番外編 Dr.Yamada file.8【 驟雨期 Ⅱ ― 母胎回帰 ― 】

 ヤマダ教授は海水に浸かり考えていた。


 塩分濃度を少し薄めた海水は、まるで母の胎内のような心地よさだ。

 生命の起源、母なる海よ。我々、人類が海に還る日は近づきつつある。


 22世紀初頭、地球では大規模な核戦争が起こった。

 かつて100億人を突破したといわれる世界人口が、この戦争によって10分の1の10億人に激減した。人類は放射能の被爆者、大地は汚染されて、都市は荒廃していった。

 その上、異常気象が地球全域で起こっていた。

 核汚染された地球を洗浄するかのように、一日に何度も激しい雨が断続的に降る。23世紀になっても雨は止まず、百年近く降り続いた。この異常気象のことを学者は、『驟雨期しゅううき』と呼んだ。

 降り止まない雨のせいで、海が増水して地球面積の3割だった陸地が2割にまで減少してしまった。しかも太陽光線が不足して植物も育たなくなり、それにともない昆虫や動物も絶滅していった。

 この惨憺さんたんたる状況下にあって、国家は崩壊し、生き残った人々は都市国家アクロポリスを建築した。放射能と雨を避けるため、都市全体を巨大なドームで覆って、その中で人工太陽を発電させて、作物を栽培、家畜などを飼育していた。

 驟雨期のせいで、いずれ陸地を海に奪われてしまうという恐怖と戦いながら、23世紀の人類は生き延びていたのだ――。


 アクロポリス・ヤマトにある大和アカデミーのヤマダ教授は、生物学会に『ヤマダ進化論』なる自説を発表して話題になっていた。

 ヤマダ教授の唱える『ヤマダ進化論』とは、いずれ地球の陸地が減少して“海の惑星”になると、地上の生物は全て海に還って、水棲生物になるという説だった。

 かつて鯨が海に還って水棲哺乳類になったように、人類もまた海の環境に順応できる生物に生まれ変わるという、すなわち脚がなくなり、ヒレができて、急速なスピードで魚体化することを意味していた。

 当初、この説はとんでもない奇説だと笑い草になった。そのため、ヤマダ教授は生物学会の異端児として、皆から白眼視はくがんしされていたのだ。

 ――だが、最近になって『ヤマダ進化論』がにわかに脚光を浴び出した。

 この説を裏づける証拠がいろいろ出てきたからだ。ここ数年間に生まれた新生児1000人に1人の割合で、五指の間に水かきのような膜があり、一回の呼吸で約10分間は水中に潜れる、肥大した浮き袋のような肺を持つ子どもが生まれている。――彼らこそが、新人類の誕生だった。

 これは放射能の影響だと考えられていたが、人類のDNAが進化を始めた証拠である。


 ヤマダ教授は自説が認め始めたことを誇らしく思う、半面、人類の終焉しゅうえんが近づいてきたことを実感していた。


 ――果たして、海は人類にとってに成り得るのか?


「教授!」

 研究室のドアが開いて、誰かが入ってきた。

「ああ、サトウ君。ここだよ」

「また海水の水槽に浸かっていたんですか」

「そうさ、水槽の中で海を体感していたのだ」

 ヤマダ教授の助手サトウでさえ、『ヤマダ進化論』には懐疑的だった。

 しかし、スキューバーダイビングで海の様子を観察する内に、野生化した犬や猫たちが海中で魚を追う姿を何度も目撃した。人類だけではなく、動物たちも食糧が豊富な海に還ろうとし始めたことをサトウは知ったのだ。

 しかも海には今まで見たこともない、新しい生物も誕生している。海の中から何かが始まっている。――それは否定できない事実であった。


 水槽から上がった教授に、サトウは温かいコーヒーを手渡し、海の様子を話した。

「三毛猫がスナドリネコみたいに水中を泳いで、上手に魚を捕まえていました」

「ほぉ、人類よりも彼らの方が海に順応するのが早そうだね」

「もし海に還ったら、今までの人類の文明はどうなるんだろう。コンピューターや機械を使えない人類はあまりに無防備過ぎる」

「たぶん直立歩行できなくなれば、脳が退化して人類の知能はイルカ並みになるか、しかもヒレでは道具が作れないだろう」

「人類は全てを捨てなければならないんですか?」 

「サトウ君、捨てるんじゃない。我々は生まれ変わろうとしているんだ」

「それは神のなのでしょうか?」

 サトウの問いに、教授は少し考えてから答えた。

「地球は惑星という巨大生物なのだ。それは神とも呼ばれ、思考もするし、感情だってある。これは核兵器によって、地球に牙を剥いた人類へのむくいなんだ」

 宗教やイデオロギーの違い、地球資源をめぐる利権などが絡んだ国家間の紛争だったが、戦争は長期化して戦いが泥沼状態になっていった。それに終止符を打つべく、ある国の主席が最終兵器核のボタンを押した。それを皮切りに各敵国がいっせいに放った『核のドッジボール』によって世界は幕を閉じた。

