3.十六年前(1)

 木目調のシーリングファンが、ゆったりと回転している。夢から覚めた篠入春夫しのいり はるおは、眩暈めまいに似た感覚を味わった。背中にあたる籐の硬さ、全身を包む倦怠感。生温い水のような感情は声にならず、喉奥から肺へ滑り落ちていく。

 身を起こし、室内を見渡す。床から天井まである黒檀の本棚、出窓から望む芝生、振り子が規則正しく揺れる柱時計。籐製の寝椅子から足首を絨毯に下ろす。こめかみに指先をあて、幻の光景をひとつひとつ思い起こす。

 音がした。かすかな足音が近づいてくる。曇りガラスが嵌めこまれた扉が開き、宮月遊みやつき ゆうが姿を現す。リボンタイのあるブラウス、黒のロングスカート。肩まである、軽くウェーブのかかった黒髪。春夫の姿に気づき、目をみはる。ゆっくりと唇を閉じる。

「お目覚めでしたか」

 微笑みながら遊は、一人掛けのソファへ腰を下ろす。手には水色のハンカチを握りしめている。瞼に涙の跡が残っている。

 なにがあったのか、訊くべきだろうか。迷ったが、春夫は気づかないふりをすることにした。顔をうつむけ、目頭を強く指で押さえる。

「いま起きたばかりです。寝過ぎましたね」

 遊はうなずきながら、ローテーブルから薄い雑誌を手にとった。膝の上でページをめくる。やや間があり、不意に顔を上げた。

溝口みぞぐちさん、さっきでかけました。近くに住むお知り合いにご不幸があって」

「ああ、そうなんですか」

 波打ち際の寝椅子。黒いスーツに黒いネクタイ。在るはずのないモノクロームの光景を、春夫はぼんやりとみつめた。

「どうされました」

 雑誌から顔を上げ、遊が眉を曇らせた。

「ああ、いや」

 顔の前で手の平をふりながら、春夫はテーブルに置かれた小さなブロンズ像をみつめた。薄衣をまとい踊るギリシャ風の少年。

「妙な夢をみてしまって」

 まばたきをしても、残像は消えなかった。むしろ印象が強まっていく。あれは、そう。

「夢?」

 美しかった。

「どんな夢ですか」

 このうえなく。

「篠入さん?」

 我に返り、春夫は遊の顔をみつめた。好奇心を露わにした、子供のような表情がそこにあった。

「別に面白くはないですよ。ただの夢ですから。ただ、でてきたのがこの場所で、宮月さんもいて」

「私も? それなら聞かせてもらわないと」

 意地の悪そうな笑みを浮かべ、遊は雑誌を閉じた。春夫のほうへ身を寄せる。

「いや、まあ」気後れして、寝椅子の上で春夫は身動みじろぎした。「短い夢なんですが。表の林、あの道をこう、低く移動するんです。飛ぶみたいに」

 手の平を膝の上で水平に滑らせる。

「玄関に入って、この部屋に飛びこんできて。そうそう、私がソファにいました」

「え?」遊が首を傾げる。「篠入さんの夢なのに、篠入さんがソファに?」

「きっとカナブンにでもなった夢だったんですよ。このラウンジを一周して、階段を上がって、宮月さんの部屋に入って。鏡台に向かって、宮月さんは紙に字を書いてました」

「なんて?」

「なんだったかな。そうそう、普通に書いてなかったな。妙な道具を使ってました。いかにも夢らしい発明品ですね。ハート形で、穴が開いていて」

「そこに鉛筆を立てるんでしょう?」

 春夫は黙りこんだ。

「それならありますよ、見せてあげましょうか」

 遊は雑誌をテーブルへ投げ捨てるようにして戻し、勢いよく立ちあがった。

「紙になんて書いたのか、思いだしてくださいね」

 途中でふりかえり、そう言い残すと、遊は扉を開け放したまま姿を消した。

 春夫は寝椅子から立ちあがると、扉のほうへ進んだ。階段を急ぎ足で上がっていく遊の後ろ姿が見えた。かける言葉が思い浮かばず、ソファへ戻る。腰を下ろし、溜息を吐きながら目を閉じる。さっき話すことのできなかった、夢の終わりの光景が瞼の裏に浮かんだ。

 間違いない。あれは、妻だった。波打ち際に立っていた、白昼の亡霊じみた白いワンピースの女。ここにはいないはずなのに。

 奇妙な予感が、胸の内で膨らんでいく。炎に包まれる写真。あの男女は誰だったのか。構図はもちろん、細部まで異様なほど強く脳裏に刻まれている。ブラウスの繊細な陰影、波の泡まで明瞭に思いだせる。それなのになぜか、誰の顔だったのか思いだせない。

 息を止める。額に手をあてる。瞼を細く開け、耳を澄ませる。気配がした。浮遊する気配。折り畳まれた時が、最大の緊張点で動きをとめる。

 ゆっくり、顔を上げた。壁沿いに視線を走らせる。柱時計が二時十二分を指していた。

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