7.現在(2)
それが届いたのは日曜の朝だった。朝刊と一緒に、郵便受けに差しこまれていた、差出人も宛名もない封筒。私室に戻り、鋏で切り開いたその中身は、手紙ではなくモノクロ写真だった。
美しい構図。それでいて、恐ろしい光景。胸を抉られるのを感じた。魂に影が灼きつき、くりかえし悪夢をみた。女の胸に突き刺さったナイフ、寝椅子にいる男のパナマ帽に隠れた視線。浜辺の静寂と、ガラス細工じみた波。目の前にそれがなくとも、脳裏に灼きついた光景は視界の隅から前触れもなく滑りこみ、桐花の心に不安の波紋を広げた。
桐花には親しい友人がいない。送り主不明の写真のことを、相談できる相手はいなかった。心身に疲労を覚えていた桐花はある朝、魂を奪われたかのように登校路を離れた。気がつけば南へ向かう列車に乗っていた。
胸に蘇ったのは、六才の夏の光景だった。両親と海へでかけた。空き家をさまよった記憶がある。いつしか桐花はまどろんだ。温室で目覚め、両親の姿がないことに気づいた。それからなにがあったのか、記憶はぼやけている。
客観的な事実を記せば、こうだ。桐花の父は失踪した。そして、母は殺された。何者かに刃物で刺され、浜辺に死体が遺棄された。当然、姿を消した父が疑われた。しかし、父と母の不仲を示す事実はみつからなかった。二人と旧知の友人たちは、誰もが父の無実を信じた。母は父の芸術の最大の理解者だったこと、心を病んだ父を母が懸命に支えたことを語る者はいても、その逆を口にする者はいなかった。
桐花の記憶にただひとつ、送られてきた写真と六年前の出来事をつなげる光景があった。空き家の一室で、血に汚れたかのようなブロンズ像をみつけた。恐ろしくなって浜辺へ駆けた。浜辺にはワンピース姿の母がいて、風にもぎとられた写真が波にさらわれた。桐花はそれを拾い、母の手に渡した。そのとき、確かに見た。あの写真と同じ光景が、そこに写っていた。
もちろん、断言はできない。十年前、物心つく頃に一瞬だけ目にした写真を、細部まで覚えているはずがない。あの鏡台の抽斗にあった品々、母の謎めいた言葉、すべてが夢のような感触しかない。前後にどんなことがあったのか、記憶が不連続で覚束ない。
それでも場所はわかっていた。あえて無視してきた場所だった。あえて無視してきた過去であり、正視できなかった記憶とその欠落がある場所だった。そして桐花はいま、その場所に来ている。
「母は、宮月遊は京都の生まれです」
英が桐花を一瞬だけふりかえり、それから階段の一段目に足をかけた。
「十七才で男と駆け落ちし、東京で同棲生活を始めました。その男とは三年くらいで別れたようですね。そのとき生まれたのが僕ですが、未だに父親の顔も名前も知りません。水商売を始めて最初の数年はあちこちを転々としましたが、どういうつてがあったのか最終的には銀座のクラブでホステスになっていました」
二階には短い廊下が奥へ伸びている。天井近くに細長い窓があるため、照明がなくとも不自由しない程度には明るい。閉ざされた木製の扉が一定間隔で並んでいる。
「当時、客だった人たちは例外なく母を褒めますね。明るく陽気で、人当たりが柔らかで心配りを忘れない、なんてね。僕の前では、口を開けっ放しにした金魚みたいになにもしない人でしたけど。六才のときには僕が家事を全部していましたよ。母がよぼよぼのおばあちゃんになったら箸の上げ下ろしまで手伝ってやんなきゃならない、そんなこと心配してましたね」
ドアノブをつかみ、扉を開けて中に入っていく。ためらいを感じつつも、後に続いた。
「そして美術評論家の溝口
窓をレースのカーテンが覆う、薄暗い部屋。埃よけの布はもうない。ベッド、書き物机、クローゼット、そして鏡台。英が身を折り曲げ、鏡台の扉に手をかけると左右に開いた。
「この部屋に、母は泊まっていました」
鏡に映る、自分の顔を桐花はみつめた。いつもどおりの愛想のない顔だった。
「溝口は、遺言状に別荘を母に与えるよう記しました。ドラマチックな想像をすれば、溝口は母にそのことを告げて結婚を迫ったのかもしれませんね。結婚の意志が本気だと示すため、遺言状にそんなことを書いたわけです。正確には母ではなく、僕たち母子に譲渡するという記述でした。僕のことも面倒を看ると匂わせたかったのでしょう。強引で、押しが強く、欲しいものは必ず手に入れる。溝口はそういう性格でした。おかげで僕はこうしてここにいられるわけですが」
英は屈みこむと、なにかを抽斗からとりだした。自嘲じみた笑みが鏡を過ぎった。
「これ、なんだかわかりますか」
手の平にちょうどよい大きさの、黒いハート形の木片。尖ったほうに穴が空いている。穴と三角形を描く位置に、短い二本の脚が垂直に生えている。
「子供のおもちゃですか?」
鏡台に置かれた板のほうに目を走らせ、桐花は言った。古めかしい活字でアルファベットと数字、それにYESやNOといった単語が並んでいる。中世ヨーロッパの書物にでもありそうな、顔のある太陽と月の絵が描かれていた。
「たしかに、これと組みあわせると知育玩具かボードゲームみたいですね」
視線に気づいたのか、英は板を見下ろしながら答えた。
「これはプランシェットと云います。こんなふうに」
板の上にハート形の木片を置き、軽く滑らせる。