 核戦争の果て、地上は焦土と化し、放射能で汚染され、多くの動植物が絶滅していった。地球環境まで破壊した、この核戦争の責任を人類はいったいどう取るつもりなのか。

 地球上から消え去った動植物たちは、二度と再生することはできない。


「……愚かな人類は断罪だんざいされるべきなんだ」

 コーヒーカップを握りしめて、ヤマダ教授が呟いた。

「地球が下した、人類への罰が魚になることですか?」

「そうだ。地球は人類という害虫を本気で駆除しようとしている」

「……害虫ですか?」

 その言葉に、サトウは眉根を寄せた。

「ああ、殲滅せんめつされないだけでも有難く思うべきだろう」

「――ですが、教授。狂った独裁者によって引き起こされた核戦争が人類全体の責任だというのですか? ……だとしても、僕らだって被害者なんだ。生まれた時からずっと雨ばかりで、太陽の光をまともに拝んだこともない。図書館のディスクで見た、昔の地球の青い空も白い雲も、小鳥や蝶が飛ぶ姿はもう永遠に見られない。ドームの外は核戦争の果て、破壊された都市の瓦礫がれきの山しかないんだ!」

「結果として、核を作った人類の知能は誰も幸せにできなかった」

「二度と破壊兵器が作れないように、人類は水棲生物へと作り変えられるんですか」

「地球は人類に知能という進化を与えたことが失敗だったと考えているのかもしれない」

「だから魚ですか? 何も考えず生きるために必要なだけの狩猟しゅりょうしかしない。……そんなの! ただの動物じゃないか」

「争いのない平和な地球になるのだろう」 

「僕は嫌だ! 絶対に嫌だ! 愚かだって人類でありたい!」

 嫌々をするように肩を震わせてサトウが叫んだ。

「まだまだ、ずーっと先の未来のことだよ」

「教授、我々人類の未来は……もうないんですか?」

 サトウの問いに、教授は黙り込んだ。


 先日、アクロポリス・ニューヨークで行なわれた生物学学会の後、ヤマダ教授は326のアクロポリス首長たちが一堂に会する『アクロポリス首長会議』に招かれた。

 自説の『ヤマダ進化論』は、首長会議でも議題になっていて、教授自ら詳しい説明を求められた。この学説をまごうことなき真実だと首長たちも認めた上で、人類の存続を悲願する、宇宙移住計画が具体的に議論されていった。

 正常な遺伝子を持つ、15歳から35歳までの健康な男女1000人を宇宙船に乗せて、地球から飛び立ち、新天地を求めて航海するというものだった。

 宇宙移住計画では毎年、一そうづつ宇宙船を打ち上げる予定である。当初の目標としては月、火星、木星の衛星エウロパなどの探査で、人類の居住できそうな星を探しながら長い航海になるであろう。食糧確保のため、乗組み員たちは交代制でコールドスリープ状態に入る。

 しかし人類を乗せた船が航海中に、小惑星に衝突したり、ブラックホールに呑み込まれたりするかもしれない。確実に何処かへ辿り着けるという保証はどこにもないのだ。それでも一縷いちるの望みとして、現在の人類であるホモサピエンスを残そうと、宇宙移住計画を秘密裏に進めていた。

 首長会議の後でアクロポリス首長たちから、宇宙移住計画について意見を求められたが……海に還ったとしても、宇宙に脱出したとしても、どっちにしろ人類にとっていばらの道になるだろう。……と、ヤマダ教授は口をつぐんだ。

 もう少し計画が具体化したら、まだ若い助手のサトウには、こういう計画があることを話してやってもいいと思った。――どっちを選ぶかは彼の意思なのだから。


「生命の起源である海に還るだけさ」

「じゃあ、これは仕切り直しですね」

「ああ、我々人類はもう一度、母なる地球の胎内に抱かれようとしている」


 傲慢ごうまんになり過ぎて、地球を傷つけた人類の愚かしさは、大きな代償を支払うことになった。

 やがて“海の惑星”地球から、人類は新たなる進化を遂げて、争いのない平和な生物になるようにと、母なる地球は願っていることだろう。


 生命の起源、母なる海よ! 

 人類はもう一度、あなたの胎内に還っていこう。


 母胎回帰ぼたいかいき、海は巨大な羊水ようすいなのだ――。

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