーを覗いて」

 うつむき、英は唇を歪めた。

「そして、ミスに気づいた」

 欠けていたが閉じるのを、桐花は感じた。

「精神的な打撃を受け、篠入さんは狂気に陥った。その後の行動の杜撰ずさんさがそれを物語っています。溝口の死体を崖から投げ落としたのはよかったですが、ブロンズ像を洗いもせず、他のものとまとめて鏡台に隠したのはあまりにひどい。母に至っては砂浜に放置されたままでした。もう、隠蔽することなど篠入さんにとってはどうでもよかったんでしょう」

「写真のために人を殺した時点で、狂っていたとしか思えない」

「そうですね、確かにそうです。でも、それが篠入春夫という写真家の、写真に対する答えでもあったんです」

 陽が落ちたのだろうか、ラウンジは暗く翳っている。その声はまるで英の口からではなく、闇そのものから響いてくるように感じる。

「ありのままを写しとるべきか、それとも加工してでも理想の光景を創りあげるべきか。これは写真技術の黎明期から続く命題です。一八三九年にフランスで講演されたダゲレオタイプの撮影技法はその年のうちにエジプト、アメリカまで広がりました。写真は芸術となりうるのか論争され、三十枚以上ものネガを合成して絵画を模した作品が創られました。富裕層を対象とした肖像画は肖像写真に代わり、そしてその肖像写真はまるで肖像画であるかのように水彩で補筆され加工されました。人間の視覚的光景を機械的に写しとれることこそが絵画にはない写真の本質とされ、都市の変遷、海外の珍しい事物、戦争の犠牲者、あらゆる事物が記録されました」

 暗がりに、ぼんやりと映像が浮かんでくる。

 在るはずのない光景が、遠い彼方へ消えた幻影が。

「絞りとシャッター速度を調整する行為と、被写体を人工的に構成することとの間に決定的な差異が本当にあるのか。それが篠入さんの疑問でした。肌の白い外国人がいるのを忘れて難民が笑顔をこぼす一瞬を四六時中待ち続ける写真家は、果たして『ありのまま』を撮っているでしょうか。ノンフィクションにとって最大のレトリックは、それがノンフィクションと呼ばれることです。初期の『甘い』夢幻的光景は、それが人為であることを意識した瞬間に色褪せます。後期、篠入さんは写真にミステリーが刻まれた暗示的光景によってフィクションの褪色効果から逃れようとしました。しかし、それでも数々の写真家がつきつけるストレート・フォトの輝きが瞳を刺す。なぜありのままの世界は美しいのか。そして人はそれを永劫に超えることができないのか」

 夜の砂浜、音のない月。少年の瞳、頬に光る涙。

「そして到達したのが、その光景です」

 暗闇の語る声の甘やかさ。

「幻でしかない夢の光景、それを現実に構成する殺人という意志。幾層にも重ねられ、対概念を積みあげた視線の迷宮。考えてみてください、その写真は本当にコンストラクティッド・フォトでしょうか? たしかにそこには篠入さんの意志があります。その光景を構成するためにの命を奪いました。それでいて、その源は夢という人間の意識では制御できない映像です。あの人は、構成するもののために構成されてしまった。カメラのために構成行為を代行する付属機械になってしまった。人間の意志とこの世界の美しさの狭間に境界など無いことを示してしまったんです」

 桐花はすべてを理解した。

 身を屈め、ローテーブルから写真と、銀色の卓上ライターを手にとる。

「これを撮ったのは」

 金属音。咲く炎。

ですね」

 闇が笑った。

「十年前、撮影の後でネガを渡しました。その写真を桐花さんに送ったのは間違いなく、篠入さんです」

 ライターの炎が、写真の角をなぶる。炎に包まれてゆくそれを、桐花は陶器の灰皿へ投げこむ。

「いいんですか?」

 桐花は応えない。闇に押し潰されていくそれを、ただ静かにみつめた。モノクロームの光景、胸をナイフで刺された女。炎に包まれてゆくを、いつまでもみつめ続けた。

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