「脚に布が貼ってあるので、軽く動かせます。このボードはウィジャ盤。日本の『こっくりさん』と同じですね。霊的存在と交信し、メッセージを受けとるための道具です。複数人、あるいは一人でもいいですが、プランシェットに手をあてて、呪文を唱えます。そして好きな質問をすると勝手にプランシェットが動きだし、ウィジャ盤の文字や単語を選んで返事をくれます。母はこういうオカルトめいたものを信じるたちでした。溝口が喜ばせようとプレゼントしたのでしょう」
「その穴は」
「ああ、これ?」
プランシェットをウィジャ盤から離し、尖った箇所の穴を示す。
「鉛筆を差すんです。自動書記をするときに」
小さな紙片と鉛筆がウィジャ盤の上にあった。英は黄ばんだ紙片にプランシェットを乗せると、穴に鉛筆を挿した。
「こういう状態でプランシェットを動かせば、鉛筆が動いて跡が残るでしょう。ウィジャ盤にある決められた文字だけでなく、自由に図形を描いたりもできるわけです」
英はプランシェットを脇にどけると、紙片を手にして高くかざした。
「なにが書かれていたか、覚えていませんか?」
桐花は答えない。
「こうやって透かしてみると、直線がいくつもあるのはわかるんですけどね。記号なのかカタカナなのか。普通に手で書いたのとは筆圧も弱いですし、かすれてしまってますね」
紙片をウィジャ盤に戻しながら、英は言葉を続けた。
「溝口は、目をつけた者を誰彼となく別荘に招待しました。篠入さんもそうして招かれた一人です。その日、ここには溝口、母、篠入さんの三人がいました」
なぜ父は、篠入春夫は別荘に一人だけで行ったのか、桐花は知っていた。桐花を身ごもっていた母が、出産を控えて実家に戻っていたからだ。
「そして――なにかが、起きました」
英が背を向ける。屈みこみ、鏡台の開き扉にプランシェットやウィジャ盤を戻した。
「溝口と母が死にました。溝口は崖下から発見されましたが、溺死ではなく頭部の打撲が致命傷でした。母は心臓をナイフで刺され、浜辺に放置されていました。明らかな他殺です。篠入さんは精神的外傷を受け、以後はいっさいの創作活動を停止しました」
鏡を、英の無表情な顔が過ぎる。桐花の横を通りすぎ、扉に向かう。
「警察の見解はこうです。プロポーズを断られた溝口が母を逆恨みで殺害、そして崖から身を投げ自殺した。その光景を目撃した篠入さんがショックを受けた」
扉から廊下へ、背を向けたまま英は話し続ける。
「裁判記録を読んだりしましたが、はっきりした物的証拠はありません。溝口と母の死亡推定時刻はほとんど差がなく、理屈だけならば他の解釈も考えられるでしょう。言いにくいことですが、母を殺したのは篠入さんだったとしてもおかしくはない。ただ、動機がなかった。篠入さんと母はそのときが初対面でしたから」
桐花は後を追った。階段を下りようとする英の背中が見えた。
「篠入さんは、夢をみたそうです」
「夢?」
「ふたつの夢を。崖のほうから、林の中の道を抜けて」
階段を下りきった英が、ホールの真ん中でふりかえる。
「玄関からここへ」
人差し指を伸ばし、背後のガラス扉を指差す。
「そしてラウンジへ。ラウンジを一周して」
背を見せ、扉を開けて入る。人差し指を立てた手を頭の上に掲げ、軽く円を描く。
「そしてまたでていきました」
「なんの話?」
「夢の話です。そのとき、篠入さんは自分自身がソファに座っているのを見たそうです。そして二階に上がりました。母がプランシェットで自動書記をしていたそうです」
ラウンジは薄暗くなっていた。明かりを点けることなく英は部屋の中を進み、ソファに腰を下ろした。向かいに座りながら、桐花はあきらめた表情になる。
「夢の話がどうしたんです」
「神の存在を信じない人はいます。しかし神を信じない人でも、神を信じる人がこの世にいるという事実は、受け容れざるを得ません」
湯呑みを手にとり、英は冷めた烏龍茶で口を湿らせた。
「夢から覚めた篠入さんは、母にその内容を話しました。すると母は、プランシェットなら持っていると言って、二階に行きました。その直前、母は泣き腫らした目をしていて、篠入さんは思ったそうです。ああ、溝口と喧嘩したんだなと」
テーブルに湯呑みを戻し、英は瞼を閉じた。説明の仕方を頭の中で整理していたのか、やがて瞼を開いた。
「篠入さんの夢の話を聞いて、母はなにを思ったんでしょうね」
「どうって、ただの夢ですよね?」
「ええ、ただの夢です。でも、ウィジャ盤や自動書記といったオカルトを好む母なら、どう解釈するでしょう。しかも母がそのとき――すでに溝口を、崖から突き落としていたなら」
霊的存在と交信し、メッセージを受けとる道具。
死者の魂と会話する道具。
「夢の中の父は、父ではなかった?」桐花は眉をひそめた。
「崖から突き落とされた溝口の魂が、追ってきた光景。死体を離れた溝口の魂が、崖から林へ、林からこの別荘へ飛んで戻ってきた。時間を越えて、篠入さんは幽霊の視点からの光景を夢でみた。そう解釈するでしょう」
「そんな」怒ったように、桐花が瞼を見開く。
「母もすぐには信じないでしょう。だから、確認しようとした」
「確認?」
「篠入さんが夢の中で目にした、母が自動書記により綴った言葉と、現実に自動書記によって綴られた言葉が一致するか、試そうとしたんです」
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