4.十年前(1)

 額を汗が滑る。積もった埃に触れないよう気をつけながら、静かに歩を進める。透きとおるような午後の光線にレースのカーテンが輝いている。外界の圧倒的な光量が出窓のカーテンに絡めとられ、室内は薄曇りのように暗く熱だけが充満している。

 少女は腕を伸ばす。薄水色した半袖のワンピースから伸びた細い腕が、家具を覆う埃よけの布の裾をつかむ。そっと持ちあげ、隠れているものの正体をひとつひとつ確かめていく。書き物机、ベッド、石油ストーブ、衣装戸棚。

 麦藁帽のつばを左右から押しさげ、少女は円筒形の椅子に腰を下ろした。柔らかに座面のクッションが形を変える。気づかずに踏みつけた布が引かれ、かすかな音をたてて床に落ちる。少女がふりかえると、そこには鏡台があった。

 縦に細長い楕円形の鏡に、六才の少女は退屈にうんじた顔をみつけ、小さく舌をだす。笑顔を作り、麦藁帽からこぼれる髪を肩で払う。鏡台の抽斗ひきだしを上からひとつずつ開けては閉める。なにもなし、なにもなし、なにもなし。右側の開き扉を引く。

 なにかが落ちる音がした。床に転がったのは、ブロンズ像だった。高さは、大人の握り拳みっつほどあるだろうか。直方体の台座の上で、薄衣をまとうギリシャ風の少年。身体が錆で汚れている。

 汚れは、台座のほうがひどかった。指先を伸ばし、少女は戯れに台座の一辺を撫でる。目元に近づけ、その赤黒い汚れをまじまじとみつめる。

 少女は気づいた。これは、錆ではない。この汚れには見覚えがある。乾ききった血が、たしかこんなふうになる。

 床の上のブロンズ像を、再び見下ろす。赤黒いなにかは、台座を中心に飛沫しぶきが放射状に広がっている。まるで、なにかを殴ったような。なにかを殴り、血にまみれたかのような。

 開いた戸の奥にある品々が視界に入る。鉛筆、メモ用紙、アルファベットと数字が綴られた板、黒いハート形の木片。

 少女は立ちあがった。部屋を飛びでる。幅広の階段を転びかねない勢いで駆けおり、玄関ホールを横切ると外にでる。

 世界はダイヤモンドに照らされ、白く輝いていた。芝生を横切る。石段が浜辺へ続いている。遠い波打ち際に、母の日傘があった。一段ずつ石段を下りるたび、母の姿がそこにあるか確かめる。目を離した隙にその背中は消えてしまいそうな予感がした。

 白いフリルのワンピース。裾が濡れるのも構わず、母は歩き続ける。背筋を伸ばし、まるでウェディングドレスを着た花嫁のように堂々としている。石段を下りきると、少女は走った。寄せる波に足をとられそうになりながら走り続けた。

 日傘がふりかえる。その人は、娘の名を呼ぶ。

桐花きりか

 数歩手前で、少女は立ちどまる。息を荒げ、肩を上下させ、涙を溜めた目で母を見上げる。

「どうしたの?」

 母は微笑みながら、素足を波に滑らせた。娘のほうへ歩み寄る。

 少女は顔をくしゃくしゃにして、涙をこらえる。足裏とサンダルのあいだに海水と砂が入りこむのを感じながら、母のワンピースの裾をつかみ頬を寄せる。

「お母さんね、ここにいたの」

 寝息のように柔らかく、母の手が娘の髪を撫でる。

「ここでみてたの。お父さんが、写真を撮るところ」

 桐花は顔を上げ、日傘の影にある横顔をみつめる。母は目を細めて砂浜をみつめている。

「ここに浮かんでいて。波の上を歩けたの」

 そう、あのときもお父さんが。そう言いながら母は石段のほうを指差す。ふりかえる桐花の目に、父の姿が映った。黒のズボンにワイシャツを着て、籐製の寝椅子を肩に担ぎ石段を下りてくる。

「ああやって運んできて。おかしいわね、あの頃、あなたはお腹の中にいたのに。でも、あのときは、波の上にいたときは」

 私のお腹はぺしゃんこになっていたの。母は娘を見下ろし、そう言った。

「きっとそうでないと、重くて波の上に立てなかったのね。あのとき、あなたはどこにいたのかしら」

 瞼を細める母の、日傘をつかむ指先から一枚の写真が落ち、波がさらった。

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