8.十六年前(2)

 柱時計が二時十二分を指していた。

「ハルさん」

 気配を感じて、春夫はふりむいた。黒いネクタイの襟元をいじりながら、溝口泰敏が扉口に立っていた。

「起きたのか」

 顔は浅黒く日に灼け、上着を腕にかけている。ワイシャツが身体にフィットし、引き締まった身体つきがわかる。足を数歩進めながら、溝口はラウンジを見渡した。

「あいつは?」

「宮月さんなら、上に」

 遠くから蝉の声が聞こえる。春夫が怪訝な顔をしていることに気づき、溝口が「タイピンを忘れちまった」と言った。

「夏の葬式は、急がんとな」

 白い歯を見せて溝口は笑った。手の甲を額にあて、滲む汗を拭う。

「お知り合いが亡くなられたそうですね」

「大したことないさ。土地の付き合いっていうかな、別荘地でもそういうのはあるんだ。爺さんだったしな」

「泣いてましたよ、宮月さん」

 唇を閉じ、溝口は眼だけで笑った。上着を肘から手にとり、肩越しに背中のほうへまわす。踵を返し、扉のほうへ歩いていく。

 春夫は腕を伸ばした。ブロンズ像の頭部を、手の平に握りこむ。複雑な形状がしっくり手に馴染んだ。立ちあがり、歩きだす。

 玄関ホールに溝口がいた。階段に足をかけている。

「あの、ちょっと」

 どうした。溝口がふりかえった。春夫が手にぶら下げているものを目にして、きょとんとする。

 上から音がした。二人同時に、階上を見上げた。

 遊の姿があった。階段の手すりに、指先をかけている。とまどった顔で、溝口を見下ろしている。溝口も、無言で遊を見上げている。

 遠くにあるものを指すように、春夫はブロンズ像を掲げた。弓を引くように力を溜め、一気に解き放つ。ブロンズ像の台座で、溝口の後頭部を殴りつける。

 階段に足をかけていた溝口はバランスを崩し、後頭部を押さえながら腰を屈めた。春夫は再びブロンズ像をふりあげた。なにが起きたのか理解できない眼で、溝口は青銅の塊が迫ってくるのを見守った。頭皮が裂けたのか、台座に血がついている。側頭部の前寄りにそれはぶつかった。ふらふらと溝口は酔うような足取りで玄関扉のほうに数歩進んだ。篠入はブロンズ像を高く掲げ、打ちおろした。後頭部を殴られ、溝口は倒れた。

 腰を屈め、腕を伸ばし、杭を打つように春夫は殴打し続けた。同じところを何度も殴ったため、溝口の後頭部はへこみが生じていた。流れる血がブロンズ像の台座から春夫の手首までつたった。

 溝口が動かなくなった。春夫は立ちあがろうとした。そのとき、溝口の指先がわずかに動いた。春夫はもう一度屈むと、さらに数回殴った。再び立ちあがった春夫がふりかえると、階段の途中で崩れたように座りこむ遊がいた。蒼白の顔で、春夫をみつめている。

「宮月さん」

 右腕は血塗れだったため、左腕の袖で汗を拭いた。

「ナイフはどこですか」

 身構えるように胸元まで跳ねあがった遊の指先から、小さな紙切れが放たれる。宙をひらひらと舞い、床へ落ちる。

 紙片には文字が綴られていた。弱々しい鉛筆の線が、カタカナを綴っている。キリカ、という三文字がそこにあった。

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