5.現在(1)

 雨が海を走る。押し寄せる黒雲が、海面を翳らせる。

 眼下の光景をみつめていた。遠い崖下、岩場に波が打ち寄せ、砕けては引いていく。そのくりかえしから桐花は目を逸らすことができない。吹きあげる風にセーラー服のスカーフと襟がはためく。足を一歩、前へ進める。

「危ない」

 背後から肩を押さえられた。その手に、思わず自分の手を重ねる。

「大丈夫?」

 ふりかえる。ワイシャツ姿の見知らぬ青年が立っていた。潮風に髪を乱し、はにかんだ顔が幼い。吹き荒れる風に目を細めている。

 頬を冷たいものが打つ。桐花は、曇天を見上げた。

「走らないと」

 青年が林のほうへ駆けだす。桐花は一度だけ海をふりかえった。それから、走りだした。

 雑木林を抜ける細道が雨音に包まれていく。脹ら脛や首筋を打つ雨粒の冷たさを感じながら、飛び石を渡る。木々と泥濘ぬかるみが強く薫る。赤レンガ色の屋根が木々の隙間から姿を現し、先に着いた男が玄関扉を開けた。

「タオル持ってくるから、そこにいて」

「あの、私」

「そこにいて。話したいことあるし、桐花さん」

 思わせぶりな表情をして、青年は奥へ姿を消した。初対面のはずの相手から急に名前を呼ばれ、桐花は言葉を失った。胸に抱える学生鞄が、急に重く感じる。

 ほどなく戻ってきた男にタオルを渡され、桐花は頭や身体を拭いた。幸い、軽く湿り気を帯びただけだった。青年のほうも同じ程度のはずだが、楽しそうにタオルを広げて頭に被ると、わしわしと盛大に腕を前後させた。ぐしゃぐしゃになった髪を、指先で直す。しぐさひとつひとつに喜びが溢れている。

「さ、どうぞ。お茶を入れるから」

 不思議と緊張感がなかった。青年のふるまいに子供っぽさを感じたせいだろうか。そもそも、桐花は初めからこの家を訪れるつもりだった。在るべき場所へ帰るように、扉の向こうへ引き寄せられた。

 薄暗い玄関ホールを見渡す。記憶にある光景と照らしあわせる。幼い頃、たった一人でさまよった家。階段の、優雅なカーブを描く手すりに沿って視線を二階へ、あの部屋へ走らせる。

 青年は、曇りガラスが嵌めこまれた扉を開けた。後を追い、桐花も部屋に入った。湿度が下がるのを感じた。南側に温室があるせいか、明るく感じる。板間に毛足の長い絨毯、革張りのソファセット、陶器の灰皿と据え置きのライターが並ぶローテーブル。

「烏龍茶でいい?」

 そう問われて、桐花は無言でうなずく。「了解」青年は奥の扉へ姿を消した。

 通り雨だったのだろう。出窓から窺う限り、雨足はもう弱まっている。一隅を書架が占めている。大判の写真集や雑誌が多いが、視線の高さの段には文庫本や小物が並んでいる。

 薄衣をまとう少年のブロンズ像が、そこにいた。鈍い光沢を放つ肌には、一点の曇りもない。あの錆は、乾ききった血飛沫しぶきは、跡形もなく拭われている。

 視線を逸らす。額入りのポスターがあった。女性の横顔を写したモノクロ写真だが、明暗の階調が自然ではない。日に灼けたように全体が白っぽく、髪はまるで金属のようだ。

「マン・レイです」

 声のほうをふりかえる。銀色の丸い盆を抱えた青年が入ってきた。どうぞ、座って。そう青年に促され、桐花はソファに向かう。鞄を床に置き、腰を下ろした。

「あれは、デジタルですか?」

「いや、コンピュータで加工した写真じゃないよ」

 楽しそうに湯呑みと急須を次々とテーブルに移す。

「マン・レイが亡くなったのは、たしか七〇年代だからね。ソラリゼーションといって、現像は普通、暗室でやるよね? それをわざと一瞬だけ光を入れる。そうすると、あんなふうに明暗が逆転したり、輪郭が強調されたりするんだ」

 桐花の向かい側に青年は腰を下ろし、急須を手にとった。

「カメラって、機械だからね。絞りとか調節されてて、構図も決まっていれば、あとは誰がシャッターボタン押しても同じ。だからかもしれないね、ソラリゼーションみたいな、いろんな手法が試されたのは」

 急須から湯呑みへ、放物線が落ちていく。立ち昇る湯気が、薄れて消えていく。

「そうそう、名乗ってなかったね。僕は宮月英みやつき えい、美術評論家ってことになるかな?」

 受け皿に置かれた湯呑みを差しだされ、桐花は受けとった。烏龍茶が満たされた湯呑みは熱く、持ち方に苦労する。

「こう言ったほうがいいかもしれないね。僕は、宮月遊の息子だよ」

 自分の湯呑みに茶を注ぎながら、英が言った。

「どうしようかな。こんな日がいつか来ると思ってた。君をこの家に招待するの、ずっと楽しみにしてたんだ。君のほうから来てくれるなんて、思ってもみなかった」

 一口も啜ることなく、桐花は湯呑みを受け皿に戻した。頭の中で、言葉を整理する。なにから切りだすべきか。どの駒を進めるべきか。

「宮月さんは」

「英でいいよ」

「英さんは、私の父とお知り合いだったんですか?」

「篠入春夫」

 湯呑みを口元に運びながら、祈りの言葉のように英はその名をつぶやいた。

「幻想の写真家。二十世紀最後の幻視者」

 八〇年代、世界的にコンストラクティッド・フォトが流行したが、日本では数少ない例外を除いて理解が遅れていた。篠入春夫はその例外の一人と云える。

 一九五〇年代から現代まで、日本の写真界には大きなふたつの流れがある。ひとつは土門拳に代表されるリアリズム写真運動。ありのままの現実をありのままストレートに切りとる「絶対非演出の絶対スナップ」が主張され、社会の暗部や私小説的光景が被写体となった。これらが現代のフォト・ジャーナリズムへとつながっていく。その一方、東松照明らを中心とする「映像」としての写真がある。対象を意識的に捉え、イメージを積み重ね、撮影者の主観を滲ませる。これが現代の「個」としての多様性や主観的光景に眼を向けたイメージ世代につながっていく。

 それに対しコンストラクティッド・フォトは、文字通り完全に構成されたコンストラクティッド虚構の光景を創りあげる。たとえばベルナール・フォコンは、プロヴァンスのラベンダー畑に数々のマネキンを配置し、光まで完全にコントロールした。森村泰昌は古典的名画の登場人物や有名女優に特殊メーキャップなどで扮装し、奇妙なセルフポートレイトを作成した。

「篠入さんも当初はストレート・フォトを志向していましたが、やがてフレアを効果的に利用したり、赤外線カメラを使ったり、ついにはコラージュや鏡とガラスによる複数イメージの重ね合わせに至りました。作品イメージも初期の『甘い』夢幻的光景から、後期には鑑賞者に畏怖を与える『辛い』予兆的光景へと変容していきました。未だに国内より海外からの評価が高い写真家です」

 まるで呪文のように、英は一気に語った。やがて正気に返ったのか、恥じらうように微笑んだ。

「知り合いとはちょっと違うな。年齢差を考えてご覧、生きておられたら篠入さんは五十代半ばだ」

 桐花は納得した。英は見た目からして二十代、桐花の父とは三十も年齢差があることになる。

「僕にとって篠入さんはね、師匠かな。写真を初めて教えてくれた人なんだ」

 桐花は、床に置いていた学生鞄を膝に乗せた。大手の封筒をとりだす。封筒の口に指先を差しこみ、そっと引きだす。

 一葉のモノクローム写真だった。蒼空、浜辺、波打ち際の二人。パナマ帽を被って寝椅子に横たわる男と、胸にナイフが刺さった女が写っている。

「先週、うちに届きました」

 写真を受けとろうとする英の指が、宙に伸びる。細く白い指。

「差出人は書かれていません。消印がないから、うちの郵便受けに直接入れたみたいです」

 英に封筒の裏表を見せながら、淡々と説明する。

「今日になって気づいたんです。撮影場所、この辺りじゃないかって。子供の頃、一度だけここに来たことがあるんです。この家にも入った覚えがあります。当時は空き家でした」

 敷地内に無断で入ってしまったことはお詫びします。鞄を床に下ろすと、桐花は深く頭を下げた。

 視線の先、テーブルの向こうにいる英の膝頭があった。動かない。動いていない。桐花は頭を上げた。英は、モノクロームの写真を凝視したまま、身動きしなかった。いっさいの力が抜けた表情で、瞳だけが炯々けいけいと過去の残像をみつめている。

「英さん?」

 写真を手にした腕をゆっくりと膝に下ろし、ソファに背を預けて英は天井を見上げた。木目調のファンが、音もなく回転している。

「君はみたんだ」

 雨が止んだのだろう。温室からの陽光が強くなった。

「この光景を、夢でみたんだ」

 黄昏の衰えを帯び始めた光線に、英の顔は翳っている。不意に桐花は、現実感が薄れるのを感じた。

「ごめん」

 写真がテーブルに落ちる。手の平で、英は目元を覆う。

「ちょっと、いま、僕は……おかしくなった」

 顔を手で覆ったまま、ゆらゆらと立ちあがり、桐花に背中を向ける。

「来てください。見せたいものがあります」

 君には、ぜんぶ話さないといけなくなった。独り言のように英は小声で言った。

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